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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第15回 『東方見聞録』 岡崎京子 (小学館クリエイティブ)

東方見聞録 表紙

(C) 岡崎京子/小学館クリエイティブ

 岡崎京子、1987年連載作品である。21年目にして初の単行本化だ。この作家のキャリアからすると珍しい、青年マンガ誌掲載作品だ(ほかに、ほぼ同時期の 『 TAKE IT EASY 』 があり、こちらはリアルタイムで単行本化されている)。

 この旧作は、あっけらかんとしたのんきな楽しさや、ほんとうに砂糖菓子のようなかわいらしさ、そして見るものすべてが新鮮に輝くような驚きに満ちた視線でできている。一方、ぼくたちは90年代の岡崎京子の作品世界が、性や暴力の渦巻く苛烈な環境のなかで切迫した感情を描き、ひりつくような痛みと緊張に満ちたものであることをすでに知っている。だが、当時の岡崎京子はこうだったのだ。20年の時を経てタイムカプセルのように届けられた復刻版だからこそ、そこに横たわる「時代」について考えさせるものになっている。

 お話は馬鹿馬鹿しいくらいに単純だ。ハワイに住む少女・キミドリが、彼女のおばあちゃんの結ばれなかった恋人の孫・山田吉太郎君と一緒に東京の「いろんなとこ」に行き、記念写真を撮るというものだ。キミドリと吉太郎君が一緒の写真が53枚集まると「あーら不思議 おばあちゃまの 遺産がもらえ ちゃうの!」というのである。かくして二人は、銀座・国会議事堂・中野ブロードウェイ・国立・原宿・江の島・井の頭公園・青山墓地・神田神保町へ行く。こうした、いささかおとぎ話めいた浮遊感のある設定に恋愛以前の淡い感情を乗せ、「いま」の東京を描き出す。

 もちろん、ここでいう「いま」とは、1987年の東京だ。原宿には歩行者天国があり、吉太郎君の後ろ頭は刈り上げで、中野ブロードウェイの四階には「まんだらけ」ではなく大人のオモチャ屋がある。そして2008年の「いま」の私は、描かれている街並みや風俗の、あまりの「変わらなさ」に驚く。本書にわざわざ「この物語に描かれている時代背景・状況説明等は1987年(昭和62年)当時のものです」とただし書きを入れざるを得ない程度には、ここに描かれた21年前の「風景」は「いま」と連続している。これがもし1987年と1967年の間であれば、ここまで「風景」は連続しなかっただろう。そもそも、20年間の時代の変化といえば、もっと激しいものだったはずだ。

 もちろん一般論としては、バブルを境に東京の風景は一変したといわれる。また東京湾岸をはじめとする各地の再開発によるビル群も、当然のことながら87年当時にはない。駅の改札だってまだまだ自動化は完了していないし、郊外のファスト風土化もまだ到来していない。ただ、生活のインフラにかかわる環境の整備が80年代なかばにはほぼ完了していたということは言えるだろう。コンビニ、ファミレス、レンタルビデオ店といった都市生活のアイテムが出揃ったのも、ちょうどこの時期である。つまり、これより前は生活のインフラにかかわる諸々が次々と更新され、ライフスタイルが激しく変化する時代であり、80年代なかばより以降は、インフラの整備が終わり、携帯とインターネットを除けば、基本的にはマイナーチェンジが繰り返されている時代と区分できる。この作品が描く「いま」は、そのちょうど端境期にある。

 そんな1987年、ぼくが20歳のころ、20年前といえば「ものすごい昔」だった。そしてその「昔」は、いつも「いま」よりも貧しく、不便な暮らしとして語られていた。つまり、暮らしの環境の落差という形で、「いま」と「昔」の時間差を感じることができた。また、1987年のぼくにとっては、「昔」とは、左翼学生たちが騒乱を起こした時代として捉えられていた。予備校に行けば元左翼の講師がひと山いくらでいたし、大学の先輩筋にあたる「その手のひと」との接点もあった。一方、「いま」の文化的な暮らしを享受していたぼくたちは、髪の毛を短く刈り上げ、輸入盤屋の店頭で見かける中途半端な長髪のおじさんたちを「70年代ひきずり」と、陰で小馬鹿にすることさえしていた。「昔」は、あたりまえのように更新されるべき遅れたものだった。若さゆえの馬鹿げた気負いでもあったのだけれど、そんな気分が許される時代だったのだ。

 だからぼくがこの作品を見て、「懐かしい」と素直に思えないのは、何も風景の変わらなさのせいばかりじゃない。この可愛らしい作品が、いったん「昔」を忘却したうえで、若い「私たち」の「いま」しか描かないというセンスに貫かれているように見えたからだろう。そのセンスが、80年代に特有のものなのか、00年代後半の「いま」の若いひとも共有できるものなのか、判然としないのだ。もし80年代に特有のものと決められるのならば、ぼくは安心して苦笑し「懐かしいなあ」と言えただろう。でももし、このセンスが「いま」も共通する若いひとのものであるならば、00年代の「いま」と、80年代の「いま」が、べったりと地続きということになってしまう。

 少し腑分けをして考えてみよう。作中、主人公のキミドリは、街頭のさまざまなものに、いつも好奇の目を向ける。それは世界を急速に広げていく過程の少女の視線であると同時に、作者・岡崎京子の視線でもある。少女の視線が常に事物を新鮮なものとしてとらえるのは、彼女が歴史的な蓄積を持っていないからに他ならない。彼女の視線があくまでも個人のものに限られる場合、それは2008年の「いま」の若いひととも共通する、単に普遍的なものになる。たとえば、中野商店街で「中野って アンコ関係の店が 多いなあ」と思い、今川焼の貼り紙(一ケ 90円。おお、値段まで現在と変わってないではないか)をじっと見つめるキミドリの視線。んな視線のありようは、いまでも若いひとたちの共感を呼ぶものだろう。これはたぶん、年代とは関係がない。

 だから、歴史的な蓄積を持たない少女の好奇心に満ちた視線が、どのような価値を帯びていたか、というところまで踏み込んで、ようやく事態がはっきりするような気がする。たとえば、代々木公園で「しかし、ホコ天に ブランドナウな人が 新宿の丸井より ぐっと少ないのは 何故だ!?」と思うキミドリの視線。「ナウい」かどうかの評価を下すことは、当時は「若者」の特権としてあった。このセンスは確かに、あきらかに「過去」の、80年代ものだ。

 ここに奇妙な逆説がある。「ナウい」とは、まさに過去の時代を更新されるべき「昔」として忘却しようという運動を象徴する言葉だ。しかし、20年後のいま、そうした身振りのほうが決定的に古く見えてしまう。一方、学校などで接する「いま」の若いひとたちは、真の意味で過去の忘却の上にいる。彼らの多くは、サブカルチャーの蓄積について、ほとんど何も知らない。といっても、彼らを責めることはできない。だって、彼らにそれを伝える回路を作ってこなかったのは、上の世代の責任なのだから。もちろん、20歳のぼくらにしたところで、過去の蓄積をよく知っていたわけではない。だが、ぼくたちには「忘却」に居直ることのできる免罪符があった。「過去」はみな、不便で、貧乏で、格好悪いものだった。そしてその根拠は、街並みにも、道路にも、家にも、家具にも、什器にも、身の回りのどこにも求めることができた。

 ぼくは、かつてのぼくらがそうしていたように、いま18歳の彼らもきっと陰でぼくらのことを「80年代ひきずり」と小馬鹿にしているのではないかと思ってきた。いまの20歳にとって20年前が「ものすごい昔」なのは変わらないだろう。自分の人生で生きた時間の総和と比較されるのだから。しかし、実際のところはどうなのか。そもそも、「昔」を更新されるべき遅れたものとして退けるセンス自体が、実は80年代なかばまでの、生活インフラの整備が発展途上にあった時代の刻印ではなかったのか。それ自体が古い、いや普遍性を持たないごく限られたものではなかったのか。

 本書の解説で、マンガ評論家の藤本由香里は東京の風景は同じなのだが、雰囲気は確実に変わったと記している。岡崎の作風も、そうした時代の変容に合わせて、余裕のないものとなり、切迫感を増したという。
 風景の変容なき時代の変容。それは「時代」というものをとらえるフォーマット自体の変化であるように思えてならない。藤本が「雰囲気は変わった」としか書き得ないような、そういったとらえにくいレヴェルの変化である。ぼくたちは、と言ったとき、そもそもその言葉が何歳から何歳くらいまでの世代を含みうるものなのか、それすらも曖昧なものとなってしまう。そういう時代にぼくたちは暮らしている。キミドリの、あまりにキュートでまっすぐな視線との「再会」は、そんなことまで考えさせてくれた。(伊藤剛)

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