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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第16回 『駅から5分』 くらもちふさこ (集英社)

駅から5分 表紙

(C) くらもちふさこ/集英社 現在1巻まで発売中、以下続刊

 1972年デビューのベテラン少女マンガ家・くらもちふさこは、「ふつうの読者」と、手練れの「マンガ読み」の両方に支持されている希有なマンガ家であると思う。
 私(1968年生まれ)と同年代の、あまりたくさんマンガを読まない「ふつう」の女性で、ふだんは熱くマンガを語ったりしないのに、くらもち作品の話になると目を輝かせる人はとても多い。わけても、作品に登場する男子のカッコよさの話になると、盛り上がることこの上なし。『いつもポケットにショパン』のきしんちゃん、『いろはにこんぺいと』の達(とおる)ちゃん、『東京のカサノバ』のちいちゃん(「ちい兄ちゃん」の暁)、『チープスリル』の手塚教官。みんな、ちょっと意地悪だけど優しくて、本当にカッコいいのだ。

 一方で、ディープなマンガ読み読者にも、くらもち作品は評判がよい。スタイリッシュな絵柄でほのぼのとした田園ライフを描いた『天然コケッコー』は、誰もが共感できる感情を描きつつも手法はときに革新的、という意欲作。また、くらもち作品の特徴である構成の巧みさは、雑誌掲載時と単行本収録時で掲載順を変えることによって、まったく違う物語が立ち上がってくる、というしかけで読者を驚かせた『α(アルファ)』で、多くの人の知るところとなった(『α(アルファ)』は、この2月に出た文庫版では、最初の雑誌掲載時の順番でまとまっている。単行本でもっている人も、この機会に読み比べてみるのも一興だと思う)。

 ・・・・・・と、さんざん訳知り顔で語ってきたのだが、実は私は、お恥ずかしいことに、リアルタイムのくらもち作品読者ではなかったのだった。ありがたいことに、周囲のマンガ読みの方々が、熱く、そして的確にその魅力を語ってくれたことによって、そのすばらしさに開眼したという、読者としては超新参者なのである。
 なぜリアルタイムで読んでなかったのか、というと、そこには自分なりの、くだらなくも切実な理由があった。
 私の中学・高校時代、くらもち作品が発表された『別冊マーガレット』は、「マンガ『も』読むけど、でも『別マ』だけ」みたいな、「ふつうの女の子の読者」が支持している、「学園を舞台にした、男の子と女の子のラブストーリーが載っているマンガ雑誌」というイメージだった。当時の私は、少女マンガのみならず、少年マンガやアニメにも目覚めた頃で、時間的にもお小遣い的にもそちらを追いかけるのだけで手一杯だった(そういえば、中学では運動部の部活までやっていた。10代って・・・・・・忙しくて・・・・・・そして、元気だなぁ・・・・・・)。
 さらにおそらくは、きちんと言葉にして考えてはいなかったけれど、当時「女の子向け」とされる雑誌に漂う「要するに女の子って、オシャレと恋愛と食べ物にしか興味ないんでしょ」的な空気に、無意識に反発する気持ちもあったのだと思う。「女の子ってこんなもの」と、限定しないで欲しい、少女マンガ誌を、「恋愛」というワンテーマ・マガジンだと、勝手に決めつけないで欲しい、と。小学生のときにはさんざん『りぼん』を愛読してかわいいラブストーリーに楽しませてもらっていたくせに、なんだかなあ、という感じだが、そんな幼い反発心が当時、「学園もの少女マンガ」から私を遠ざけていたのかもしれない。
 それから幾星霜。さまざまな葛藤や現実との格闘という曲折を経て、ぐるーっとひとまわりした今、くらもち作品を改めて読んでみて、しみじみ思う。
 カッコいい男子にときめくこと。
 それは、全然「いけないこと」でも、「女の子を縛ること」でもなかったんだ、と。
 カッコいい男子にときめいたり、オシャレや美味しいお菓子が好きなことと、ひとりの人間として毅然と生きること。それは相反することじゃなくて、ひとりの人間のなかに同時に存在できちゃうのだ、ということが、自然な気持ちで受け入れられるようになったのは、不器用で視野の狭い私が、だいぶん大人になってからだった。そんなまぬけな読者の私が「遅刻、遅刻」と(少女マンガ風に)口にトーストをくわえて急いで走ってきても、なんと幸運なことに、くらもちふさこは現役の少女マンガ家として、新作を発表してくれていたのだ。さらなる洗練と進化を続けながら。
 ああ、まにあって、よかった。

 『駅から5分』は、東京・花染町を舞台に、年齢も立場もさまざまな人々が登場するお話だ。たとえばepisode1は、ページをめくるとまず、「つき合わねえ?」というクラスの危険分子・沢田君の、よし子への告白から始まる。その直後、沢田君は事故で記憶を失い、よし子のことも自分のことも忘れて別人のようになってしまう。なんとも思ってなかったのに、記憶を失ってからそっけない沢田君がなんとなく気になるよし子だったが・・・・・・。こう書いてくると、告白!そして、記憶喪失!! と、その展開には「う〜ん、王道!」と感心してしまうのだが、読んでいるときは不思議と「えっ、どうなるの?」と新鮮な気持ちでひきこまれてしまうし、その鮮やかな「謎解き」には「おおおー」と唸りつつ、さわやかで甘酸っぱい気持ちになってしまう。
 全体には、大事件が起こるわけじゃない。でも、episode2の真面目な36歳の公務員・野生子さんのトボけたおかしさと何かが終わって何かが始まるかんじや、episode3の小学生・るりちゃんと両親のおかしな行き違い(ある意味での幸福な誤解)、そして、episode4のネットの表現には、本当にすごい!と感嘆してしまった。episode5では、要所要所にちらりと姿を見せていた美貌の生徒会長で神主の息子、「圓城君」が、不思議ちゃん女子大生・水野さんにアタックされて・・・・・・という形でベールを脱ぎ始めて、これまたドキドキする。
 本作は、一見、1話ずつ独立してるようで、それぞれが少しずつつながっていて、そのつながりがパズルのように浮かび上がってくるしかけなのだが、ストーリーや道具立ては王道なのに、読後感はすごく新鮮だ。その新鮮さは、あらすじを説明してもこぼれおちる「何か」が原因だろう。その「何か」こそが、たぶん、くらもち作品の真骨頂。それは、空気感というか、ニュアンスというか、とにかく作品を読むことでしか味わえない「何か」なのだ。そしてもちろん、本作でも、男子はちゃんと、すごくカッコいい。そんな粋なくらもち節の現在形である『駅から5分』は、『コーラス』誌で不定期連載中だ(現在、episode1 〜 5を収録した単行本1巻が発売中。最新のepisode10は、4/28発売の『コーラス』6月号掲載予定)。
 かつてのくらもち作品読者にも、新たな読者にも、「いま生み出されつつある物語を読めるぜいたくな喜び」を、ぜひ、体験してみて欲しい。(川原和子)

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