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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第69回 『マコちゃん絵日記』 うさくん (茜新社)既刊3巻

『マコちゃん絵日記』 うさくん (茜新社)

(C)うさくん/茜新社

 いわゆる「萌え四コマ」も含めて、可愛いキャラをベースにした軽いコメディについて、実のところぼくはあまり良い読者ではない。店頭で見つけて、買うには買うのだがそのままにしてしまうことが多い。この「うさくん」という作家の作品もそうだった。購入するだけで満足してしまうのか、もっとほかの理由なのかは判然としない。一般に、可愛いキャラをベースにしたコメディ作品は、疲れた体が甘いものを欲するように、疲れた心が萌えを欲するといった消費をされている。そこには読者の人生にさえ一撃をくらわすような、そういった重さはない。そんな「軽さ」をたたえているはずのものをあらためて「読む」のが、なぜか億劫だったりするのだ。

 だが、『マコちゃん日記帳』は違った。見当ちがいだったのだ。
三巻のエピソード、クリスマスの子供会の回で、「デラックス版踏切」のくだりを読み、ぼくは三分間ほど笑い続けた。何がそんなにツボに入ったのかと頭の隅で思い続けながら、笑いが止まらなかった。と同時に、すれっからしのマンガ読みである自分が、これほどマンガで「笑えた」ことが嬉しかった。久しぶりの感覚だった。

 生活ギャグマンガである。個別のギャグの何にどう笑ったのかをくだくだしく説明することほど不毛なことはないので、まずは大まかにどんなマンガかを紹介することにする。主人公・マコちゃんこと綿貫真琴は小学五年生の女子である。彼女の家族や友達たち、そしてその家族や先生たちをめぐって、日常の愉快な様子が描かれるわけだ。このマンガの魅力は、微妙な「いまどき感」と、その「いかにも現実にありそう」な印象と裏腹のぶっ飛んだネタにあると思う。ギャップといえばギャップだが、それが一体になっているあたりがおかしい。

 マコちゃんは子供らしい(考えの浅い)計算高さと、やはり子供らしい天真爛漫さを兼ね備えた元気な子だ。友達には、しっかり者のお姉ちゃんキャラである石田多美ちゃんや、いつもフリフリの服を着ている松小路聖羅(しょうこうじ・せいら)ちゃんらがいる。こうした友達キャラの配置は、従来からの生活コメディマンガのフォーマットを踏襲しているように見える。たとえば、聖羅ちゃんは「お金もちのお嬢様」のポジションにいる。美味しいおやつや、新しいおもちゃなどを主人公たちにもたらす役割を担っている。

 だが、その彼女の服のセンスが母親のものであることや、友達母娘的な仲の良さを露骨に見せているあたりが、「いまどき」な感じがするのである。言い換えれば、いかにも現実に「ありそうな」感じがある。またあまり経済的に豊かではない(といって、貧しくもない)マコちゃん一家が、公団住宅と思しき集団住宅に住み、マコちゃんは中三のお兄ちゃん・繁と一つの部屋をシェアして二段ベッドで寝ているあたりも「いかにも」である。

 その一方で、ギャグなネーミング、さまざまな意匠のセンスが、どうにも「変」なのだ。
 主人公・マコちゃんのお父さんはぬいぐるみ作家である。彼の作る創作ぬいぐるみはいまひとつ売れておらず、マコちゃんのお母さんはパートに出て家計を助けている。ここまではいい。問題はお父さんが作るぬいぐるみオリジナルブランド「わたわた」だ。
 これが「私の内臓綿ばかり」という名の略称というのは、あからさまに変だが、まだいい。作品中ではなく物語外のおまけページにしか、この正式名称がでてこないからだ。だが、「わたわた」の見た目の絶妙な「かわいくなさ」が、「さすがにこれは現実にはないわー」感を醸し出している。

 「ぶっ飛んでいる」と言い、「さすがにないわー」と言い、「変」と言っているこうしたセンスは、巻を追うごとにエスカレートする。
 たとえば、物語内でマコちゃんたちが夢中になっている少女マンガ「マゲ天」こと『レッツマゲマゲ!! サムライエンジェル』。「りりかる」なる少女マンガ誌に連載され、女子中学生ふたりが「ご先祖のマゲ」をつけてサムライエンジェルに変身するというものだ。イケメンキャラに「接吻忍者」が登場したり、何かというと主人公が切腹しようとしたりと、作中に作者が仕込む、いかにも「悪ふざけ」的なパロディがどんどん突っ走っていくさまがおかしかったりする。いわば、作者の手つきを視界の隅で意識しながら笑うというセンスだ。
 同様のことは、マコちゃんたちが暮らす地方都市・手々熊町のオリジナル体操「てでっ子体操」にも言える。「金の貸し借り 絶対するな もめるよ もめるよ100%」なんて歌詞は、行政が子供にさせる体操には絶対に出てこない。「これはないわー」というやつである。

 しかし、「笑い」の源泉が、悪ふざけをエスカレートさせていく作者の手つきにのみ求められるかといえば、そうではない。私たちは、私たちの日常の環境が、行政も、少女向けマンガも、「これはないんじゃ?」というような妙なものに囲まれていることをすでに知っている。「ゆるキャラ」による町おこししかり、「キモかわいい」グッズのヒットしかり。「わたわた」にしても、そのコンセプトにある「真面目なひとが一生懸命面白いことを言おうとしている」感が、「あるいはこれは現実に起こりかねないかも……」と想像させてしまう。

 そう、われわれの日々の生活がすでに「妙なもの」に覆われていることに気づくとき、「マコちゃん」世界の「変さ」は、単にエスカレートした悪ふざけとして扱っていればよいものではなくなる。逆に、「まともなもの」と「変なもの」の境界が曖昧なものとなり、悪ふざけが悪ふざけとして機能しない「いま」の反映として読むことができてしまうのだ。
 先にぼくが笑い転げたというう「デラックス版踏切」のくだりも、物語展開上は「いい話」である(少なくともそういう構造の上に置かれている)。だが、だからこそ笑える。具体的には実際に読んでみてほしいが、ここでも重要なアイテムは「わたわた」のぬいぐるみだ。あの顔のデザインは秀逸すぎるだろう。

 「境界」が曖昧になりつつある「いま」の反映を読み込むならば、もうひとつ大きな要素がある。それは大人と子供の「境界」だ。『マコちゃん絵日記』は、子供たちの世界を描いているようで、その実、マコちゃんたちの親や先生たちを描く比率が思いのほか多い。それも子供から見た「親」や「先生」ではなく、ふつうの「大人」が自分の都合や欲望で動いているさまを見せている。それは子供からは「見えない/見えていない」はずのものだ。しかも聖羅ちゃんのママのように、子供と一緒になって遊ぶ親も登場する。
 『マコちゃん絵日記』は、一方で日常の出来事を微分し拡大することでおかしみを生み出すという側面を持っているが(その点は、だらしない30歳主婦の生活を緻密に描いた、久住昌之・水沢悦子『花のズボラ飯』とも通じる。絵柄も、コマのテンポも、そっくりだ)、それは、この「大人の生活/子供の生活」の境界をおそらくは意図的に曖昧にしていることとも関係しているだろう。

 いま現在、実際に「子供」として暮らす年齢の小さい読者が、これをどう読むかはわからない。意外と「背伸びして」読むマンガなのかもしれない。『マコちゃん』の世界は、家族の愛情や、子供たちの友情などがきめ細かく描かれた、基本的に悪意のない優しい世界である。性的な描写もとくにない。それゆえ、あらゆる規制の対象になるものではない。だから、小さい読者にも薦められるかなという気はしつつ、まだ早いよ、もうちょっと大きくなったら読みな、という気持ちもある。見なくてもよい、「大人」のダメさも描かれているからだ。なかなかアンビヴァンレントなのだ。

 最後に、掲載誌について「けっこうガチな成年向け雑誌です。18才未満の方は絶対読んじゃダメ!」と注意書きがされていることも付け加えておこう。『マコちゃん絵日記』や「うさくん」という作家名は、掲載誌の関係でまだまだ一部にしか注目されていないのだ。ただ今後、『花のズボラ飯』とともに話題になることは必定だろうとも考えている。個人的には、「水沢悦子」と書いて「うさくん」と読むことにしている。まあ「秋刀魚」と書いて「さんま」と読むようなもんだ(笑)。

(伊藤剛)

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