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横浜の波止場から

第1回 横浜ことはじめ

 嘉永7年3月7日(西暦1854年3月31日)、アメリカ合衆国東シナ艦隊を率いるマシュー・カルブレイス・ペリー提督は、楽隊を含む海軍将兵500人と一緒に、東海道は神奈川の宿からそれほど遠くない武蔵国横浜村に上陸した。

 前年はじめて浦賀沖に来航し、フィルモア大統領の親書を幕府役人に手渡して開国を迫ったペリーとその艦隊は、いったん江戸湾を去る。その年の冬を琉球と香港で過ごし、年が明けると再び江戸湾に姿を現した。ペリーの要求に抗しきれないと覚悟した幕府指導部は、横浜村に応接所を建てて交渉に臨む。そしてこの日ペリーを改めて迎え入れ、日米和親条約が正式に締結されたのである。

 日本はこうして200年以上続いた鎖国を終え、アメリカ合衆国との国交を樹立した。続けてイギリス、ロシアとも同様の条約を締結し、世界に門戸を開く。

 現在横浜港大桟橋の入口付近には、開港広場という名の小さな公園がある。日米和親条約調印を記念して設けられた。ペリー艦隊に随行した画家ハイネが上陸の有様を描いた絵を見ると、このあたり一帯は静かな浜であったようだ。絵の中央を、ペリー以下米海軍将兵が隊伍を組み応接所へ向かう。右側に威儀を正したアメリカの兵隊が一列に並ぶ。周りを幕府の役人が取り囲んでいる。沖には旗艦ポーハタン(蒸気船)以下、米国東シナ艦隊の艦艇8隻が停泊する。絵の右端には、水神の祠と立派な玉楠の木が描かれている。

 幕府応接所のあった正確な場所は、わからないらしい。開港広場の碑には、近くに建つ神奈川県庁周辺と記されている。この広場の西隣には1931年に建設された元英国領事館の建物があって、現在は開港資料館として利用されている。入口を入ったところに中庭があり、その中央に1本の立派な玉楠の木が立つ。ペリー上陸の図にある玉楠の木は、慶応2年(1866年)の大火でひどく焼失し、大正12年(1923年)の関東大震災でも大きな被害を受けた。そのたびに傷ついた木の一部を英国領事館に移植し、大きく育てたものだという。ペリー上陸を見ていた一本の木が、その記憶を子孫に伝えながら、今でも横浜の中心で生き続けている。

 日米和親条約締結から4年後の1858年、和親条約の規定により下田に赴任した初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスの粘り強い交渉が実を結び、日本と米国は新たに日米修好通商条約を締結した。これにより日米間で本格的な通商関係が開始される。今年2008年は、それからちょうど150年にあたる。同じ1858年、築地鉄砲洲にある豊後国中津奥平藩江戸藩邸の座敷で、若き福澤諭吉が数人の書生を相手に蘭書の講読を始めた。それゆえ慶應義塾は、今年創設150年を祝う。

 日米修好通商条約は、幕府が貿易のため5つの港を開くことを約束していた。この取り決めに従い、幕府はペリー上陸の地周辺に2つの小さな波止場を急遽建造し、翌年1859年、神奈川の港が正式に開かれる。現在の横浜港は、こうして誕生した。横浜市は来年開港150年を盛大に祝う計画を立てていて、港のあちこちに早くも開港150年を記念する旗が掲げられている。

 日米和親条約締結からほぼ154年、開港から149年経って、横浜は静かな一漁村から日本有数の大都会に発展した。そもそも多くの人が、横浜といえばJR横浜駅とその周辺を思い浮かべるであろう。横浜市という行政単位は、北は東京急行田園都市線沿線、西は鎌倉や藤沢のとなりまで広がっている。しかし本来の港町横浜は、JR桜木町駅から東、関内駅の北に位置する、比較的狭い地域を言うのである。

 開港と同時に、この地域は居留地と呼ばれる外国商人の専用地域となった。当時の通りや街区は現在もほぼそのまま残っており、たとえば居留地80番地は現在の山下町80番地と重なる。今はホテル、マンション、レストラン、そして役所や美術館が立ち並び、週末は観光客で混雑する山下町、中華街、そして山手町一帯だが、少し丹念に歩けば、そこここに開港以来の歴史の跡が残っている。

 こうして横浜は長崎に代わり日本が世界に開いた窓となり、ずっとその役割を果たし続けた。特に開国当初からアメリカとの縁は深く、この港は日米関係の推移を、両国間で戦われた戦争とその後の占領も含め、見続けてきたのである。外国と往来する交通手段としての客船は、旅客機にその座を奪われ、華々しい太平洋航路の時代はとっくに終わっている。しかし少々耳を澄まし目を開けば、この港町のそこここに、アメリカの香が残っているのである。

 大桟橋と山下埠頭のあいだに広がる山下公園、その一角に、生垣で囲まれた童謡「赤い靴」を記念する女の子の像が建つ。像の横の説明板に、この童謡の歌詞が記してある。

「赤い靴はいてた、女の子、異人さんに連れられて、行っちゃった
横浜の波止場から、船に乗って、異人さんに連れられて、行っちゃった
いまでは青い目に なっちゃって、異人さんのお国に、いるんだろ
赤い靴見るたび、考える、異人さんに会うたび、考える」


 野口雨情作詞、本居長世作曲のこの有名な童謡は、横浜と西洋、横浜とアメリカのあいだの、バタ臭くてロマンチックな関係を思い起こさせるだけではない。双方のあいだに存在した複雑な思いをも、多分に表しているように思える。歌詞にあるとおり、日本人はこの横浜を通して、西洋そしてアメリカと向き合った。そしてそこから、海を超えた数多くの友情と理解、そして敵意と誤解が生まれた。横浜は西洋文明を取り入れた日本近代の、長い道のりを考えさせる。

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