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大学 インテリ 教養 竹内 洋

第一回 高学歴ワーキングプア  教養難民の系譜(1)

 大学院生が急増して、行き場がなくなっている。大学院(博士)ワーキングプアについて最近はよく知られるようになった。京都大学では、判明分のオーバードクター(博士の学位をもつか博士課程の単位取得者で定職のない者)だけで1,000人を超えている。だから最近の大学教員の公募では、1名採用のポストに50人の応募者はざら。100人を超えるのも珍しくない。大概の応募者は不採用になるから、非常勤講師をたくさんやって、生活するしかない。ところが非常勤講師手当は週1コマの授業で2万5,000円前後(月収)といったところが相場。7コマ以上やってやっと食いつないでいるという話もよくきく。その非常勤ポストも1年契約だから不安定極まりない。かりに運よくアカデミックポストを得ても数年の任期制で、任期が終わればまた元の木阿弥になってしまう。派遣切りの大学教員版である。
 それもこれも1990年にはじまった大学院重点化のつけである。それまでの大学院は、大学院修了後の就職口を考えて定員以下にしか学生を入学させていなかった。古い数字だが1960年の入学定員充足率は、修士55%、博士40%だった。面接のときに、「修了後の生活は大丈夫かね」と聞いた教授もいたほどである。それでも、博士課程をでて、1、2年浪人しなければ就職できないほどだった。大学院重点化は、大学院生を定員どおり入学させること、そして課程博士号を取得させる教育体制を旨とした。重点化がはじまった1991年の大学院生数は約9万9,000人。ところが重点化によって大学院生数はどんどん増えた。いまや26万3,000人(2009年度)と、重点化以前と比べて3倍にも増えている。供給に対して需要のほうはどうか。大学院重点化の時代は、大学進学率が頭打ちになり、かつ少子化の時代だから、大学教員需要は微増にとどまっている。2,000人から3,000人程度。それに退職者の補充分を加えてせいぜい数千人程度のポストでしかない。
 博士課程修了者のほうは約2万5,000人。もちろん博士課程修了者の中には、医師や技術者などの専門職になる者もいるが、多くは大学教員を希望している。供給が2万5,000人で、需要が数千人というと、数倍程度の競争率にみえるだろう。しかし、これは、当年度の修了者だけを考えているからである。重点化がはじまったときから、毎年2万人以上の修了者をだしていて、その多くがアカデミック・ポストにつけていないから、過年度修了者がこの競争に参入してくるから、冒頭にいったようにひとつのポストに100人を超える応募が生じるのである。いまのままでは高学歴ワーキングプアは増大するだけである。

つぎつぎにハードルを高められている

 高学歴ワーキングプアの悲惨な状態については、水月昭道『高学歴ワーキングプア』(光文社新書、2007)に詳しいが、そこでは大学院に在籍して10年(休学を含む)で34歳になるEさんの事例が紹介されている。Eさんはこういう。
 「最初は、こんなに長くなるなんて思ってもいませんでした。博士号がなかなか取得できず、気がつくと今になっていたというわけです」
 「その頃(約10年前)は、まだ博士号を持っていなくともよかったんです。ですが、5年ほど前から状況が変わってきました。大学教員の公募に際して「博士の学位を有していること」という一文がやたらと目につくようになってきたんです」
 「そのとき、博士号を取得しなければ仕事にありつけないことを、はっきりと自覚しました」
 Eさんは、大学院でそれなりに頑張って論文を書いてきたが、その間、就職はできず、これからは博士号取得者でなければ、大学教員にはなれないと、知らされて、「力が抜けました。一体、何のためにここまで必死にやってきたのか。そう思うと、やりきれませんね。この10年はなんだったのかと思います」「無駄に振り回されたように思います。もしかするとこれから一生フリーターかと思うと、死にたいような気持になりますね」と語っている。
 しかし、いまや博士号を取得したからといって、それだけで就職できるわけでもその確率が格段によくなるわけでもない。就職のための必要条件以上のものではない。最近の応募者は博士号取得者が少なくないからである。
 大学院博士課程の大学教員志望者が需要をはるかに上回ることから、大学院での単位だけの取得では、いくら執筆論文数が多くとも不十分で、博士号取得が必要となったといわれた。そういわれたときに、多くの院生は(課程)博士号取得こそ就職の道とおもった。しかし、いまや博士号取得者はあふれ出した。博士号だけでは不十分で、著書が必要だといわれだした。しかし、この著書のほうも、早晩ほとんどの大学院修了生が執筆し、刊行するにいたるであろう。現に、課程博士取得者の出版ラッシュがはじまっている。つぎつぎとハードルを高くされ、希望がつなぎとめられる仕掛けは、今度こそはうまくいきますよと、新しい賭け金が要求され、骨がらみ搾取される詐欺の手口に似ていなくもない。博士課程やオーバードクターでの投資(努力と機会費用など)は大きいから、撤退するわけにはいかない。いままでの損失分を取り戻そうとするから、さらに投資をするのと似ている。いまの大学院生がいろいろ試みて、万策つきたとさとるのは、30代後半から40代にかけてだろう。さきのEさんの「無駄に振り回されたように思います。もしかするとこれから一生フリーターかと思うと、死にたいような気持になりますね」という悲痛な言葉は大量の(元)大学院生たちのものなのである。大学院重点化のつけは大きすぎるほどである。
 こうした近年の大学院修了者の就職事情が入学志願者に反映してか、2009年度の大学院入学者は前年度からくらべて法科大学院や会計大学院などの専門職大学院進学者は増えたものの、全体でみると修士課程で100人、博士課程で900人、あわせて1,000人減っている。博士課程への進学者はなお減る可能性があるが、減ったからといって、高学歴ワーキングプア問題はなくなりそうではない。大学教員需要が大幅に増加するか、大学院博士課程修了者の受け皿が大学教員とは別に大幅に増加する見込みがいまのところ立っていないからである。

わたしの場合

 そういう意味では、わたしのような世代(1942年生まれ)の大学院修了者は、いまからみれば、はるかに幸せな時代だった。大学院博士課程に進学し、満期退学して1、2年待てば、なんとか大学教員の就職がまわってくる時代であったからである。というのは高度成長によって大学進学率があがり、日本の大学数や学部数が急速に増えたのは1960年代半ばからである。1965年の大学入学者数は約33万人、10年後の1975年のそれは約59万人。10年間で1.8倍に増えている。
 この間の入学者増への対応は、私立大学などでの定員の2倍入学という水増し入学などもあったが、既存の大学は経営学部や社会学部などの新学部を設置した。新設大学も増えた。1960年から1970年までの間に4年制大学数は245校から382校、つまり137校も増えた。短期大学は、280校(1960年)から479校(1970年)、つまり199校増えた。かくて大学教員需要がいちじるしく増加した。1965年は私が大学を卒業したときである。1965年の大学教員数は6万6,766人(4年制5万7,445人・短大9,321人)だったのが、1970年には2万5,000人も増えて9万1,595人(4年制7万6,275人・短大1万5,320人)となった。
 当時は英文科などの語学系統の大学院生は修士課程修了だけで大学教員に就職したほどである。だから経済学部なのに、大学院は英文科に行ったほうが、早く確実に大学教員になれるからと文学部大学院に進学した人がいるくらいだった。わたしが専攻した教育系統の大学教員マーケットもよくなった。大学が、そして短大が増えるがどこでも教職科目を設置したから、教育学関係の大学教員が必要だったからである。
 わたしは、1965年に大学を卒業し、一般企業に勤めた。大学院進学を考えなくもなかったのだが、当時は、大学教授は雲の上の存在。わたしごときが志す職業ではないとおもって、大学院進学は断念した。勤めて1年半ほどたった。結核の初期である肺浸潤(しんじゅん)になった。1年ほど、入院したが、そのとき大学のときの指導教授と手紙をやり取りしていた。そんなやりとりのときに指導教授が今は大学への就職もいいから,大学院に進学したらどうかといってくれた。くわしくはあとにみるが、1960年代半ばは日本の大学教員市場がもっとも開かれたときであり、そんな時期だったからこそ、指導教授は大学教員への道を示唆してくれたのだとおもう。
 もっともこの指導教授はわたしの才能を評価してくれたのではない。わたしの体をおもんばかって,大学の教師にでもなれば,身体を酷使しないで勤められるということで言ってくれたのである。わたしは身体というよりも,どこかの大学の専任講師でもなって好きな本を読んで生活していけるのだったらこれほどいいことはない、高等遊民とは言わなくとも中等遊民ぐらいになれるかなと思って,大学院に進学した。大学院生になって、それほど研究業績をつんだわけではないが、博士課程満期退学と同時に関西大学社会学部に勤めることができた。いまの大学院生から比べれば天国のような時代だった。

大学教員の求職数と求人数

 以上は、わたしの個人的印象だから、大学院生のこうした天国と地獄を数字によってみておこう。
 まず供給側として大学院博士課程修了者数を算出しておく。数字は博士(後期)課程在籍者数の3分の1とした。先述したように博士課程修了や満期退学の大学院生がすべて大学教員を志望しているわけではなく、医師や技術者などの専門職になる者もいるが、もっとも希望の多い就職先が大学教員だから、これをとりあえず「大学教員求職者数」とする。需要つまり「大学教員求人数」は、前年度と比較しての大学教員増加数をもってする。もちろんこの簡便な大学教員求職数と求人数にはいろいろな問題がある。大学教員の新規ポストはすべて大学院博士課程修了者によって満たされるわけではなく、転職者や非常勤講師、博士課程2回生以下の学生、過年度修了者などからも供給されるが、これらの正確な実態を把握することはできない。また求人数のほうには、増加分だけではなく、定年などによる退職者数がある。後者(退職者数)から前者(当該年度博士課程修了者以外の大学教員就職)を引き算すれば、それほど多くの求人数が残らないであろう。
 そこで、求人数(大学教員増加数)÷求職者数(前年度の博士課程修了者数)を計算してそれを年度ごとのグラフにしたものが図1である。さきに述べたように、この簡便な方法は正確な求人と求職の割合を示しているのではない。それぞれの年度ごとの大学教員市場の開放係数(大学教員への就職のしやすさの指数)としてみることで相対比較の目安とするものである。数値が大きければ大きいほど開放的、つまり就職が容易で、数値が小さければ小さいほど閉鎖的で就職が困難ということになる。博士課程修了者の何割が大学院教員になったかではなく、年度ごとの大学教員就職しやすさの比較として読んでもらうためのものであることに注意してほしい。
 たとえば、1966年は、大学教員ポスト増加数は7,368人である。前年度(1965年)の博士課程修了者は3,894人。わたしのいう開放係数で求人数が求職数をうわまわって、1.9である。わたしが学部卒業のころは語学系統の院生は修士課程で就職があったということがわかるはずである。しかし、図1をみるとわかるように、このような大学院生の天国の時代は1968年でおわる。1969年から72年の谷間を経て、73年から76年の持ち直し、そして77年からの長期低落傾向に入る。77年はオーバー・ドクター4,000人が問題になった年である。とくに大学院重点化によって博士修了生が出始める1990年代半ば以降が冬の時代となることがはっきりとわかるはずである。
 さきほどわたしの指導教授がいまは大学への就職もよいからといったのは、大学教員市場がもっともひらかれたときであり、わたしが大学院博士課程の3年を修了し、大学に就職したのは1973年だから、1960年代後半の時代ほどではなかったが、大学教員市場の持ち直し期だったことがわかる。冒頭にいったように1991年の大学院重点化による院生増大、少子化による大学生増の頭打ちによって、高学歴ワーキングプアという教養難民問題が浮上するようになった。近年の大学院生は、図1にみられる開放係数より実際はもっと悪化している。過年度博士課程修了者がどんどん滞留しているからである。求人数のなかに過年度修了生が占める割合の比重が大きくなるばかりであるからである。

(この項目続く)


<図1> 大学院在学者数に対する教員増加割合


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