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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第74回 羽海野チカ『3月のライオン』(白泉社)

羽海野チカ『3月のライオン』(白泉社)

(c)羽海野チカ/白泉社

 以前ある本を読んでいたら、イマドキのあまり本を読まない中学生・高校生は、その話が「実話」であるかどうかにこだわることが多い、という話があった。フィクションは「うそ」だから、「本当にあった」話であるかどうかが「感動」できるかどうかの重要なポイントなのだという。
 へえ、そういう発想があるのか! と、とても驚いた。すごい読書家とかではまったくないけれど、割と幼い頃からフィクションと親しんで愛してきた私には、思いつきもしない考え方で、衝撃をうけたのだ。
 でも、ときどきふと思い出して考える。
 私たちはなぜ、「うそ」の話であるフィクションを愛し、楽しむのだろう?
 その疑問に対する答えのひとつを、本作を改めて読み返して、見つけたような気がした。

 『3月のライオン』は、映画化・ドラマ化もされた『ハチミツとクローバー』という大ヒット作をもつ羽海野チカが、青年マンガ誌である『ヤングアニマル』で連載中の作品だ。
 主人公は、17歳の桐山零。彼は、高校生にしてプロの将棋の棋士だ。幼い頃、両親と妹を事故で亡くし、東京の下町で一人で暮らしている。中学時代にプロになった零は、将棋の才能はズバ抜けているが、学校では友人もうまく作れない不器用で孤独な少年だ。その名前の通りなにももっていない零だったが、橋のむこうに住むあかり・ひなた・モモの三姉妹と知り合い、また将棋仲間の二海堂たちとの交流の中で少しずつ変わっていく……。

 「将棋」のプロ、という特殊で厳しい勝負の世界で生きている男子の話だけれど、勝負とは無縁に暮らしている私のような読者もひきこまれるのは、このお話が「ほんとうの強さとはなにか?」、そして「人の幸せとは何か?」ということを骨太に問いかけているからだと思う。

 とても乱暴なくくりを承知で言うが、男性向けの媒体では基本的に「勝負に勝つことで、色々なことが手に入る」という価値観が原則だと思う。仲間・ライバル、そして賞賛や、異性からのプラス評価。その全ては、より強くなり、どんどん勝ち進むことでこそ手に入っていくのだ……という世界観であり、それはおそらく現実世界の価値観ともつながっている。
 だが、この作品の主人公・零は、「将棋」という露骨に勝負がつく世界で生きていながら、強くなることでどんどん孤独になってきた少年だ。幼い頃家族を失い、父の友人だったプロ棋士の家庭にひきとられた零は、将棋が強くなればなるほど新しい父の関心と評価を集めたが、そのことによって父の実の子どもである義姉と義弟を深く傷つけてしまう。そしてプロになった零は、ついに、育ててくれた義父を将棋で倒してしまうのだ。
 強くなるほどに、なにかを失ってしまう。それがわかっていても、零は将棋に打ちこんできた。彼には、それしかないのだから。その一方で、プロ棋士になってひきとってくれた家族から離れて自立することを目標にしていた零は、その夢がかなったことで、勝ち続ける意味を失ってしまう。精鋭がしのぎを削るプロの世界で目標や気力を失えば、生き残ってはいけない。だが大きな空虚を内側にもちながらも零は、それぞれが事情を抱えつつ勝負にむきあうハイレベルなプロ棋士同士の勝負のなかで、ふたたび将棋の世界に没頭していくことになる。自分にはまだ見えない勝負のむこうがわを見るために。

 本作で追求される「強さ」のひとつはもちろん、将棋という勝負の世界で、しのぎを削りあうプロ棋士たちの姿にある。雲の上にいるような圧倒的な強さをもつカリスマ棋士や、一見もの静かだが苦しみに耐え、すさまじいねばりを見せる棋士、ねじふせるような棋風で傲慢に見えるのに盤上以外ではライバルをかばう意外な一面を見せる棋士。彼らは、「将棋」という複雑にして絶対のルールのある世界で、ベストを尽くしながらぶつかりあい「続けて」いる人たちだ。彼らの、そして零の戦いを見て、読者である私は「プロとは、なることが目標じゃない。なってからの終わりのない戦いで勝ち抜くことが目標なんだ」という当たり前のことと、その果てしなさを思い知るのだ。将棋は格闘技などと違って一見その激しさはわかりづらいけれど、本作のていねいな描写は、ぞっとするほどのプロの凄みにまで思いを至らせてくれるのだ。

 そして、もうひとつが、零が知り合うあかり・ひなた(ひな)・モモの川本姉妹のような、一見普通の人のもつ、しなやかでありながら思わずハッとするような「強さ」だ。母親がいない川本家では、長女のあかりが家事を担当し、中学生のひなたも姉を手伝い、そして彼女たちはつねにさりげなく零のことも気遣ってくれる。勝負の世界で相手をなぎ倒す「強さ」もあれば、自分だけのことで手一杯ではなくて人のことを思いやれる「強さ」があることにも、零は気がついているのだ。

 5巻で、三姉妹の次女・ひなちゃんは、いじめの標的にされてしまう。通っている中学でいじめられた友人をかばったせいだ。「どうして?」と泣きじゃくりながらも、「私のした事はぜったいまちがってなんかない!!」と言いきるひなちゃんを見て、幼い頃学校になじめなかった零は、かつての自分にいまのひなちゃんが手をさしのべてくれたような錯覚に陥って、救われる自分に衝撃を受ける。
 いじめに大泣きしながらも敢然と立ち向かうひなちゃんは、一見弱々しいけれど、実はとても強い英雄的な存在だ。ルールのある世界で力を発揮する将棋のプロたちも、いじめがおきるようなルールがこわれた世界で毅然と立ち続けるひなちゃんも、どちらも、すごく「強い」。
 そして、こうも思う。
 きっと現実の中では、逃げられない場所で複数の相手から理不尽にいじめられたとき、たとえ相手が間違っていたとしても、ひなちゃんのように正義を貫いて逆らえる人は、多くはないのかもしれない、と。現実的には、立ち直れないほどのダメージを受けてしまわないようにふるまうか、転校する、というような形になってしまうことのほうが多いのかもしれないと。
 でも、さまざまな理由から、たとえば似た境遇の人が直接的に参考に出来ないことが描かれていたとしても、そこにも意味があるのではないか、と私は思う。広い意味で、それがフィクションという「うそ」の役割ではないかと思うから。
 生きていくなかで理不尽な苦しみに直面したとき、自分の力不足でベストのふるまいができなくて歯噛みするとき、どうしていいかわからなくなるときに、暗闇の中で遠くにかすかに見える灯台の明かり。「ああ、あちらを目指していけばいいんだ」と顔をあげさせてくれる力。
 フィクションという「うそ」の物語の中に、人の心を動かす祈りにも似た「本当のこと」が入っていれば、そういう力がきっとはたらくのではないかと、私はそう思うのだ。

 『3月のライオン』は、たくさんのマンガを読んでいる「マンガ読み読者」が選ぶ「マンガ大賞2011」を受賞したが、3月11日におこった東日本大震災の影響で授賞式が行われなかった。だが、さる3月17日に大賞受賞作品名とともに発表された主催者のコメントには、被災地で大変な状況下におられる方たちにとっては「マンガを読む」ということはもちろん最優先課題ではないけれど、「マンガはきっと、これからの日々を支えていく一つの力として、大きな役割を果たしていく」と信じている、との言葉があった。
http://www.mangataisho.com/data/2011/mantai20110317.pdf(注意:リンク先はPDFファイルです)
 震災後、たくさんの「いますぐ役に立つ」(ように見える)言葉が、テレビやラジオ、雑誌やインターネットを含めてさまざまなメディアの上をとびかった。それらの多くは、もちろん本当に、そして切実に大切な情報だったけれど、一方で一部の声高な言葉はときに違う立場の人を全面的に否定したり、恫喝のように思えることすらあり、実際の被災地とは言えない東京に住む私の心にとっても、大きな疲弊をもたらすものでもあった。
 本作は、そういう情報の渦に翻弄される状況下で、「フィクションを読むことの意味」を強く感じさせてくれた。
 すぐに、直接的に役に立つものではなくても、遠くから届くやさしく確かな明かりがある。その光が心を癒して、一歩前に足を進める力を与えてくれることがあるのだ。
 フィクションの力を感じさせてくれる作品を読めるのは、2011年の私たちの確かな幸せのひとつだ。もし状況が許すのなら、いまこそ読んでほしい作品である。



(川原和子)  

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