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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第71回 『シドニアの騎士』 弐瓶勉(講談社)

『シドニアの騎士』 弐瓶勉(講談社)

(C)弐瓶勉/講談社、既刊4巻

 マンガのレビュー的な文章を仕事で書くようになり、すでに10年と少し経つのだが、いまだに「今回は上手く書けた」と思えることは滅多にない。句読点の位置やら語調やらといった文章の体裁についてあとからくよくよ悩むなんていう、おそらくは読者からはどうでもいい迷いが先に立つのだが、それ以上に「自分はこのマンガの魅力をちゃんと伝えられているだろうか」と毎度考える。

 私は「マンガ表現論」という表現原論を専門としている。最初の単著『テヅカ・イズ・デッド』には、まさに「ひらかれたマンガ表現論へ」という副題をつけた。つまり、個々の作品、作家を超えて見出される、より普遍的な表現のレヴェルの話に関心がある。大学の授業では、「マンガをある一定の心理作用を読者にもたらす『機械』のようなものと見做し、そのシステムを解析する」と、自らの手法について説明をしている。

 そんなことに関心を持っている者が、「これはお勧めですよ」というレビューを毎度書いているというわけだ。
だからおのずと、ある作品を紹介するなかで、表現のレヴェルの特性や、ジャンルとのかかわりに言及することになる。言い方をかえれば、批評の側に一歩踏み込んだものになるようにしている。いささか逆説的なのだが、そうした理路を経ることによって言及できる作品の魅力があるとも考えている。

 ところが、こうしてレヴューを書く際、ふと頭をよぎる考えがある。
あらすじの紹介も、設定の説明も、登場人物の名前も、一切登場しない、だがそれでいてそのマンガを「読んでみたい!」と読者に強く思わせるようなレヴューは書けないだろうか、というものだ。
およそ不可能な、非現実的な夢想である。おそらく読者はそんなものは誰も求めていない。求められているのは、効率のよいブックガイドだ。そしてそのブックガイドのなかに「批評」を滑り込ませればいい。それだけの話である。だがそれでも「もしかしたら可能なのかも……」と思ってしまうのである。

 さて、弐瓶勉『シドニアの騎士』である。
乾いた無機的なメカニックと、体液のぬめりを感じさせる有機的なものたちとが複合した、奇妙にエロティックなヴィジュアルを見せる作品である。
 著者名と掲載誌、ジャンルやカテゴリ、基本設定、登場人物……を記しておくと、講談社「アフタヌーン」に2009年から、現在も連載中、SF、遠未来、太陽系を「奇居子(ガウナ)」と呼ばれる奇妙な生命体に壊滅させられて以降、種としての人類を宇宙のどこかに播種すべく航行する超巨大宇宙船「シドニア」に暮す人々と、「奇居子(ガウナ)」と戦う少年少女たちの物語だ。「奇居子(ガウナ)」は、「本体」を「胞衣(えな)」が包み込むような形態をしており、自在に変形する「胞衣(えな)」は、破壊されても急速に再生してしまう。
 そんな「奇居子(ガウナ)」を殲滅するには、「胞衣(えな)」を排除して露出せしめた本体を、「カビサシ」と呼ばれる奇妙な槍のような物体で刺し貫くしか方法がない。そして、「カビサシ」は「衛人(もりと)」と呼ばれる巨大ロボットによって運用される。
 そう、主人公の少年・谷風長道(たにかぜ・ながて)たちは、この「衛人」に乗って「奇居子」と戦うのだ。1000年に渡って続けられる深宇宙への航行の過程で、シドニアの人類は自らを改造し、人々は光合成を行うことのできる身体をもっている。1週間に1度程度の食事でまかなえるのだ。ただひとり、主人公の長道だけは光合成ができず、いまの私たちと同じように毎日の食事を必要としている。

 本作を「紹介」するには、このようにまず基本的な設定を逐一押さえていくことが要求される。いや、より正確に言うのならば、「要求される」ような気がするのだ。巨大ロボット「衛人」が使う武器のこと、それを操縦するパイロットたちのスーツのこと、エネルギー源とされる「ヘイグス粒子」のこと、巨大な宇宙船にしてスペースコロニーである「シドニア」の構造のこと……などなどである。だがそれを、リストのごとく羅列していくことが、果たして作品の魅力を伝えることなのかといえば、そうではないだろう。

 もっとも、大きな災厄に見舞われた後の、閉鎖的な世界で、少年少女たちが理不尽なまでに大きな力と戦い、サヴァイヴするという主題をとらえて、この連載でもとりあげた諌山創『進撃の巨人』や、藤野もやむ『忘却のクレイドル』と並べて同時代性を言うこともできはする。
 しかしそれは、とどのつまり、私がいまの社会を、そのように閉鎖的で抑圧されたものと捉えていること(つまり、この「私」の心性)の反映にすぎない。いま挙げた3作品の共通点を言うのなら、みんなタイトルに「の」が入っていますよね、と言ったっていいわけだ。

 むしろまず言っておくことは、先に記したようなメカと生体の「奇妙な複合」である。それは、もちろんキャラクターたちの身体にまつわる「複合」のことだ。ひとつ具体的にあげると、主人公たちが「衛人」に搭乗するときに着るボディースーツの描写がある。スーツからパイロットの尿管に生体素子が、まさに生き物のように侵入し導尿を行うという、それこそ奇妙な描写がある。さらに、「衛人」をパイロットごと食った「奇居子(ガウナ)」が、その胞衣をパイロットそっくりに変形させたケースでは、胞衣の一部がスーツそっくりに変形し、あまつさえ、一体となったそれを「脱ごう」として血をにじませるという描写が登場する。
一般に、マンガの「絵」、ヴィジュアルというものは物語世界や作家の心的世界に先験的に存在する「何ものか」を現前させるためのツールという位置づけで考えられがちである。読者は「絵」が説明する「意味」を読み取る、という考え方だ。「絵」は表層であり、そこから読み取れる深層があるという二項対立的な構図である。たとえば、現実に私たちが見知っている物体を五感でとらえたときの感覚があるとして、それが「深層」に埋め込まれており、「絵」という「表層」を的確に読み取りさえすれば、現実の記憶と参照される「深層」に行き着くという考え方だ。
 だが本作は、というよりも弐瓶勉の作品は、それでは上手くとらえられない。メカと生体、無機と有機の奇妙な「複合」と言ったが、それは当然のことながら主にモノクロの「絵」で現前させられている。そして、あらためて指摘すべきは、その「絵」が描き出しているものが、無機的なメカなのか、有機的な生体なのか、私たちにはすぐに見分けがつかないということである。そこには、私たちが現実に見知った質感、五感でとらえた物質の記憶とは違った、曖昧でいかようにでも変形可能な、別の「質感」がある。奇妙な「複合」は、それに由来する。

 こうした、マンガが線画で描かれていることに由来する、ある種の「曖昧さ」を抑圧することなく、むしろ前面に出した作家には、たとえば手塚治虫がいる。あるいは杉浦茂がいる。現役の作家では、諸星大二郎の名があがるだろう。弐瓶勉は、おそらくその系譜に連なる。
 そして読者は、私がこの小文のなかで、いわゆる「ストーリー」に一切触れていないことをそれこそ「奇妙に」感じたかもしれない。あるいは、魅力的なヒロインたち(とりわけ、男でも女でもない「中性者」の少年、科戸瀬[しなとせ]イザナ)に触れないことをいぶかしく思ったかもしれない。だがそれにはいちおうの理由がある。本作を登場人物たちへの共感的な感情移入や、主人公たちの行動や心理を追うプロットで読むのは、あまり上手くないと考えたからだ。
 もちろん、物語の「世界」の謎を少しずつ見せていく手法は成功していると思う。だが、いわゆる成長物語的なストーリーは希薄だ。それどころか(具体的な指摘は避けておくが)、通常の解釈では「ご都合主義」と捉えられかねないような、いささか唐突な展開も見られる。シドニア内部の、これまた妙にいまの日本の社会をパッチワークしたような様子も、ひとによっては鼻白むだろう。あるいは、「宇宙にみなぎるエネルギー源」という「ヘイグス粒子」の設定に、物理学的なリアリティがないと引っかかる向きもいるかもしれない。

 ただ、私はこのような設定上の整合性、ストーリーライン上で受け手に展開をひとつひとつ納得させて次に進むようなプロットの立て方を、作家が潔く捨てた結果ではないのかと思う。だが、それを捨象した後に残るリアリティがある。一般にマンガの場合、それを登場人物たちの感情の流れが担保することが多いのだが、本作ではそれもないようなのだ。

 では何がどうリアリティを支えているのか。その明確な答は、実のところまだ上手く言語化できていない。ただその考察の端緒になっているのが、表層と深層、無機物と生体、身体の内と外、といった二項を分離せず曖昧なまま成立させることで、逆にその複合を描いているのでは? という着想である。
 ここで、表層/深層という二項の「複合」という考えをとるならば、「細部」と「全体」という二項も分かたずにとらえられるのではないか。つまり、シーンごとに現れる「細部」は、ストーリーという「全体」を構築するパーツではなく、それぞれに強度を持つ自律的な存在と捉えられないか。であれば、いわゆるストーリーはあまり意味を持つことがない。

 こうした見方は、描き手に過剰に寄り添おうとした、独りよがりなものかもしれない。 しかし私が、登場人物や設定やあらすじに言及することなくレヴューを書けないかと、妙なことを考えるのは、それらがすべて他者にものを伝えるときの「約束事」としか思えないときがあるためである。約束事の重要さは重々承知している。一方、私たちが一般に「ストーリー」と呼ぶものもまた、多くの場合、送り手/受け手の間の構造化されたプロトコルの総体を指している。ではそこに回収されえないものは存在しないと言い切れるのか。またそれが「ある」として、言葉でどのように捉えうるのか。

 こんな問いは、およそ妄想じみた、いきなり山の頂上を見上げ、道を見失わせるようなものかもしれない。だが、決して後ろ向きではないだろう。弐瓶勉の仕事は、そのような夢想をかきたててくれるものなのである。


(伊藤剛)

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