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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第66回 都戸利津『群青シネマ』(白泉社)

都戸利津『群青シネマ』

(C)都戸利津/白泉社

 なんだか、 白泉社らしい少女マンガだなぁ。
 ……一読して、そう感じた。
 白泉社というのは、少女マンガ誌『花とゆめ』『LaLa』などを出している出版社のことだ。
 この連載でも過去に『赤髪の白雪姫』の回で、
「少女時代に白泉社の少女マンガを読み始めた人は、マンガを〈卒業〉しない。おとなになっても、ずっとマンガを読み続ける」という、人から伺った言葉を紹介したけれど、たしかに白泉社の少女マンガには、ある種のマンガ好きを魅了する独特の作風がある、と思う。本作『群青シネマ』には、1968年生まれの私が10代だった'80年代の白泉社少女マンガっぽい雰囲気がある。
それを乱暴に一言で言うなら、「男子が主人公の、ピュア少女マンガ」……ということになるだろうか。

 本作の舞台は、1961(昭和36)年の夏。
 四国の男子校の寮にいる高校生男子三人が8ミリで自主制作映画に取り組む、というお話だ。
 栄朝日、里見たまき、弥方京一郎は成績のよい問題児(といっても、三人でたわいない悪ふざけをする程度だが)。東京に行ってしまった元担任の水野先生を楽しく驚かせようと、8ミリシネカメラで映画を撮り、先生のいる大学の映画祭に出すことを思いつく。たまきは、高校生にして小説が入賞して雑誌に掲載されたのだが、その作品「夏日の堰」を映画にするのだ。

 三人でいれば何をやっても楽しい。そんな彼らだが、口には出さないけれどそういう日々がもうすぐ終わりを告げることをそれぞれが感じている。天真爛漫なムードメーカーの朝日は地元の大学へ、弥方は父の経営する大きな会社を継ぐために東京の大学へ、たまきは京都に進学、と進学先がバラバラな彼らにとっては、一緒に過ごす最後の夏だ。

 そんな彼らが、思いつきと勢いで始めた初めての映画作り。脚本も撮影も資金作りも、さらに役者まで自分たちでやりながら手探りで進める作業は予想以上に大変なことの連続。撮影の場で初めて、文章と映画では表現方法が違うことに気づいたり、高価なフィルムを買うためにアルバイトで資金作りをしたり。

 ところが、いざ現像されたフィルムを見てみると、ピンボケ、露出過多、露出不足……と、使える部分の方が少なかったりする始末。それでも工夫して乗り越えようとするが、失敗続きでフィルムが尽き、資金係の弥方の提案で、学校の資材室のフィルムの在庫を「前借り」してしのぐことにする。ところが、このことをきっかけに仲の良い三人は、気まずくなってしまう……。

 それにしてもなぜ、このお話の舞台は1961年なのだろうか?
 推測だが、理由のひとつは、ていねいに描写される煩雑な8ミリシネカメラの取り扱いに象徴的な「便利すぎない」昭和に生きる男の子たちを描きたかったからではないだろうか。
 テレビの一般家庭への普及は、1959年の皇太子明仁親王ご成婚パレードを機に進んだ、といわれるが(この作品中にはテレビは一度も登場しない)、それでもまだテレビがない家庭もあっただろう映像との距離が遠かった時代に、自分たちが動く姿を映し出す8ミリカメラの存在は、今とは比べものにならないくらい、とても魅惑的だっただろう。
 さらに、東京に行ってしまった恩師に連絡を取るのも手紙か電報、電話ぐらいしか手段がなく、でも用もないのに長電話などすることも考えもつかなかった時代。それは、いまよりずっと不便で、何をするにも手間がかかり、そしていまよりずっと早く「大人になる」ことが要求されたであろう時代でもある。でもそれ故に、仲の良い三人の高校最後の夏に、扱いが難しい8ミリシネカメラと格闘し、失敗を重ね、空回りしたりぶつかったりしながら作品を作る様子は、まさに気恥ずかしいほど「凝縮された、ストレートな青春」たりえるのだろう。
 不便で面倒で失敗だらけの映画作りの中で、ときにすれ違って頓挫しかけても、その中で三人は、いままで意識することがなかった「自分の輪郭」を発見していくのだ。
 自分ができること。気を遣ったつもりが行き違うこと。嫌っていた親とそっくりの自分を自覚すること。やりたいことのためにもう一つの可能性を自分の決断で捨て去ること。そして、やりたいという強い気持ちを軸に、何かを作り上げること。それは、ただ楽しいだけの夏を過ごしていても、発見できなかった自分の一面なのだ。

 さて、そんな思いをして作り上げた映画だが、映画祭に送る際に、ある手違いが起きてしまう。しかしその手違いが意外な結果を生んで…という顛末についてはぜひとも本作を読んで欲しいのだが、手違いに対しての彼らの態度や、その結末への流れが、まさに「少女マンガ」だなぁ、としみじみと感じた。
 料理研究家の福田里香氏はマンガをイメージして作ったお菓子とともに鋭い分析を語った著作『まんがキッチン』で、萩尾望都の初期作品『ルルとミミ』『ケーキ ケーキ ケーキ』について、これらの作品が、食べものをあつかった少年まんがのバトルものと決定的に違うのは、コンテストで主人公が勝たないことで、「勝つことが重要じゃない」のが「少女まんが」、と指摘されていた(『まんがキッチン』アスペクト p.82)。

 「勝利」という結果ではなく、過程。そこで、何かを見つけること。
 少女マンガは、きっとそれを大事にしてきたジャンルなのではないか。
 本作では、それが登場人物達の意図と違った意外な評価、という形で描かれるのだが、そこまで含めて、ああこれは私が長年読んできた「少女マンガ」とつながっている作品だなぁ……と感じて、なんだかしみじみとしてしまった。

 そして、本作には、男子を主人公にした娯楽作品において、しばしば重要であるにも関わらず、(無意識にしろ、あえて)描かれてない要素がある、と感じる。
 それは、「性(欲)と暴力」だ。
 「性と暴力」といえば、扱いようによっては扇情的・低俗、と非難される要素になったりもするが、逆に、男の子が大人になる上で直面する大きな課題でもあるといえると思う(女の子の場合、「性」は重要なテーマだけれど、「暴力」については、あまり直接的に自分自身の大きなテーマとはなりづらいように思う。町で自分より腕力が強い存在にからまれて立ち向かわず逃げたからといって、女の子であれば非難されることはないだろう)。

 思えば本作に限らず、白泉社系の少女マンガにおいては、主人公が男の子であることがかなり多いのだが、男子ならではの「性と暴力」について生々しく悩む男子はほとんど登場しなかったように思う。
 男の子が主人公であっても、生々しい形で「性と暴力」や、先ほどふれたように「勝利」を重要視するとは限らないところ。
 そこがまさに、本作の「白泉社の少女マンガっぽさ」とつながっている、と感じるのだ。

 男の子が主人公なのに、そこを描かないのはいかにもつくりごと…という批判もありうるのかもしれない。
 しかし私は、だからこそ、「(『男ならでは』という)肉体性をあまり意識させない、男子の登場人物」が主人公の物語は、肉体性を薄くすることによって、ある種の「普遍性」をもって物語を紡ぐキャラクターとして作品の中に存在でき、そして多くの女性読者をはじくことなく、共感を得ることができるのではないか、と思うのだ。
 本作にも、弥方の、親の決めた婚約者(!!)汐(うしお)や、朝日の妹・月子といった女性キャラクターも登場するし、淡い恋も暗示されるけれど、それはあくまでもプラトニックなものなのだろう、と感じる。「性と暴力」という、扱いによっては強烈すぎて他のことがかすんでしまう要素をあえて排除することによって、(こういうまとめ方はミモもフタもなくてやや赤面してしまうけれど)「青春期の、自分がどういう存在であるかを知る」という課題や、「ずっと一緒にはいられないけれど、かけがえのない仲間との時間がたしかにあった」といったテーマを、より純化させて描くことができるのだと思うのだ。
そういったことを正面から描いて、不自然ではない時代。それが、1961年……という判断だったのではないだろうか。

 男子ならではの肉体性を感じさせるリアルな苦悩の描写がある作品もいいし、それはそれで好きなのだけれど、こういう〈「少女マンガの形式」で描かれた男子達の成長譚〉の系譜が白泉社の少女マンガには脈々とあって(たとえば成田美名子作品など)、本作は、その正統な後継者というかんじがして、長年のマンガ読みとしてはとても嬉しい気持ちがしたのだった。

 ところで、本作の舞台は四国なのだが、登場人物たちは方言を話していない。「8ミリの説明とモノローグを方言でやると読みづらいかも」(2巻、p.159)という配慮のようだが、2巻に収録されている、四国の方言を入れている読み切り作品「大町くんの思い出」を読む限り、むしろとてもよい持ち味として機能するように感じる。作者にはその力量があると思うので、ぜひ方言を活かした作品も描いていって欲しいな……と勝手にリクエストしてしまうのだった。欲張りですみません。
(川原和子)  

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