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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第60回 『ミスミソウ』押切蓮介 (ぶんか社 全3巻)

『ミスミソウ』押切蓮介 (ぶんか社 全3巻)

(C)押切蓮介/ぶんか社 全3巻

 このマンガは「リアル」ではない。だが同時に、ひりつくような「リアル」を感じさせる。東北地方のどこかと思われる地方の小都市で起きる惨劇を描いた物語である。いじめの果てに、中学生たちが殺し合う。
 彼らの通う中学は、人口減による廃校が決まっている。最後となる卒業式を控えたその学校に、東京から主人公・野咲春花(のざき・はるか)が転校してくる。時をおかず、彼女は陰惨ないじめの標的にされる。その末に同級生たちに自宅に放火され、両親は死に、妹は重傷を負ってしまう。そして春花は黙って放火事件にかかわったクラスメートたちを殺していく。

 作者・押切蓮介は、幽霊や化け物の登場するホラーよりのコメディやギャグマンガで人気を集めてきた。ヤングマガジン連載の『でろでろ』が代表作だろう。若い読者には読まれているが、三十代以上にはまだあまり知られていない。だが、ゼロ年代、テン年代の重要な作家として記憶されることは間違いない。
 『ミスミソウ』は、07年から09年にかけて連載された。作家のキャリアからすれば異質な、新たな境地に挑戦した作品である。

 凄惨な、しかしひどく悲しい物語だ。
 ぼくは先に、「リアル」ではないが、同時に「リアル」でもあると書いた。「リアル」ではないというのは、これだけの惨劇が現実に起きるとは普通考えられないからだ。春花が殺した相手は八名に及び、さらに春花に対するいじめを扇動した小黒妙子は、放火事件の実行犯、佐山流美に殺される。また担任教師である南京子も、限りなく自殺に近い形で事故死をする。現実には、まずこの規模の殺人の連鎖は起こり得ない。

 掲載誌が「ホラーM」というホラー誌であり、サイコホラー的な要素に加えて、スプラッター的な派手さが求められたことは容易に想像がつく。それゆえの、作劇上の要請からくる過剰さだろう。
では翻って何が「リアル」なのか。
閉鎖的な田舎の、どうしようもなく澱んだ地域社会を背景にした、中学生たちの絡み合った人間関係と、逆恨みがもつれた結果の感情の暴走ぶりが、である。それは、ぼくたち現実の日本社会に生きる者にも、どこか身に覚えがある種類のものだ。

 つまり『ミスミソウ』の世界の彼らと、現実のぼくたちの違いは、本当に紙一重だ。中学生の、毎日毎日同じ顔ぶれと過ごすなかで生じる、ニワトリ小屋のつつき順位のような「いじめ」ヒエラルキーや、逆恨みや愛憎といった感情の葛藤と無縁でいられたひとは、おそろしく幸運だったと言わざるを得ない。

 小中学校の「いじめ」の恐ろしさは、ひとえに閉鎖的で固着した人間関係のなかで起きる集団心理だ。いったん「いじめ」の標的にされた相手には、何をしてもよいという錯覚が起きる。それはおおむね、道徳観や倫理観の欠落ではなく、心の底では「いけないこと」という自覚を持ったまま行われる。後ろめたさを共有するという形で、自分の属する集団への帰属意識を強める、という言い方もできるだろうか。

 『ミスミソウ』が優れた作品たりえているのは、ひとつには、この「中学生の心理」と、それによる暴力や狂気が、中学校という場所で完結せず、地域の「大人」たちの社会をも巻き込んでいく恐ろしさを巧みに描いているためだと思う。
 担任の教師も、いじめっ子たちの親たちも、皆が「中学生のいじめ」心理に巻き込まれていくのだ。いや、地縁による粘っこい人間関係が生きている地域社会では、大人たちもまた、「中学生のいじめ」心理を共有してしまうと言ったほうがいい。そんな恐ろしさが描かれている。事態の進行を傍観するほかなく、また自身も次第に壊れていく担任の女教師が、同じ中学の卒業生で、かつてのいじめられっ子だったという設定は、まさにこの、中学生たちの閉鎖社会と、大人たちの社会が実は「地続き」だということを鮮やかに示すためのものだろう。

 そこで、現実のぼくたちはどうだろうと考えてしまう。
 ぼくたちは、たいがい誰も殺さずに済ましてきている。そうやって生き延びてきた。それは確かだ。『ミスミソウ』の世界の子供たちとの違いは、そこにしかない。14歳の自分を振り返ってみて、他でもない自分が誰も殺さず殺されずに済んだことは、はたして道徳や倫理や社会性のおかげなのかどうか。だが、春花の家に放火した連中のように、それこそ遊びの延長くらいの気分で、とりかえしのつかないことをせずに済んだのは、ただの幸運ではないのか。
 彼らと、現実の日常に生きるぼくらの違いは、ぼくたちが誰も殺さずに済んでいる、という幸運によってしか保証されえないとは言えないだろうか。

 そう考えてしまう程度には、『ミスミソウ』は「リアル」なのだ。
 なぜなら、殺人に関わった中学生たちが皆「普通の子」として描かれているからだ。それぞれに狂気をはらみつつ、同時に(そう、同時に)、親や友達への愛情も豊かに持っている。また、誰もが孤独を抱えている。誰かとつながりたい、仲良くしたいという気持ちを持ちながら、自分の手で関係性を壊してしまう。そのアンヴィバレントな心理は、おそろしく「リアル」であろう。
 だから、「ミスミソウはひとつひとつが小さく、目立つ花ではありません。 そのどれもが様々な個性を持ち、 必死になって小さな花を咲かせます。 それらを慈しむ気持ち、人間に向けることを忘れないで欲しいと思い、 この作品を描きました」(単行本第三巻「あとがき」)
 という作者の言葉に偽りはないだろう。
(伊藤剛)

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