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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第61回 『進撃の巨人』 諌山創(講談社)

『進撃の巨人』諌山創 (講談社)

(C)諌山創/講談社

 面白い。実に面白い。ゾクゾクする。話題になっているのも分かる。おそらく年末の年間ランキング企画には必ず名前が挙がるだろう。 この原稿を書いている2010年8月なかばの時点では、既刊は二巻。物語はまだ動きはじめたばかりだ。だが、わずか二巻でありながら、のめりこませる展開がある。なにより、一巻の初読時の印象ががらりと変わった。この印象の変化が、どこまで作者の意図によるもので、どこからがこちらの勝手な「読み」なのかは定かではない。ただ、あらためて始めから再読して、もう一度楽しんだことは確かだ。これはこういうことだったのか。なるほどそうか、と。

 物語の舞台は、おそらく架空であろう異世界。人類は人を食らう「巨人」に追い詰められ、100年前に建造された「壁」の中の街で暮らしている。三重の円周状となっている壁の高さは50mあり、巨人たちの侵入を防いできた。だが、その壁を超える身長を持った巨人が出現、街に侵入する。結果、人類は最も外側の壁を放棄、超大型の巨人の再来に怯える日々を送っていた。そして五年後、ふたたび超大型巨人が来襲。物語は主人公の少年と、彼の仲間たちを中心に語られだす。彼らは二度目の巨人来襲時には巨人と戦う最前線の兵士となるのだが、置かれた状況はあまりにも絶望的であり、まずは強迫的な緊迫感と、神経に障る恐怖感に圧倒される。他人の悪夢を覗かされているような、そんな怖さがある。

 なにより、「巨人」が怖いのだ。この巨人たちの造形だけでも、じゅうぶんなインパクトがある。巨人たちは裸の人間の男性の姿をしており、知性は持っていない。体温が極端に高く、人間を見つけては食らう。巨人を倒す方法は、うなじの部位を損傷させることのみ。そのため、主人公たち兵士は、ガスを用いてワイヤーを打ち出す装具を使い、命がけで飛び回り巨人のうなじに切りつける。いかにも、無力でちっぽけな人類がどうにか巨人に立ち向かっている、という構図だ。

 その巨人の怖さは、意志の疎通など一切できず、ただただ圧倒的な力で人を殺し続ける、純粋に暴力の具現のような存在が、それでいて「人の顔」を持っていることによるのだと思う。巨人たちの顔は、おおむね大人の男性の顔だ。しかも、うつろな、笑っているかのような、不気味な表情をしている。その「顔」が、巨大な「顔」が、怖い。そしてその怖さは、まったく洗練されていない――いやもっと直截な言い方のほうがいいか――下手糞な絵に支えられてもいる。とはいっても、いわゆるヘタウマというのとも違う。この、粗野な描線と不安定なフォルムが、なんともいえない幻惑感をもたらしているのだ。先に言った「他人の悪夢を覗かされているような」印象は、まさにこの粗野な感触による。

 当初、ぼくはこの幻惑感に、アウトサイダー・アートじみたものを感じていた。絵の粗雑さに、コマわりの未熟さも手伝い、そもそも何が描かれていて、誰がどのように登場し、何が起きているのかもすぐには分からなかったほどだ。だから、いちおう少年マンガ的なストーリーの枠組みは借りているものの、ある種の幻視者が自らの霊感に従い、脳裏に浮かぶものをうわごとのように綴ったものではないかとすら思っていた。一巻の初読時には、それほど「わけがわからなかった」のだ。

 だが、そうではないようなのだ。
 二巻の後半に進み、主人公の少年と、彼の仲間たちの関係が明確となり、何より主人公・エレンの役割がはっきりすると、ただ散らばされていたかのように見えた様々な要素が、この世界の「謎」を断片的に見せていたものであることが分かってくる。先に、一巻の初読時と印象が変わると書いたのは、このことだ。すると、構築された、骨太な少年マンガの骨格をはじめから持っていたことが見えてくる。

 あるいは、ぼくは粗野な絵と語り口に幻惑されすぎていたのかもしれない。なまじアウトサイダー・アートに親しんでいたのが悪かったのだろう。たとえば、アドルフ・ヴェルフリなんて名前まで思い出していた(そう、ヘンリー・ダーガーではなく、もっと禍々しさを湛えた、ヴェルフリだ)。
とはいえ、この物語に世界を見通す視点は存在せず、読者は主人公たちと同じ視点で世界を少しずつ覗くしかないということは繰り返しておこう。作品の外、ページの幕間に基本設定の説明が挿入されるとはいえ、それもまた断片的なものであることには変わりがない(「現在公開可能な情報」と銘打たれているのは、ちょっとした趣向だけれど)。つまり、おそろしく絶望的で、息のつまるような世界を、そこで生きなければならない者たちの視点で覗くのである。

 エレンたちの世界とは、非合理で圧倒的な暴力のただなかに無力な存在が孤立したまま放り出されている世界である。これはさまざまなレヴェルで解釈が可能だろう。グローバリゼーションと世界不況の荒波のなかで方針を定めることもままならない日本の現在か、あるいは寄る辺をなくした私たち個々人にとっての社会か。
 大人の男のうつろな顔を持った「巨人」に、わずかな武器で立ち向かう子供たちという絵は、かくも寓意的な想像をかきたてて止まないのである。
(伊藤剛)

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