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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第27回 『デトロイト・メタル・シティ』 若杉公徳 (白泉社)

デトロイト・メタル・シティ 表紙

(C) 若杉公徳/白泉社

 いまさらながら、『 デトロイト・メタル・シティ 』 ( 以下、DMCと略す ) である。
 白泉社 『 ヤングアニマル 』 に連載中の本作は、2006年5月下旬、単行本1巻の発売以降、きわめて短期間でカルトな人気を得た。この夏には映画化され、さらにメジャー化しつつある。映画版の海外配給のほか、ハリウッドでのリメイクのオファーも来ているという。周辺の「現象」もあわせて、現在進行形のギャグマンガと言えるだろう。

 一昨年、DMCの波はウェブからはじまった。新人に近い作家の初単行本という事情もあって、部数が絞られた1巻は、刊行直後に品切れとなった。すでにウェブで話題が高まっていたこともあり、読者は一種の飢餓状態に陥った。運よく入手した読者は感想やスキャンしたページの断片をブログなどにアップし、余計に「読みたい!」という欲が煽られたのだ。当時はぼく自身もそのムーヴメントの渦中にいた。何と言っても、1巻初版を手に入れることができず、重版がかかるのを今日か明日かと思いながら、毎日のように書店をチェックしていたのだ。

 未読の読者のために、作品の概要をざっとおさらいしておこう。ナヨナヨしたバンド青年、根岸崇一(ねぎしそういち)は、自分がやりたいオシャレな渋谷系ポップスでは全く評価されない。一方、なぜか無理矢理参加させられている悪魔系デスメタル・バンド、「デトロイト・メタル・シティ」では、メイクを素顔を隠し、「ヨハネ・クラウザーII世」としてカリスマ的人気を得てしまう。ファンからは「クラウザーさん」と呼ばれ、崇拝までされる。クラウザーさんの正体が根岸であることは、バンドのメンバーや所属レーベルの社長しか知らず、根岸は自分がクラウザーさんであることを隠し続け、DMCの活動もいつも辞めたがっている。何しろ、DMCの楽曲はどれも非常に過激な内容で、曲名からして 『 SATSUIGAI 』 、 『 魔王 』 である。クラウザーさんの姿のときの根岸は、ついテンションが上がり、片思いの女性にも粗暴で失礼な振る舞いをしたり、大切な友人に乱暴狼藉を働いてしまったりする。そして、後ではげしく後悔するわけだ。彼がこうしたギャップを抱えていることがおかしみを生んでいる。

 ここで特筆すべきは、クラウザーさんの行動のすべてを悪魔的なものと解釈し、なんでも崇拝の材料にするファンたちの姿だ。たとえば、クラウザーさん/根岸はパニくってその場を逃げようとして間抜けな失敗をしたりしただけなのに、ファンたちは「出た〜! “ 48の警察官(ポリ)殺し ” の中の “ 非情なるギター ” だーー!」などと叫ぶ。根岸が慌てて転んだ拍子に、手にしたギターが警察官の頭に当たっただけなのだが、彼らはそうは見ない。
 作中のファンたちが「クラウザーさん」の虚像を作り上げていくさまは、ウェブでセリフをもじってみたりして楽しんでいる、私たち現実の読者のありようとパラレルなものと言えるだろう。読者間のコミュニケーションのレヴェルが、作品に組み込まれている。これもまた、この作品の現代的なところだろう。ウェブから人気に火がついたのは、決して偶然ではない。

 もうひとつ重要なのは、根岸が決して多重人格ではないということだ。クラウザーさんに「変身」しているときの根岸は、普段とは打って変わって粗暴で、下品で、女性嫌悪的だ。しかし、その酷い行動を突き動かしているのは、普段の根岸がふとしたきっかけで持った嫉妬や逆恨みなのだ。そのトリガー役となるのは、大学の同級生で、現在はオシャレ雑誌「アモーレ・アムール」の編集者をしている相川さんや、後輩で音楽仲間である佐治君である。根岸は、相川さんには片思い的な恋愛感情を抱いているし、佐治君とは、自分が本当にやりたいと思っているオシャレ・ポップスのパートナーとなりうる関係にある。だが、相川さんは、ほかの男性と仲良くすることで、佐治君は自分のバンド、テトラポット・メロン・ティが順調に成功しそうになることで、それぞれ根岸の逆恨みを買い、クラウザーさんに酷い目に遭わされてしまう。そのテトラポット・メロン・ティは、いかにも「渋谷系」というステレオタイプで描かれた、およそナヨナヨした文化系男子のバンドである。つまり根岸がやりたいスタイルでわりと上手くいっている連中なのだ。斯様に、根岸はまあおよそ最低のヤツなんだが、そこは上手いことギャグに落とす作劇が救っている。シャレにならない事態は紙一重でかわされているので、読者は安心して笑えるし、根岸のどうしようもなさにも共感できる。

 さてDMCについて、ぼくは何度か文章を書いてきた。詳しくは拙著 『マンガは変わる』 (青土社)収録の小文「801ちゃんのとなりで」を読んで欲しいのだが、根岸のありようは、ここ30年ほどの日本の「弱い男の子」における、サブカルチャーが提供する処方の二相がきれいに表すものと考えたのだ。
 ぼくがこの文脈で使う「弱い男の子」とは、共同体への帰属意識と、その共同体が要請する性役割の強制が薄れた後の社会で、「強い男」「よき父」というロールモデルを失い、「強い父」になるのではなく、おのおの「自分自身」になるしかないという困難を抱まざるを得なくなった男性主体、というほどの意味である。
 その「弱い男の子」にサブカルチャーが提供する処方の二相とは、自分の周囲を自分の趣味で小さく美しく飾り、日常をささやかに楽しもうというもの ― 根岸崇一/テトラポット・メロン・ティ―と、ネタを共有する想像的な共同体に立てこもり、失われた「男らしさ」を身振るというもの―クラウザーさん〜デトロイト・メタル・シティ―である。根岸/クラウザーさんは、この両者の間で引き裂かれているわけだ。

 ここまでのことは、「801ちゃんのとなりで」ほかのいくつかの文章にすでに書いた。この文脈での評価は、 『 DMC 』 が、いまという時代のある部分をとてもよく表したものという意味のうえに成り立つ。もちろんそれが作品の価値のすべてではないが、いずれにせよ2000年代半ばという時代と密接に結びついた作品ということである。逆に言えば、時代とともにあり、時代とともに忘れられる作品かもしれないなと思っていた。

 それが、最新刊6巻を見て変わった。もしかしたら、これは「残る」マンガかもしれないと思い直した。
 根岸/クラウザーさんが多重人格ではないことを再び強調しておこう。連載開始当初は、クラウザーさんの姿で暴れ、猥雑な言動をしているさなか、内なる根岸の心が「こんなことしたくないのに・・・・・・ 」と葛藤しているさまがギャグになっていた。オシャレなポップをやりたい「根岸」が本当の自分で、「クラウザーさん」は強制された仮の姿という構造が、保たれていた。「クラウザーさん」がメイクと扮装によって作られた姿であることも、この構造を支持している。
 ところが、次第にこの葛藤の構造が曖昧になってくる。そもそも根岸のうちに、クラウザーさん的なルサンチマンが渦巻いており、むしろクラウザーさんの姿でなされる暴力的な行動が、根岸の内心の発露として描かれるようになってくる。つまり「本当の自分」とは、むしろクラウザーさんの側にあり、根岸自身が意識でとらえているそれとは逆転していることが明らかになってくる。
 ここまでなら、自分の意識がとらえている自己像と、無意識に出てしまう「自分」との齟齬という図式でとらえられる。やはり二項で整理できる。つまり構造自体は変わらない。

 ところが6巻になり、さらに事態は複雑さを増す。
「よし これで キリもいい」
 根岸/クラウザーさんが、テトラポット・メロン・ティの再結成ライヴに乱入し、メンバーに次々と乱暴を働いた後、切り上げて去ろうという際の内語である。もとより、このときの乱入と乱暴狼藉は、社長に強制されたからでも、ファンたちの期待につい応えようとしたのでも、演奏をしていて熱くなってしまったからでもない。根岸は、勝手な逆恨みから自発的にクラウザーさんに「変身」し、ライヴをめちゃくちゃにしてしまう。それも、クラウザーの正体が自分であると佐治君が気づいていて、自分をハメようと画策したに違いないという疑心暗鬼に陥っての行動だ。

 この一連の挿話は、シリーズのなかでもとりわけ異様な印象がある。疑心暗鬼に陥った根岸の「見た」佐治君が妙に邪悪な顔に描かれ、どこまでが根岸の勝手な逆恨みなのか判然としないような演出が挿入される。そのうえで、先の「よし これで キリもいい」だ。
 この内語の直前のシーケンスでは、クラウザーさんの姿の根岸は、佐治君の尻をタンバリンでスパンキングしながら、心のうちで「ゴメン 佐治くん ホントにゴメン」「うう 僕だってもうヤダ やめるタイミングを ・・・・・・・・・ 」と葛藤している。
 しかし、この場には、クラウザーさんの狼藉に喝采し煽るファンもいなければ、強制する社長もいない。しかし根岸は、それが誰かに対するサーヴィスでもなければ、メッセージでもないのに、悪魔的な行動を止めることができずにいる。

 「キリもいい」。この言葉は、それでも根岸がどうにか狼藉を止めるべく踏ん切りをつける言葉であると同時に、クラウザーさんとしての行動を自発的に、かつ巧妙に繊細にコントロールする言葉でもある。「もうヤダ」と思っている心も、クラウザーさんとしての暴行を完結しようとする意志も、どちらも等しく根岸の「本心」でなければこの言葉は出てこない。ここに及んで、テトラポット・メロン・ティ的なもの − 「弱い男の子」である自己を肯定し、自分の周囲を美しく小さく趣味で飾ること − と、DMC的なもの − ネタを共有する想像的な共同体に立てこもり、架空の「強い男」を見振ること − が、心のうちで引き裂かれているという構図は成立しなくなる。つまり、根岸の葛藤はすでに別の場所に移っている。彼は葛藤しつつ、TMTのメンバーが尻を突き出せばつい叩き、逃げようとする女性客がフロアにコンタクトレンズを落としたのを目にすれば、駆け寄って床を激しく踏み鳴らす。客に「キャー ヒドイッ」「最低」と言われながら、根岸は内心「もう」「これで完全にキリがいいはず」と思っている。

 何がしたいんだ、根岸。ぼくは大爆笑しつつ、ああ、これが「リアル」なんだなと思った。この不可解で不透明な心理描写は、それこそ「内面」がふと、ごろりと現れたかのようだ。内面ってこうだよな、こういうものだよな。そんなことを思わせるところまで、このマンガは来ているのだと思ったのだ。(伊藤剛)

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