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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第51回 『BLOOD ALONE』 高野真之 (電撃コミックス)

BLOOD ALONE 高野真之 表紙

(C)高野真之/電撃コミックス

 奇妙な感触の作品だ。
 吸血鬼の少女と探偵兼作家の青年の静かな共同生活を淡々と描く。
 少女ミサキは12歳くらいに見える。吸血鬼である彼女はもちろん夜しか活動できない。一方の青年・黒瀬クロエは年齢ははっきりしないが、まあ三十がらみといったところだ。ミサキはおしゃまで、わがままで、吸血鬼の血族ゆえの高貴なプライドを持つ。一方のクロエは、過去の事件で得た特殊能力を持って、吸血鬼がらみの事件とも相対する。
 青年男性と思春期のとば口にさしかかった少女との「暮らし」である。端的に言えば、擬似家族の物語に振れるか、インモラルな性愛の物語に振れるか、という設定だ。前者であれば、二人の関係には、少女の成長と自立という終焉が訪れる。後者であれば、性愛の果ての悲劇が待っていることだろう。だがこの作品は、そのどちらにも振れない。ただ彼らの静謐な関係を丁寧に追うだけだ。
 ミサキは可愛らしいやきもちを焼いたり、クロエに「ギュってして」とはにかみながらねだったりする。クロエも彼女に応えるが、二人の親密さは、家族的な愛情とも、はげしく燃え上がる恋愛感情とも違ってみえる。ただ静かに抱擁しあう、そんな印象がある。
 最初、物語はすべて架空の異世界を舞台にしていると思った。だが作中に日本やロンドンといった地名が登場する。どうもミサキとクロエが暮らすのは東京らしい。地下鉄や地下街が登場するのに、ちっとも現実の東京に見えないという浮遊感がある。クロエたちの暮らし向きは非現実的なまでにゴージャスで、生活感はなく、彼らの生活環境には人の気配があまりない。妙なたとえかもしれないが、ゴダールの映画『アルファヴィル』(1965)を思い出した。現実のパリの街で撮影されながら、外宇宙の未来都市が舞台という設定のモノクロ映画である。
 
 さて。ミサキとクロエの生活はいつも静かというわけではない。
 むしろ彼らは、吸血鬼の血族にまつわる闘争にいつも巻き込まれる。もとよりクロエは、過去の悲劇的な事件に際して、吸血鬼たちと渡り合うだけの特殊な能力を得た「魔法使い」である。主人公が過去にトラウマ的な記憶を持っているあたりは、ハードボイルドのジャンルコードに従うものでもあると思うところだが、一方のミサキもまた、生まれながらの吸血鬼ではなく、ある吸血鬼に血を吸われ、吸血鬼として「新生」している。つまり、彼らの密やかで親密な暮らしは、それぞれが「人間ではないこと」が支えていると解釈できる。彼らの暮らしぶりは、ネットでよくそう言われているように、オタクの願望を具現化したかのようだ。なるほどここに描かれているのは、ミサキとクロエの二人の暮らしに訪れる、小さく幸せな瞬間であるだろう。だがそれは、生き生きとした幸福感とは少し違う。いわば死後の世界の、幽霊たちが戯れるさまを眺めているかのような感触がある。静謐さは、同時に熱のなさでもあるのだ。それは、作品全体を覆う、独特の浮遊感とも言い換えられよう。さらに言えば、読者と作品世界の間が、膜一枚で隔てられているかのような、奇妙な感覚が常にある。最初に「奇妙な感触の作品」といったのは、このことだ。そしてその感覚が、作品に不思議な魅力を与えているのだと思う。
 この感覚は、このマンガの間白(まはく・コマとコマの間)や紙面の余白が、多くのページで黒く塗られているという表現上の仕掛けによってもたらされている。モノクロで描かれる日本のマンガでは、ここは通常白いままにされ、間白や余白を黒く塗りつぶすのは、そのシーンが回想や夢といった、作品世界内の現時間での出来事ではないことを意味する。ところが、本作ではそれは回想や夢ではなく、「夜」のシーンを表している。また「昼」の場面は少なく(そのことは単行本の束の部分を見てもらえば分かる。「昼」は白い縞になって時折現れるにすぎない)、物語は夜とともに進行する。つまり、作品内の「現実」であるにもかかわらず、あたかも「回想」のように描かれている。さらにここには、「夜」という隠喩が持つ力が加わる。すべては人々が眠りについた後の、闇の世界の密やかな出来事なのである。(伊藤剛)

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