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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第101回 『ばらかもん』ヨシノサツキ(スクウェア・エニックス)

ヨシノサツキ(スクウェア・エニックス)(c)ヨシノサツキ/スクウェア・エニックス

都会育ちの若き書道家・半田清舟は、自分の字を書道界の重鎮に「型にはまったつまらん字だ」と評され激高、彼を殴ってしまい、その罰として日本最西端の島へと単身移り住むことになる。本作は、予想もしない出来事ばかりの島暮らしに戸惑いながらも奮闘する「半田先生」と村の子どもや村人たちとの交流と生活を描いた物語だ。「ガンガンONLINE」という無料のWebマガジンに発表され、単行本は100万部を突破している人気作品である。

 島の暮らしは、たとえば空港からの移動は通りすがりの村人のトラクターに乗せてもらう、客は玄関から入ってこない等々、都会ではおこりえないことだらけ。半田先生の借りた家は地元の子どものたまり場になっていて、いくら鍵をかけてもどこからともなく子どもが入ってくる。すごく不用心なようで、よそものが不審な動きをしていると村中から人がわらわらと出てきて相手を問い詰める、という「人の絆」でしっかりと防犯していたりする。地理的には、海のそばだし山もあるしで、子どもたちの遊びもかなりワイルド。個人主義なようでその実人の良い半田先生は、村の子ども・「なる」たちに翻弄されながら、少しずつ変わっていくのだ。

 なるたち村の子どもに巻き込まれ、さまざまな遊びを思わず本気でやってしまう半田先生は、幼いころから書道一筋すぎて、これまで子どもらしい遊びを経てこなかった青年であることが話のなかでわかってくる。なにしろお祭りにすら常に「書展があるから」という理由で行ったことがないというのだ。そんな彼が、お手本どおりではない「自分の書」を書きたいと思ったとき、その「自分」自体が貧弱であることに直面せざるを得ない。さらに、不便な村での暮らしは、都会ではいっぱしの「おとな」風だった23歳の「先生」の無力さをあからさまにしてしまう。都会なら、料理をはじめとする家事は、コンビニや弁当屋、外食などでお金で買うことができる。だが、田舎の暮らしではそうはいかない。料理のできない半田先生は、郷長の奥さんや息子のヒロシに食事を作ってもらうことになる。コンビニも外食できる店もない(少なくとも作中には登場しない)島の村では、文字通り「一人では生きていけない」のだ。都会に暮らしていると、なんだか実感から離れたお題目に感じられるこの言葉だが、島の暮らしのなかではとてもリアルに感じられるのだ。

 そんな村での暮らしは、多くの人にとっては行ったことがないにもかかわらず、おそらくどこか「懐かしい」のではないか。その理由の一つは、村がいろんなところに昭和のにおいを色濃く残していることだ。村に一つしかない雑貨店の電話は黒電話で、イマドキの若者である先生はダイヤル式の電話のかけ方すらわからないのだった。火を焚いてわかすお風呂も、ある程度の年齢の人なら「自宅がそうだった」とか「親戚の家で入った」という人も多いだろう。そんな都会では使われなくなったものたちが、21世紀のいまもここではしっかり現役なのだ。

 そして「懐かしさ」のもう一つの理由は、村の子ども、「なる」たちが日々生き生きと繰り広げる遊びの数々だ。昆虫をつかまえる、セミのぬけがらを集める、海に行けばいくらでもある拾ってきた貝にわざわざ値段をつけて売る「お店屋さんごっこ」、泥で作る美味しそうな(でも食べられない)クッキー。大人の目で見ればなんの意味もないようなものを夢中で集めた「子ども」時代の経験を、なるたち島の子どもたちの姿は思い出させてくれる。

イマドキの都会育ちの青年が、自然豊かな島でおおらかな村人たちとの交流のなかで変わっていく様子を、イマ風の端正な絵柄でときにコミカルに、ときに感動的に描いた本作。作中の島は、島民たちがゆるやかに助け合いながら楽しく暮らす「楽園」のようにも感じられる。

 そんな本作のユニークなところは、「楽園もの」でありながら「成長物語」でもあるところではないだろうか。

 通常、楽園を舞台にする作品だと、変化がない時間が止まったかのような世界であることが多いが、本作の「先生」は、島の人々と関わりながら人としても書道家としても、確実に成長していくのだ。

 かつて昭和の時代には「いろんなものがあるオシャレな都会に比べて、ものも情報も少ない田舎(地方)はイヤだ、恥ずかしい」という価値観が(特に若者には)あったように思うし、それに基づいた「上京物語」もたくさんあった。

 が、ゼロ(2000)年代以後には「田舎も都会も同じくらい、いやときにそれ以上に素敵で魅力があるのだ」という価値観を、とくに肩に力が入った感じでもなくさらりと感じさせる若い描き手によるマンガ作品が登場してきたように思う。以前、この連載でも紹介した岩本ナオなどがその代表的な作家だが、本作もその流れを感じる作品だ。

 この作品のなかでは田舎の「負」(と思われる)の部分は、いやな感じでは描かれない。もちろん、作品のテーマのひとつが「田舎暮らしの幸福」を描くことにあるせいだと思われるが、それを成立させているのが、主人公の特徴的な設定だ。

 書道家である彼は、書道の道具(基本的には紙と筆)さえあれば作品を作ることに支障がない。そして、ちょっと不思議なくらいに「書道」にしか興味がないという、やりたいことが過剰なほどにはっきりした若者だ。イケメンなのに彼女がいる様子もないし、村の女の子・美和やたまたちとも恋愛的な雰囲気にはならない。

 つまり、多くの若者の代表的な悩みといえる「やりたいことがわからない」と「恋人がほしい」ということを悩まない若者、なのだ。逆にいえば、そこを悩まなければ、非・都会の問題点――将来の職業の選択肢が少ないこと、固定した人間関係、「諜報機関か!」と言いたくなるほどの速度で情報が村中に情報が知れ渡るプライバシーのなさなども、それほど「負」の要素ではなくなる、ともいえる。

 そんな(ある意味で)希有な若者・半田先生にとっては、地方の村の濃密な人間関係や自然のなかで我を忘れて遊ぶことは、失われた子供時代をやり直すことで、まさに「成長しなおす」ということそのものだろう。そして、人の根幹とも言える部分を「育て直す」には、不便だからこそゆるがない、ゆるやかでありながらもしっかりとした村人の「つながり」と豊かな「自然」は、都会にはないとても大切で魅力的な要素として、説得力をもって描かれるのだ。

 さらに、タイトルの「ばらかもん」(「元気もの」を表す五島の方言)もそうだが、作中にはたくさんの方言が登場する。「先生」自体はずっと標準語なのだが、もらった魚のうろこをとるという非常事態のために「なる」が家からもってきた「つはん」のことは、先生にとって、もはや「うろことり」ではなく「つはん」としか認識できなくなり、東京でもつい「つはん」と呼んでしまうのだ。

 こんなエピソードには、学校を卒業した大人にとっては、言語を学ぶ事が「学校などでテキストを通して行われる知的作業」になって久しいけれど、そうだよな、ことばって本来は、生活を通して学ぶものだよなあ…なんてことにまで思いをはせてしまう。先生は「なる」の祖父から差し入れされた「このもん」という漬け物にハマってず――っと食べ続けてしまうのだが、そういう「店では売ってない手作りの素朴な食品の、ありえないぐらい大量に食べてしまうほどの、癖になる美味しさ」なんかの記憶も呼び覚まされて、なんだかほのぼのしてしまうのだ。

 便利な都会から、最初は半ば強制的に不便な田舎暮らしにとびこまされた半田先生が、子どもを中心とした村人にまきこまれてペースを乱され、喜怒哀楽をぞんぶんに味わいながら忙しく過ごす様子は、読んでいてとてもほほえましい。海がそばにある南の島で、あたたかい村人たちと暮らす先生の様子は、「ああ、こういう体験自分にもあった」とときに懐かしく、また「へぇ〜、この地方ではこういう習慣があるのか!」と、ときに新鮮だ。

 そして、ふと気付かされる。

都会の暮らしは便利でとても効率がよいけれど、「効率の良さ」の追求と「幸福」って、実はけっこう別のものかも?ということに。

 怒ったり驚いたりしながら「情報」が少なく不便な田舎ぐらしのなかで書道に打ち込んでいる半田先生の生活は、なんだかとても「幸福」そうなのだ。日々多少不便だけど助けてもらったり役割を担ったりしつつ生活し、ライバルがいても相手の動きに一喜一憂せず「どうぞお先に」と言って自分のやるべき事に打ち込む。そんななかで、数ヶ月前には存在すら知らなかった周囲の人々が、自分にとってのかけがえのないものになっていることに気づく。

 この3月に発売になったばかりの最新刊7巻でも、本作の昭和的な懐かしい部分と、「えっ、そんな習慣があるんだ」という驚きは健在だ。
 そんな本作は、「田舎暮らし」という形で描かれた「幸福」についてのお話でもあると思うのだ。



(川原和子)  

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