おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む? タイトル画像

おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第92回『銀の匙』荒川弘(小学館)

(c)荒川弘/小学館 既刊3巻

(c)荒川弘/小学館 既刊3巻

「殺れるかどうか。」


 獣医になる夢を叶えるのに必要なものって何ですか? という主人公の問いへの答えである。ばんえい競馬場の診療所の獣医師の言葉だ。学力・学費、体力は必要と言ったあと、「私の持論だけど」と前置きしてこう答える。「特に経済動物を 相手にしてる 家畜獣医なんて、 しょっちゅう命の選択を 迫られるしね。」と続く。


 『銀の匙』は、メガヒットとなった『鋼の錬金術師』に続く、荒川弘の少年マンガだ。連載場所をスクウェア・エニックス「少年ガンガン」から小学館「少年サンデー」に移し、単行本既刊三巻ですでに累計200万部を突破している。おそらく、このままミリオンセラーになるだろう。

 『鋼の錬金術師』が、架空の世界とファンタジックな設定で大きなストーリーを語るものであったのに対し、現在の日本を舞台に、全寮制の「農業高校ライフ」を描いた作品である。主人公は、札幌の街から北海道の原野のただなかにある農業高校の農科に進学した少年・八軒。彼は進学校の優等生であったが、自身の進路に希望を持てず、家族と離れたい一心で「大蝦夷農業高等学校(通称・エゾノー)」を選んだのだ。一方、クラスメイトは農家の跡取り息子や娘たち。八軒は、彼らの様子に、都会の進学校とのギャップにまず驚かされることとなる。皆、自分たちが将来どんな仕事につき、そのためには何が必要かをよくわかっているからだ。

 エゾノーでの毎日は過酷だ。実習とはいえ農場は年中無休、早朝にも夕方にも実習がある。加えて酪農の仕事は体力勝負である。無気力な優等生だったはずの八軒だが、生来の人のよさと意外にも高い順応能力で、エゾノーの暮しに馴染んでいく。


 『銀の匙』の主題のひとつは、「夢を持つという事は、 同時に現実と 闘うことになるのを 覚悟する事」であるだろう。これもまた、冒頭に引用した場面で獣医師の言葉として登場する。八軒は当初、エゾノーのクラスメイトたちが農家の跡取りであるがゆえに「夢」や「将来」を明確に持っていることに軽い妬みの気持ちを持っていた。それが、過酷ともいえる酪農農家の仕事や暮らしを目の当たりにしながら、「夢を持つという事は、同時に現実と戦うことになるのを覚悟する事」を、少しずつ自分のものとして理解していく。

 そしてもうひとつ、家畜とは「経済動物」であるということ。動物の命を奪い、食肉とするということがある。八軒が直面する課題はこれだ。彼は夏休みのあいだ級友の少女・御影の家でアルバイトをするのだが、ひょんなことから鹿の解体を任されることになる。御影の祖父が軽トラックではねてしまった鹿の死体を解体し、そのまま焼肉にして皆で食べるのだ。


 鹿の解体の様子だけでなく、牛の出産、さまざまな農作業の様子は、かなり詳細なリアリズムで描かれる。そこは自身も北海道の酪農農家出身である作家ならではと言える。そのあたりは、エッセイマンガ『百姓貴族』(新書館)でも読むことができる。先に私は、新聞の書評連載で本作をとりあげ、これが農家の実際を知る機会の少ない都会の小学生にも読まれていることの啓蒙的な意味を記しておいた。


 荒川弘の農業マンガが貴重なのは、啓蒙ばかりではないだろう。その貴重さは、なにより「リアリズム」にあると思う。

 『百姓貴族』がやや自嘲的な笑いに貫かれているのは、「自分ツッコミ」というエッセイマンガの作法に則った部分もあるだろうが、『銀の匙』もまた、常にと言っていいほどコミカルな筆致で描かれる。さらにもうひとつ言えば、主人公をはじめとした、エゾノーの生徒たちや、ほかの家族の人々は、見ていて楽しい気持ちにさせてくれる面々だ。いつも動いていて、よく飯を食う。ぼくもいい加減中年オヤジなので、若い子が元気よく大飯を食らうというだけで、つい目を細めてしまうのだが、読者の年代を超えて、この「元気のよさ」や「明るさ」は、おそらく本作のヒットを支えてもいるのだと思う。あと、作中の「メシが美味そう」というのも、かなり重要な要素ですね。


 とはいえ、農家やそこに生まれ育った子供たちの状況のシビアさもしっかりと描かれる。「マンガだから」「フィクションだから」「エンターテインメントだから」と、ただただ楽しげな物語だけを見せてしまうようなお気楽なものではない。念のため、ここは強調しておこう。

 かといって、深刻になりすぎることもない。いつもユーモアを忘れない。また、イデオロギー的に「農民」を礼賛するような視線も、ここにはない。「マンガであること」「エンターテインメントであること」からも、逃げてはいないのである。それはやはり、まっすぐに対象とわたりあう、まさに「覚悟」に支えられた仕事と言うべきものなのだろう。



(伊藤剛)

Copyrights NTT Publishing Co., Ltd. All Rights Reserved.