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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第76回 『スコット・ピルグリムVSザ・ワールド』 ブライアン・リー・オマリー

『スコット・ピルグリムVSザ・ワールド』 ブライアン・リー・オマリー

(C)ブライアン・リー・オマリー/(ヴィレッジブックス)

『スコット・ピルグリム&インフィニット・サッドネス』『スコット・ピルグリムVSジ・ユニバース』(ヴィレッジブックス)

 『スコット・ピルグリムVS.邪悪な元カレ軍団』という邦題の映画版が先行して話題になったマンガだ。映画は「町山智浩氏絶賛!」と日本語版一巻(VSザ・ワールド)の帯にあるように、またいかにもふざけた邦題からわかるように、いわゆる「バカ映画」である。
「邪悪な元カレ軍団」という邦題は、作中の原文 ”League of Ramona’s Evil Ex-Boyfriends” の逐語訳だ。くだらないテイストを出そうと原題と関係なくなかば無理矢理つけた日本語題ではない。『VS ザ・ワールド』の注釈(この日本語版には、ありがたいことにたいへん詳細な注釈がつけられている)によれば、「X-MENの宿敵の悪のミュータント軍団“ブラザーフッド・オブ・イーブル・ミュータンツ”など、アメコミの悪党軍団を連想させる」とある。「邪悪な元カレ軍団」てのは、なかなか秀逸な訳だ。本当に直訳、そのまんま、だけど。
 東京の最初の公開はうっかりしていて見逃してしまったのだが、来月(2011年7月)からの公開で観にいこうと思う。原作がとても面白かったからだ。これは愛すべきマンガだ。

 主人公である23歳のニート、スコット・ピルグリムのいい具合のボンクラぶりや彼のバンドのメンバーたちのだらだらした日常っぷりが心地よかった。もうひとつ、このマンガは「ポップだ」と思っていた。そこで自分は「ポップ」というけれど、そもそも「ポップ」とはどういうことなんだろう? などと考えていた。

 ストーリーはいたって単純にみえる。カナダのトロントに住むスコット・ピルグリムがニューヨークから来たラモーナ・フラワーズに恋をし、彼女とつきあうために、七人の「邪悪な元カレ軍団」と戦うはめになる。とはいえ、クライマックスに相当する『VS ジ・ユニバース』を別にすれば、プロットで読ませるタイプのマンガではない。むしろ、スコットや彼の周辺のボンクラたちとのだらだらした日常ぶりを眺めて楽しむ感じのほうが強い。登場人物はむやみにたくさん出てくるし、しかも街の狭い区画のなかで、なにやら地元感覚でつながっている雰囲気がある。

 一方「邪悪な元カレ」とのファイトは、まるで古い格闘ゲームだ。スコットが元カレを倒すと、元カレは消滅し、あとにコインやらアイテムやらが残る(もしスコットが破れたら、彼も消えてコインが残るのか? などというツッコミは野暮なのでしない)。バトルでは、キャラクターたちは何メートルもすっとび、あるいはサイキックだのなんだのといった超常的なワザも使う。日常の描写に、ほとんど唐突にそんなシーンが挿入されるのだ。 だがその唐突さ、異なるレヴェルのリアリティの混在はほとんど気にならない。「そういうものなのだ」と思ってしまえる。そこがまず、ちょっと小気味いい。

 言い忘れたが、スコットはただの無職ではない。「セックス・ボボ=ォム」なるロックバンドのメンバーとして、ベースを担当している。「セックス・ボボ=ォム」は、地元のライヴハウスには出るが、インディーズからも音盤は出していない。まあアマチュアバンドだ。
 それからスコットについてもうひとつ念を押しておかないといけないのは、彼が決して「非モテ」ではないこと。物語の冒頭で中国系の高校生、ナイヴス・チャウに強烈に惚れられるし、元カノもいれば、元カノと言っていいのかどうか微妙な女のコもいる。むしろボンクラなのにモテモテというべきだろう。

 だが彼には、モテているという自覚はあまりなさそうだ。彼は一途なナイヴスを振ってラモーナとつきあいだすわけだが、元カノのキム・パインとも同じバンドで活動している。加えて、ナイヴスも彼のバンドの唯一のグルーピーとして傍にいたりもする。普通に考えればドロドロした人間関係の泥沼に陥りそうなところだが、そうなってはいない。スコットの天然ぶりというか、ボンヤリした感じと(なにせ、自分をめぐる人間関係上の肝心なことを忘れていたりする)、それでいて底のほうに優しさが見えるところが、それから救っているのだ。

 さてここで、この作品の背景を説明しておくことにしよう。これは日本の読者の関心を引くためには、言っておいたほうがよいことだ。「日本製」のマンガやゲームの影響である。
 作者、ブライアン・リー・オマリーは日本語版の読者に向けたメッセージで「僕はあらゆるタイプのコミックスに影響を受けてきました。アメリカのもの、ヨーロッパのもの、ですが、最も影響を受けたのは、日本のコミックスです」と解説する(『VS ザ・ワールド』p.3)。そして、彼が影響を受けたという日本の「コミックス」として、高橋留美子『らんま1/2』、大友克洋『AKIRA』、相原コージ+竹熊健太郎『サルでも描けるまんが教室』、古屋兎丸、矢沢あい、黒田硫黄、そして手塚治虫の名があげられる。

 また、日本語版最終巻である『VS ジ・ユニバース』の表紙については、作者自ら「『ストリートファイターZERO2』のオマージュになっている」と語っている。さらに、1979年生まれの彼らの世代に北米で育った子供たちは、「ほぼ全員が任天堂の洗礼を受けた言っても過言ではないでしょう」と言い、「スコット・ピルグリムの世界が多くの読者に支持してもらえたのは、その共通体験が理由だと思います」と語る(『VS ジ・ユニバース』p.1)。

 『スコット・ピルグリム』のキャラ絵は、なるほど日本のマンガやアニメの影響下にあるなというものだ。まず、目が大きい。そして、全体に丸っこい描線で描かれ、かわいい絵柄である。とくに手塚治虫の影響を受けだして以降(と、作者自身が語る)日本語版最終巻のスコットは、ほとんど少年のようだ。より正確にいえば、日本の少年マンガ的な絵柄になっている。これは微妙なところだが、彼の髪の毛のギザギザっぷりがより「少年スタイル」になっているのだ。

 こうした、「日本の」マンガやゲームの直接的な影響についての「日本人の」反応は、大きく二層に分かれると考えられる。さらにこの二層は、おおまかに世代とリンクしているだろう。
 まず、サブカルチャーにおいても、ほかの文物においても、「優れた・進んだ欧米」と「劣った・遅れた日本」という構図を記憶している世代。この世代にとっては、「日本のマンガやゲームが認められた・影響を与える側に回った」という、輝かしくも気恥しい実例として映るだろう。少なくとも、この図式の影くらいは残っているはずだ。
 一方、もっと若い層は違うだろう。自分たちと同じようにファミコンで遊び、同じようなマンガを読み、同じようなバンドの曲を愛好していた、「同世代」の作品として『スコット・ピルグリム』を歓迎しているに違いない。

 ここで私は『スコット・ピルグリム』を読んで「ポップだ」と感じたことを思い起こさざるを得ない。より正確には、自分が何をもって「ポップ」と思ったのかについて考えざるを得ないのだ。

 「ポップ」とは何か。それにストレートに答えることは難しい。それは「ポップ・アート」の「ポップ」だし、「テクノ・ポップ」の「ポップ」である。それは「ポピュラー」であること、世界中の多くのひとに大衆的に迎え入れられることとはイコールではない。とはいっても、表現のスタイルに還元されるものでもない。誰かに「ポップだ」と受け取られるかどうかが問題なのだ。つまり、同じものであっても、ひとによって「ポップ」と受け取られることもあれば、そうでないこともある。そんな意味で言っている。

 それでも強いて「ポップ」を言語化するなら、それは「日常」と密接に接していながら、同時にそこからの浮遊感を持っているものだ。実用に使うものしか売ってないのに、実用一点張りではない雑貨屋に並べられているようなものなどは、かなり「ポップ」のイメージに近いだろうか。お菓子や玩具の原色の色取りなども、やはり「ポップ」のイメージを担っている。私にとっての「ポップ」をさらに具体的に言葉にするならば、安っぽくて、きらきらしくて、軽く、享楽的で、内省的なシリアスさを覆い隠すような作用があり、それでいて諧謔に満ちているもの……というほどのものになるだろうか。もちろん、‘80〜90年代のコンシューマーゲームもまた、同じような「ポップ」な装いを持っている。

 話をふたたび『スコット・ピルグリム』に引き寄せるのであれば、カウンターカルチャーとしての「ロック」との距離感という要素が立ちあがってくる。安っぽくて、きらきらしく、軽く、享楽的な……音楽とそれを中心としたライフスタイル。それは過去のような「反逆」ではすでにない。ジョン・ライドンの言葉とされる、「ロックは死んだ。だがポップは生き残る」という言葉を思い起こしてもよいだろう。パンク・ロックの大騒ぎの後に言われたとされるこの「死亡宣告」は、まさに本作の作者、ブライアン・リー・オマリーが生まれたそのころに発せられたものではなかったか。

 「ポップ」に取り憑かれたと自ら語る日本の美術評論家・椹木野衣は、かつて存在した「ポップなもの」と「ポップではないもの」の境界が、ある時代から(少なくとも日本においては)内面化し、見えなくなり、無効になったという。しかし、にもかかわらず「ポップなもの」と「ポップではないもの」の境界は、あたかも存在するように見えてしまうという。椹木は、この「にもかかわらず」にこだわり、そのことについて考え抜こうとしていた。そのように私は解釈している。以下に、椹木の言葉を引用する。

 基地に代表される(日本とアメリカとの:引用者補足)物理的かつ歴史的な境界線を急速に見えにくいものとした。境界線によって区分された「あちら」という非日常と「こちら」という日常からなる二元論は、新たに用意された「日常」のなかに内面化され、透明化していった。そしてこの新しい「日常」のうえに、わたしたちの生活の喜びも苦しみも、すべてがつくり出されていった。復興と高度成長を合言葉に着実に整備されていったこの「日常」による支配が最終的に全面化するのが一九八〇年代であったことはあらためていうまでもない。そしてそこには、絶頂に達した輝かしい「日常」を描写する「反映のポップ」が現れた。しかし、いくら輝かしかろうが、このポップが下敷きとする「日常」が、潜在的にはあの境界線を消しがたく孕んでいるかぎり、目を凝らせば、そこにはポップとそうでないものとの心理的に歪んだ境界線が垣間見られたはずだった。
椹木野衣『日本・現代・美術』新潮社、1998、pp.117


 椹木野衣の言う、かつて日本に存在した「境界」とは、日本の「日常」と、主に米国からやってくる「文物」の間の境界によって明確にされていたものである。灰色の「日常」と、テレビのなかのカラフルできらきらしい「ポップ」。彼我の「境界」がそのようにはっきりしていた時代の感覚は、椹木と同世代の浦沢直樹や、竹熊健太郎や、岡田斗司夫らの仕事からも見てとることができる。しかし、戦後の高度成長とその後の高度大衆消費社会の到来により、日常=日本/非日常=ポップ=欧米という図式は見えなくなり、椹木の言葉でいう「反映のポップ」が席巻することになる。たいへん率直にいえば、1962年生まれの椹木たちの世代が感じてきたような、日本/アメリカの境界は、5歳年下の私にはもう、わからない。つまり私にとっての「ポップ」は、椹木の言う「反映のポップ」でしかない。

 ここで私たちは、『スコット・ピルグリム』で盛んに参照される「日本の」マンガやゲームが、「反映のポップ」以降の産物であることに注意しなければならないだろう。さらにそれら日本の「ポップ」は、すでに「アメリカの」コミックやロックと並列に扱われていることに注目しなければならない。また逆の位置、つまり北米から見た「日本」が、彼らの日常からの距離ゆえに「ポップ」に映ったであろうことも考慮されなければならないだろう。
 一方、では椹木の「ポップ」をめぐる論が時代遅れかといえば、そうではない。椹木は「ポップ」を「ポップ」として見出す視線が置かれる「場所」について、以下のように論じる。これは、日本のポップアートを論じたものであり、直接的にマンガなどのサブカルチャーについての論考ではない。だが、構造は同じである。それゆえ、十分参照しうる。

 わたしがここでいうポップは、いうまでもなく、アメリカのポップ・アートの亜流を意味しない。そうではなく、日本の「いまここ」に緊張感をもつすべての表現は、みずからのなかのアメリカに対するいびつな境界線をどこかに残しているはずであり、その境界線の描く、日本にもアメリカにも、世界にも地方にも、自己にも他者にも、偶然にも必然にもけっして回収不可能な歪んだ軌跡のことをポップと呼ぶのである。
(中略)
 日常と非日常の対立と無化が、にもかかわらず「日常」へと回帰する。制作と非制作という対立と無化が、にもかかわらず「制作」へと回帰する。場所と非場所との対立と無化は、にもかからわず「場所」へと回帰する。あちらとこちらの対立と無化は、にもかかわらず「こちら」へと回帰する。
 アメリカと日本という対立と無化は、その境界線を気化させ、複雑に内面化することによって、「こちら」という非場所へと回帰する。そして、そのような非場所こそが、「日本」という場所なのではあるまいか。
同 pp.139


 『スコット・ピルグリム』が、アメリカではなくカナダ人によって、カナダを舞台に作られた作品であることには、つまりアメリカとカナダの「距離」については、注意を払っておくべきではあろう。しかし、それは考慮したとしても、やはりアメリカに極めて近い「場所」で作られた物語に、日本にいる私が「ポップ」を見出すこと、そしてその「ポップ」が、あるサブカルチャー体験を日本と北米で共有していることに拠って立つのだとすれば、「『こちら』へと回帰する非場所」は、すでに「日本」のみならず、北米にも存在するということになる。  しかし、であるのならば、おそらくカナダの(現在はロスアンゼルス在住であるようだが)作者にも、等しく「ポップ」の境界線をめぐる問題系は存在するはずだ。「非場所」はまさに現在、文字通りの「非場所」となっている。日本でも、アメリカでも、カナダでも、どこでも、同じように「日常」と「非日常」の境界を孕みながら、同時にそれを無化するような厄介さを持つという意味で、特定の土地の問題ではなくなっているのである。

 しかし、それでも「ポップ」と「非ポップ」の境界は、少なくとも私のうちにはしつこく残っているようだ。
 たとえば、ロックを扱いながら、カウンターカルチャーとしての「ロック」を無化している表現として(しかもじゅうぶんにメジャーである)、『けいおん!』がある。女子高生たちのロックバンドを題材に、「日常」をゆったりと描写したこのアニメははたして「ポップ」なのか。マンガである原作はどうなのか。

 私は『けいおん!』を「ポップ」であると言うことに違和感を覚える。だが、『けいおん!』に触発されたであろうオリジナル同人マンガ、『ざつおん!』(HTC communications)には「ポップ」を感じる。それは『ざつおん!』が、女子高生がチップチューン(ファミコン音源のようなチープな電子音を用いたポップ・ミュージック)やノイズを演奏することに感じているのではなく、描画のコードが日本の「マンガ」の主流とされるものとは異質なものであることに「ポップ」を感じるのである。ここでもまた、「距離」が顔を出す。そしてその「ポップさ」は、『スコット・ピルグリム』と相通じるもののように思う。

 この「距離」に「ポップ」を感じることとは、果たして日本の私に内在化した「心理的に歪んだ境界線」と呼ぶべきものなのだろうか。あるいは、アメリカやほかの国々のひとや、日本のもっと若いひとたちは、たとえば『けいおん!』を「ポップ」というのだろうか。
(伊藤剛)


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