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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第49回 『中央線ドロップス』 元町夏央 (双葉社)

中央線ドロップス 元町夏央 表紙

(C)元町夏央/双葉社

 ときおり、マンガ単行本を送っていただくことがある。未知の編集者の方から、勤務先の大学に送っていただくこともある。「乞ご高評」というやつだが、毎度毎度恐縮してしまう。新刊レビューを書くことができる場所は限られているし、タイミングも難しい。なによりも、せっかく送っていただいたのにもうひとつピンと来なかったりしたときが心苦しい。
 もっとも心苦しいのは、いったん「これはないわ」と思って、後から評価を改めた場合だ。ぼくには昔からよくない癖がある。初見で拒絶してしまったり、ろくに見もしないで批判したりしていたものを、後からじっくり見なおして180度反転、絶賛なんていうことをよくやらかすという癖だ。今回、取り上げさせてもらっている元町夏央『中央線ドロップス』もそうだった。しかも拒絶というほど強い感情ではなく、単にスルーしていた。送っていただいた編集部と、著者の方には本当に申し訳ない。やっとわかったのか、と言ってくださって構わない。

 『中央線ドロップス』は、タイトル通り、東京都下のJR中央線の各駅をタイトルに織り込んだ短編連作だ。順に、吉祥寺、西荻窪、阿佐ヶ谷、中野、高尾山、お茶の水である。ある短編に登場した脇の人物が、次の短編の主人公となる、いわゆるロンド形式で描かれている。いくぶんセンチメンタルな、青春の物語であり、愛と性の物語であり、家族の物語である。描線は太く、画面は黒っぽく、どちらかといえば泥くさい印象がある。反面、その描線がもたらす情感が、体温を感じさせる。セックスを描いても、「萌え」系のようにキャラ絵そのものによる快楽をダイレクトに脳に叩き込むものとは逆に、じっとりと湿り気を孕んだ、背徳感や罪悪感をも巻き込んだ情感を感じさせる。
 「泥くささ」「青春」「セックス」「体温」「湿り気」「情感」と「中央線」。これは読み手を選ぶだろう。かつて『中央線の呪い』という本まで書かれたような、「若者」と「サブカルチャー」の街、というあれである。あるいは、エコロジーが好きで、エスニックな古着を着ているといったステレオタイプな人格イメージを呼び込む「あれ」だ。
 「センチメント」「青春」「愛と性」といったものとも、「中央線」の相性はいい。というよりも、まさにそうしたタームと結びつき、物語の主役となることで、東京と名古屋を長野を経由して結ぶJRの路線という本来の意味から離れ、特別な意味を持つ。そうしたものが好きなひとは、タイトルと、女子高生が描かれた表紙だけでおなかいっぱいだろう。いわゆる「中央線文化圏」の書店では、もしかすると平積みにされているかもしれない。

 反面、「中央線」というアイコンに「それはもう、いいよう」とげんなりする向きもいるに違いない。実のところ、ぼくはこちらのほだった。だから初見の印象ではじいていた。だがそれは、後から誤りだったとわかる。
 「中央線」は鬱陶しい。「中央線」的な「サブカルチャー」は、カウンターカルチャーの残響を色濃く残し、汚くて安い飲み屋や、アングラな小劇場やライブハウス、古本屋や中古レコード屋、古着屋といった店たちなどの文化的装置に彩られている。マイナーなものがマイナーなまま輝きを持つ、というある種の幻想とロマンを体現したかのような場所だったわけだ。
 ところが、それが「若者」と結びつくと、もういけない。これらのロマンや幻想は、かつて「若者」だった中高年のものでしかない。いつまでも若いつもりでいる四十や五十のオッサン連中の見果てぬ夢が、見果てぬまま硬直したものとも言える。かつてのカウンターカルチャーの身振りを、「若者とはこうあるべし」と、「いま」の若者に押しつけてしまいかねないのだ。
 もちろん、「中央線文化」を志向する若いひとは、いまでもいるに違いない。だが、それはそれで、彼/彼女の「趣味」の範疇でとらえるべきだろう。だから、そうした身振りこそが「若者」であると賞揚する中高年の態度が問題だ。そこには自分たちのどうしようもない有様を、「若者」の価値に目を細めてみせることで正当化しようというナルシシズムが隠れていませんか? と思うのだ。
 と、苛立ち混じりに書き連ねてしまったが、『中央線ドロップス』がいいと思ったのは、いかにも「中央線文化」の装いをしていながら、その実、いかにもな「中央線文化」と距離をとっていると感じられたからだ。実際、タイトルやヴィジュアルに反して、予想されるような「中央線文化」のアイテムは登場しない。

 連作の最初を飾る『吉祥寺夫婦』は、単に都下に住む夫婦が、恋愛関係を超え、あらためて「家族」としての親密さを得ようというお話だし、最も濃厚に、いかにも「中央線文化」っぽい、若者と社会の軋轢を寓話化した『阿佐ヶ谷・高架の二人』も、そのラストシーンでは都市を走る電車の高架という舞台装置の意味が前面化し、「阿佐ヶ谷」という固有名はむしろ剥奪される(最後のコマの、土地の固有性を示す記号のない、抽象化された風景を見よ)。そして吉祥寺からはじまった作品の舞台は、中野のあと高尾山に移り、お茶の水へと動く。つまり、普通に考えられる「中央線文化」の担い手である、中野から三鷹まで以外の場所へと動いている(あるいは、「中央線文化」の象徴的存在である、高円寺が出てこないことに注目してもいい)。作者の想像力が、もとより「中央線文化」とは別のところにあったのではないかとすら思わせる。

 本作が「中央線」をタイトルに冠した経緯はわからない。中高年男性読者に手堅く読ませるための「おやじ殺し」を意図したのかもしれない。「売る」ための策だ。それはそれで営業的にはアリの判断だと思う。なぜなら、「中央線文化」的なものを志向するひとであれ、誰であれ、ここに描かれている物語は、物語の持つ力でヒットすると考えられるからだ。ただ、ぼくのように、タイトルと絵柄のマッチングではじいているひとがいるとしたら、それはちょっと残念なことではあるのだけれど。(伊藤剛)

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