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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第42回 『ダニー・ボーイ』 島田虎之介 (青林工藝社)

ダニー・ボーイ 表紙

(C)島田虎之介/青林工藝社

 紹介するにあたって、スーザン・ボイルのことを思い出した。
 スコットランドの田舎町で静かに暮らしていた「歌姫」である。類稀なる歌声を持ちながら、ほとんど気づかれることなく中年になるまで過ごしていた人物だ。
 2009年4月、イギリスのオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」に出演し、一気に全世界的にその名と歌声を知られるようになった。彼女の名声がイギリス国内に留まらず、グローバルな規模となったのは、もちろんYouTubeがあったからだ。
 ここでスーザン・ボイルを引き合いに出したのは、彼女が有名になる前にも、スコットランドのそこかしこに、きっと彼女の歌声を耳にして記憶に留めていたひとがいるに違いないと思ったからだ。それだけ、彼女の歌声は「ちから」のある特別なもののように思えた。

 さて、手塚治虫文化賞新生賞を受賞した前作『トロイメライ』から二年、島田虎之介の新作である。今回も青林工藝舎の雑誌「アックス」連載作品だ。「寡作」などと評されることもあるようだが、2000年のデビュー以来、四冊の作品をコンスタントに発表するペースには、むしろ精力的な作家活動を続けているという印象がある。
 今作の中心となるモチーフは、「歌」と、たぶん「記憶」である。

 フォーカスする人物を次々と変えた短編のオムニバスという形式の本作は、ある男性ミュージカル俳優の「歌」を記憶した人々の点景を淡々と置いていく。
 その男性俳優・伊藤幸男とは、1976年に制作されたブロードウェイ・ミュージカル『極東組曲』で日本人官僚役を演じ、堂々たる独唱で注目された人物だ。『極東組曲』とは、アメリカ建国200年を記念して作られた、第二次世界大戦後の日本を舞台にした異色作(プレスリーのような扮装をしたマッカーサーが登場し、歌舞伎の黒子やケレンを導入したというもの)という「設定」である。
 いままでのシマトラ作品を知っていれば、これが作者一流のセンスの良い「大嘘」であろうことはすぐに察しがつく。デビュー作『ラスト・ワルツ』、前作『トロイメライ』がそうであったように、20世紀後半の世界史に係わる趣味的なアイテム(『ラスト・ワルツ』ではブラジル製ビンテージ・バイク、『トロイメライ』ではカメルーン産の木材で作られた植民地仕様のピアノ)を軸に、無名の個人の「物語」を描こうとしているのだな、という期待が高まる。『極東組曲』の設定は、いかにも「敗北を抱きしめて」といった風情で、すれた読者の期待というか、深読みを呼ぶ。

 ところが、そう思っていると肩透かしにあってしまう。
 先に書いたように、今作の視点が寄るのは、忘れ去られた一人の人間の存在にまつわる、ごく私的な「記憶」である。
 伊藤幸男は、『極東組曲』の成功のあと、トニー賞候補に選ばれながら受賞を逃し、その後は表舞台に立つことなく、忘れ去られてしまう。本作は、ミュージカルのスタッフや、彼が日本で属していた劇団のメンバーなど、直接彼と接した人々の思い出を描く。
 だが、本作がユニークなのは、必ずしも彼の名前や存在と、彼の「歌」を結びつけて憶えているわけではない人々の記憶までも描いていることだ。彼のことを「いちばん おおきな うぶ声」で記憶している助産師の老女や、学生運動はなやかなりし頃の新宿・地下街の「解放広場」で、場違いな歌を唄っている彼の前を通りがかっただけの女性まで登場する。彼女たちは、彼の「声」や「歌」を憶えてはいるが、それはその「歌」が、彼女らの心に届いてしまうような、特別なものだったからに違いない。

 だが描かれるのは、彼女らがそれをふとした折に思い出す、その刹那だけである。
 特別な「声」であり「歌」であったからこそ、ほんの一瞬、すれ違っただけの人々の心に残ること。しかし、それは裏を返せば、それだけの「ちから」を持っていたとしても、何かの偶然か不運かによって、世の中からは埋もれてしまうという残酷な現実を指し示している。だから切ない。

 読みやすいマンガではない。二度、三度と読み返し、巻末の曲目解説(各話の最後に、その話に登場する曲目が添えられている)を読むと、さまざまな仕掛けがはっきりする。さらにネットで検索をすれば、ガイダンスとなるようなテキストと出会えるはずだ。何よりも、作中に登場する楽曲をYouTubeなどで耳にすることができる。
 それらの楽曲のセレクトが、メロディは知っていても、曲名は忘れていたようなものばかりということに気づいたとき、より深く胸を打たれることだろう。(伊藤剛)

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