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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第34回 『がらくたストリート』 山田穣 (幻冬舎)

がらくたストリート 表紙

(C)山田穣/幻冬舎

「売りにくいマンガなんだろうな」と思った。単行本帯のキャッチコピーにいわく、「謎の新人(笑)の初単行本 !! 」「非・正統派 ジュブナイル!」である。さらに裏表紙側には

「何も起こらなくもないがドラマはない。
 過度な期待は要注意。
 噛めば噛むほどに味わい深い、
 山田ワールドをご賞味あれ!!!」

と書かれている。
 どんなジャンルなのか、どんな感情を揺さぶってくれるのか、書かれていない。加えて「山田穣」名義の初単行本であり、「謎の新人(笑)」なので、作家名で売ろうというのでもない。一見のお客さんには肩透かしを食らわすような文句が並んでいる。
 およそタイトルとジャケ絵からは何も伝わらない、まさに「読んでみないとわからない」売りだ。だが、マンガ批評系ブログなどで静かに言及され、評判は少しずつ伝わっている。マンガに力を入れている書店で、慎ましやかに表紙を「面だし」にしているのも見かけた。「批評」が必要とされる機会なのかな、と思わないでもない。

 さて、本編の主人公は、元気がよく、気持ちのまっすぐな小学五年生だ。彼、「御名方リント」は海があり山と森があり、その中に湖もある地方都市・芦原市に住んでいる。両親と年の離れた兄、中学生の姉、そして幼馴染の女子や友達たちと暮らしている。そこに宇宙人の美少女・通称「宇宙ちゃん」や、彼女が連れてきた人語を解する宇宙生物や、やはり少女の姿をした森の精などが絡む。子供たちの日常のなかに、非日常的な存在があれこれ入ってくる・・・・・・物語世界の基本的な「設定」を記述すれば、おおよそこんな感じになる。だが、これでは作品のことを何も説明したことにならない。いかにも紋切り型めいた物語の枠組みに対する「はずし」や自己言及がそこらじゅうに散りばめられているためだ。

 たとえば、最初ロボットのような無骨な防護服姿で登場した「宇宙ちゃん」が、美少女の姿であらためて主人公たちの前に現れたとき。彼女は「あの中に こんなのが 入ってるとか 狙いすぎだろ 〜〜〜〜」とツッコまれ、「だってそう なんだもん バルタン星人 だって中の人は きっと美少女よ」と返す。

 ふつうに受け取れば作者自身へのツッコミである。作中の登場人物が、作品の外からされるようなツッコミを入れているわけだ。そもそも地球外からやってきた宇宙人が、もろにオタクな会話を熟知しているということのおかしみがネタにされている。言ってしまえば、サブカルチャー的な記憶を共有した同士の、軽くシニカルな悪ふざけだ。手塚治虫の昔からマンガではときおりなされてきた、登場人物同士が「おまえこのマンガの登場人物だろ」と言い合うような形式の自己言及でもある。70年代以降形成された、マンガ読者の共同体を基盤とした表現だろう。この作品の面白さは、もちろんこうしたネタ的な部分にある。

 もし私が、『がらくたストリート』のセールスをとりあえず確保しようとするのなら、こうした「ネタ」を列挙し、浴びるようにマンガを読んでいるマンガ読みたちにアピールするのが早道だろう。しかし、そんなことではこの作品が達しようとしている場所にはたどりつけないような気にもなる。ただネタを共有し、シニカルに笑うだけに留まらないものがあるように思えるのだ。マンガ的な記憶への接続を、ただの「ネタ」に回収してしまわないものがあるという言い方もできるだろう。作品からにじみ出る「たのしさ」には、そんなことを思わせるものがある。ふつうの意味でのドラマトゥルギーが剥ぎ取られ、あるいは抑圧された後で、それでも残る「たのしさ」がある。

 リントたちの周囲には、常識はずれの出来事が次々と起こる。また彼の兄はオタクでありつつ、いわゆる「型破り」な人物として描かれ、さらにリントはなぜか子供ながら地元のヤクザの親分と義兄弟だったりもする。一方、日常のなかでさざなみのように起きるちいさな出来事や、他愛ない会話が妙に拡大されて描かれる。さらにシーンはめまぐるしく切り替わり、描写は随所で分断される。とんでもない出来事やドラマのきっかけとなるような出来事が次々と起きながら、それらは皆、淡々としたリアクションのなかに、つまりゆったりと続く日常のなかに回収されてしまう。ドラマトゥルギーが抑圧されている、と書いたのはこういう意味だ。

 作者は、いかにもマンガ的なストーリーを展開させる出来事や、いかにも魅力的に見えるキャラを散りばめながら、予想されるストーリー展開をことごとく封じているように見える。こと一巻の前半はその封殺に終始しているようですらある。
 ところが、後半にいたり「宇宙ちゃん」が美少女の姿で具体的に登場し、「稲羽信一郎」なる民俗学者が町にやってきて以降は、ドラマを封じたうえでなお滲み出る細部の「たのしさ」が前面に出てきたように思える。それは、ストーリーには奉仕しないかたちで、不必要なまでに細かく、闊達に描写されたキャラの動きなどに現れている。そしてそのことが、この作品がドラマティックなストーリーをシニカルに外すだけでなく、すべての出来事が日常として等価なものであることを見せてくれている。逆説的ではあるが、何もかもが等しく祝福されているという言い方もできようか。

 ここで私は、突然のように諸星大二郎という作家の名前を思い出す。
 もちろんそれは、民俗学者・稲羽信一郎の容姿が、ほぼそのまま諸星の代表作『妖怪ハンター』の主人公、稗田礼二郎のものであり、さらに「異端の学者」という設定までも巧みにパロディされていることがきっかけなのだが、それよりも、たとえば日常の空間に異常な出来事が起きながら、主人公たちが平然としているさまに、諸星の連作『栞と紙魚子』シリーズといった作品群を思い起こした。

 諸星大二郎については、詳しくはたとえば最近出た「ユリイカ」の特集号(2009年3月号)などを参照してほしいのだが、ひとつの特徴として、怪異なもの、非日常のものと日常のものを同列に描きうる筆致というものがある。すべての「もの」が、あの独特の描線によって、曖昧模糊としたままリアリティを持ってしまうということだ。『栞と紙魚子』に登場する人々が、奇怪な事件に遭遇しながらも平然と呑気に日常生活を送ってしまう展開は、この特性に支えられている。ひどくユーモラスで、おかしみに満ちているのは、そのためだ。
 一方、『がらくたストリート』の作者は、諸星のように曖昧模糊とした混沌を見せつけつつ、不思議なリアリティを醸しだすには器用すぎた。あるいは、達者すぎた。代わりに彼はマンガ的な記憶を動員し、アニメ的な動きを慎ましく、だが過剰に置く(紙面上で目立たない位置に置かれたコマで、さりげなく微分された動きを描写することを形容するとすれば、こうなる)。一巻の末尾で、主人公の兄が玄関先で倒れこみ、そのまま眠り込むさまを同じ構図でとらえた四コマのおかしみは、まさにこうした水準に宿っている。(伊藤剛)

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