おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む? タイトル画像

おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第33回 『未来日記』 えすのサカエ (角川書店)

未来日記 表紙

(C) えすのサカエ/角川書店

 バトルロワイヤルものだ。少年少女を含む登場人物たち12人が、超自然的な存在によって選ばれ、その定めるルールに従い、最後の一人が残るまで殺しあう。読み手を選ぶマンガだよな、と思わなくもない。血飛沫が飛び交うようなものは何であれ敬遠する向きもいるだろう。だが本作は、シリーズ7巻で累計200万部 突破と、スマッシュヒットと言っていい数字を出している。
 倫理的に問題のある作品として、眉をひそめる向きもいるかもしれない。だが、フィクション作品中で描かれる「死」とは、現実のそれとは等しくなく、作品の特性によってその意味を大きく変える。この場合、登場人物の「死」とは、作品からある登場人物が排除され、二度と登場できなくなるという規則を示している。それに、私たちはたとえば文芸作品や「感動できる」という作品でも、現実の生活に比べたら、よほど人が死ぬ物語を享受しているということを忘れてはならない。

 さて本作は、殺伐とはしているものの、エンターテインメントとして、じゅうぶん気楽に楽しめる。設定やシチュエーションのぶっ飛び方とあいまって、物語を円滑に進める「ゲーム」のルールづくりに工夫がされているためだ。また、作中の登場人物たちが、それぞれ命をかけたバトルを繰り広げ、緊迫感を感じさせている にもかかわらず、同時にひどくあっけらかんとした、馬鹿馬鹿しい空虚さが漂うことも、「軽く読める」虚構性を保証している。緊迫感/空虚さのバランス取り にじゅうぶん成功しているという言い方もできようか。そのあたり、「『デスノート』以降」という現代性を感じさせもする。
 「現代性」といえば、タイトルにもなり、ゲームの最重要アイテムでもある「日記」の設定は、何より「いま」のものだ。主要な媒体が彼らの持つ携帯電話なのである。携帯という小道具の使い方としても気が利いている。

 たとえば、主人公・天野雪輝の「日記」は「無差別日記」。内向的な中学二年生である彼は、小学校の頃から次第に一人遊びを好むようになり、いまではすっ かり誰とも関わらず「傍観者」を決め込むようになった少年だ。彼の「無差別日記」とは、自分の身辺に起こったことを事細かに、すべて書き記すというもの だ。意味のある出来事も無意味な出来事も均等に書いてしまうことで、自らの日常を無意味化している、という解釈もできる。

 雪輝をはじめ、ゲームに参加させられた12人の「日記」には、未来の情報が記されるようになる。そして、その記述を見た本人の行動により、随時その「未 来」は書き換わる。ただし、「DEAD END」だけは別だ。誰かが誰かを殺す「未来」が確定した時点で、日記にこの文字が表示される。この「運命」を書き換えるには、自分を殺そうという相手を 殺すしかない。これが、超自然的存在「デウス・エクス・マキナ」が彼らに与えたルールだ。

 ごく普通の、と言うよりも非力な泣き虫である男子中学生、雪輝以外の日記所持者たちは、ヒロイン・我妻由乃を筆頭に、皆、一癖も二癖もある異能の連中 だ。連続殺人鬼、爆弾魔の女テロリスト、刑事、カルト教団の女教祖・・・・・・といった具合だ。彼らは皆、自分の「日記」に送られてくる未来の記述を使 い、相手を出し抜き、亡き者にしようとする。ここに作劇上の工夫がある。彼ら各々の「未来日記」には、それぞれに特性があり、制約条件が課せられている。

 たとえば、主人公・雪輝の「無差別日記」には、自分自身についての記述は一切ない。いくら未来を予見する日記が表示されても、自分がどうなるかは全く分 からない。他方、ヒロインである由乃が持つ「雪輝日記」は、雪輝の様子を10分おきに記録したものだ。実は彼女は、ずっと彼のことを見つめてきたストー カーなのである。この設定はなかなか上手い。主人公は自分のことを闇雲に「愛している」という、自分にも危害を加えかねない(共感することの極めて難し い)パートナーと組んでいれば事態を打開できるが、しかし自分ひとりだけでは何もできない。さらに、由乃は無闇に強く、斧を振り回し、敵の頭蓋骨を平然と カチ割る。彼女は雪輝のことを一途に好きだと言うが、その目は大きく見開かれ、あきらかに正気ではない存在として描かれている。いわゆる「ヤンデレ」であ る。「ヤンデレ」とは、相手に対する一途な愛情と、妄想じみた思い込みを伴う異常行動がセットになった「萌え属性」である。医学的な根拠などはなく、むし ろキャラ萌えの極端なヴァリエーションとして受容されている。重い刃物を振り回すなど、非現実的なまでの戦闘力の強さや暴力性も特徴のひとつとされるだろ うか。
 一方、対照的に雪輝のキャラクター造形はといえば、ひどく無力な存在に描かれている。しかも、すぐにべそをかく。いずれにせよ、「男らしさ」と対極にある「女々しさ」が前面に出されている。彼の「弱さ」は特筆すべき だろう。なんといっても、7巻では「僕 弱いんだもん」と言って泣くのである。マンガの少年主人公もここまで来たか、と思わせるコマであった。

 由乃のキャラ造形は、自然主義的な人物描写ではなく、「ヤンデレ」というキャラ 属性をきれいに見せるものだ。また、雪輝以外の登場人物たちも、およそ極端な造形であり、やはりアンリアルなものだ。「リアルな」人物像として見るのであれば、彼らが置かれた不条理な状況や、狂気や、ある種の身勝手さなどは、目をそむ けたくなるようなおぞましさをまとっていただろう。しかし、私たちは、なかばひきつったように笑いながら、「安心して」彼らの不幸な惨劇を鑑賞することが できるのである。一方、雪輝には、感情のレヴェルで読者が共感する回路が残されている。そう、彼がこの不条理なバトルに「まきこまれている」という形でである。

 そんな彼は、信用も信頼もできるかどうかわからない、頭のおかしなヒロインに振り回されつつも、この苛烈なゲームのなかで生き残ろうとするのなら、彼女とパートナーでいて、彼女に守られていることが最も合理的な選択であるという位置に立たされている。こういったいった関係性から、あるいは「いま」 の現実の社会とも通じる切迫した感情を読み取ることも可能だろう。人物の造形はアンリアルでも、キャラ同士の関係性からは、身に迫るものが辛うじて受け取れるのである。そこに は、ヒロインとの愛情や信頼、主人公の成長といったものすらあるだろう。

 こうした構造は、あるいは持って回ったものかもしれない。あるいは、結局古典的な物語に回帰する保守性なのかもしれない。だが、切迫したシリアスさと馬鹿馬鹿しい空虚さのセットこそが作品の値打ちだということは、繰り返しておいてもいいと思う。(伊藤剛)

Copyrights NTT Publishing Co., Ltd. All Rights Reserved.