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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第22回 『化け猫あんずちゃん』 いましろたかし (講談社)

気に病む 表紙

(C) いましろたかし/マガジンハウス

化け猫あんずちゃん 表紙

(C) いましろたかし/講談社

 いましろたかしについて言及するには、少々勇気がいる。
 世に知られてから約20年、ずっとファンを続けている思い入れの深い読者がいるからだ。そして彼らは「ファン」の常として、ぼくよりもずっと「いましろ」をよく知っている。すべての作品を網羅し、すみずみまで読みこんでいるに違いない。彼らをプロファイリングをするならば、世の中と自分との齟齬というか摩擦が日々の基本にあるひとという感じになるだろうか。まあ、たいがいロック好きで、酒好き。でもケンカは弱い文化系男子の一変種だ。実のところ、ぼくの周囲にはわりと存在していて、「いましろを好きな人だったら、信用できますよねー」などと言われたりもする。だが世の中的には、その数は決して多くない。

 そんな連中に支持されている作者・いましろたかしは、初期には若者のどうしようもない鬱屈をユーモラスな筆致で描き、ここ十年ほどは作者自身の投影と思しきキャラをはじめ、中年男性を主人公に脱力系の短い話を発表してきた。

 さて、『グチ文学 気に病む』は、今年4月にマガジンハウスから刊行された、そんな作者の初エッセイ集だ。描き下ろしマンガも掲載されてはいるが、いわゆる「文字の本」である。
 内容はまあ、中年男の身辺雑記だ。いましろマンガの作風とはっきり通じる、明るくはないが陰鬱でもなく、脱力系ではあるが病的でもない、そんな風情の散文である。通常、「エッセイ」と言ったときに想像されるような構成の妙やら、気の効いた小粋な話は登場しない。ほとんどすべて、何月何日、どこそこの川に釣りに行った、といった小文の断片を淡々と並べることに終始する。あまつさえ、原稿料まで明かし「あと4行で原稿用紙6枚、もう少しだ。6枚で3万円、カット1枚そえて税金引かれて大体4万円。あと1行。なんにも書きたくない。人と会って喋りたい。よし終わった。風呂。」と連載の一回を結んでしまう。しかもその直前の段落では、熱海の堤防までイカを釣りに出かける様子を、部屋にいながらやけに克明に想像している。いや、散文にもほどがある。

 だが、これが、なんかいいのである。
 「なんかいい」とは、批評家にあるまじき物言いだが、しかし、そうとしか言いようがないのだから仕方がない。

 いましろファンの諸兄は、たぶんこのエッセイ集を、1998年から2002年にかけて「コミックビーム」(エンターブレイン)で連載された過去作『釣れんボーイ』の副読本として読むのではないかと思う。こちらは、作者の分身とおぼしきマンガ家「ヒマシロタケシ」が登場する、やはり日々の様子を淡々と描いたマンガだ。線の少ない、投げやりにも見えるがその実、たいへん適確な独特の絵で綴られた、乾いた、といっても違う、情けない、といってもずれる、そんな風情のマンガなのだ。

 『釣れんボーイ』のヒマシロタケシも、『気に病む』のいましろたかしも、仕事の合間に釣りに行くことばかり考えている。ヒマシロは鮎の友釣りやイカのエギングにはまり、バイクで転んで怪我をし、アシスタントたちとわんこそばを食いに行く。数年後のいましろたかしの釣行と比べると、アマゴやヤマメを釣るフライフィッシングよりも鮎の友釣りにはまっているという違いはある様子だが、基本は変わらない。
 いましろたかしは、平日から頻繁に釣りに出かけ、年に一度は遠方に釣り旅行に赴く。『気に病む』は40代になって著者が患った緑内障の様子からはじめられ、常にその進行からくる不安は描かれるものの、日本近代文学につきものの「病苦」や「貧困」は前面に出てこない。いましろの暮らしは決して楽ではないが、バイクと自家用車を持ち、世田谷区、家賃18万円の一軒家に住む。そして、シーズンにはとにかく釣りである。逆に、余裕のある暮らしにも思えるところだが、ちっとも優雅な感じがしない。マンガを描いていくことの辛さや、茫漠とした不安のようなものが文章の端々に顔を出すからだ。

 とはいえ、おそらくは意図せざるユーモアがある。二年以上に渡る『気に病む』には、この釣り旅行が二回出てくるのだが、「釣ったアユをクール宅急便で知人と家に送る」というほとんど同じくだりが繰り返されていたりする。これには笑った。そう、この釣日記は、細部の数字や地名、日時は違えど、基本的にはこの反復で構成されている。編集部から「釣り以外の文章が欲しい」といわれても、なんら変わることはない(もっとも、著者はいちおう気にしている)。

 ・・・・・・と、このウェブ連載は「作品紹介」なので、まずはできるだけ具体的な「紹介」を試みてみたのだが、だんだん辛くなってきた。
 あなた、こんな「紹介」で読んでみたくなります?
 ならないでしょ。自責の念というかなんというか、もうオレ「評論家」とか名乗るの辞める、いやそもそもオレなんかが「評論家」なんてやろうってこと自体がおこがましかったんだという気になってきた。
 『釣れんボーイ』の、『気に病む』のよさを、ちっとも言語化できてないじゃないか。

 そりゃ、たとえば日々の些事の「反復」であるとか、『気に病む』で繰り返される「何も書きたくない。何も言いたくない」という気分。そして夏の一人鮎釣り合宿で常宿にしている遍路宿のバアさんが「好きで宿業をやってるわけじゃありません!」と言ったのを聞き、「あ、そういうもんかと俺はホッとした。やる気なくてもいいのだ別に、と思った」というくだり。
 「人の良さそうな年寄りに、ただしょーがないからやってるのだ・・・と言われると嬉しい」といったところに、この本の「主題」を、いや、いましろ作品を貫く「思想」を見出すことは可能だ。
 もうちょっと工夫をして、その「思想」なりなんなりを多少なりとも凝ったレトリックで読ませることも出来ただろう。いかにも「批評ですよ」という文章に仕立てるのも、面倒くさいけれど、やればできる。ちょいと気の効いた古めの文学や映画をさりげなく引用して、それなりに趣味よく見せたりとかね。そういう芸だって、あんまり得意じゃないけど、やりゃできます。

 でもね、それ嫌なんですよ。

 一生懸命、いましろたかしの良さを伝えようとして、どんどんそこから離れていくような気がするから。いまだって、こうして言葉を重ねれば重ねるだけ、「いましろ」から遠く離れていくような気がしてならないわけだし。
 それよりも、たとえば『化け猫あんずちゃん』に登場する妖怪、「カエルちゃん」のセリフ、「なんにもしてないよ 寝たり 起きたり」をまったく説明なく引用して、どうです、すばらしいでしょう、と不親切に言い放って済ましたほうがどれだけかマシな気がする。

 最蛇足なような気もするけれど、どうして『化け猫あんずちゃん』の副読本に『気を病む』がなるかという説明だけしておくと、連載時期が並行しているからだ。すっかり言い忘れていたが、『あんずちゃん』は、2006年から07年、休刊直前の児童誌「コミックボンボン」に連載されたマンガだ。寺に拾われた子猫が、32年間生きた結果、なぜか二本足で立ち、人語を解する化け猫になったという、いちおう「居候キャラ」もののフォーマットを踏襲した作品だ。とはいえ、あんずちゃんは時々近所のおじいさんのところへマッサージに行ったり、お祭りの夜店で焼きイカを売ったりはするほかは、基本、毎日ぶらぶらしている、限りなく無職に近いオッサンである。子供向けを意識したファンタジックなお話だが、舞台が南伊豆だったり、やはり無職のオッサン「よっちゃん」が登場したりと、まあいつものいましろだったのだ。

 でも『あんずちゃん』は良かったと思う。いましろたかしのダウナーなノリと、小学五年生男子的な、一日が妙に長くて仕方ない、あのどこか余った感じがよく合っていたように思う。休刊に伴う中断が残念だ。

 『気を病む』にも、ちゃんと小学校5年生からファンレターが来て、「先生と話がしたいから家に遊びに来てくれ」と書かれていたという話が出てくる(遊びに行きたいんですがいいですか? じゃなく、遊びに来てくれ、てのがいい)。それから、家の近所のジンギスカン料理の小さな店の前で、なぜかウズラのヒナを売っている話もある。「3羽くらい欲しいのだが女房に買うな言われているのでガマンする。 じっと見ていると情が移る」とある。

 ああ、このときのウズラの雛が、『あんずちゃん』に登場した「森の妖精 ピーピーちゃん」なのね、と納得したのである。(伊藤剛)

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