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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第13回 『はこぶね白書』 藤野もやむ (マッグガーデン)

はこぶね白書 表紙

(C) 藤野もやむ/マッグガーデン 現在5巻まで発売中、以下続刊

 この可憐で不思議な作品の魅力を伝えるには、どう書き始めればいいのか。
 決して一般的な知名度の高い作品ではない。主な読者層は、十代女子だろう。残念ながら既刊は書店の店頭ではすぐに揃わないことが多く、手に取る場合は、ネット書店の利用をお勧めする。

 絵は繊細で、たいへん可愛い。いくつかの謎とサスペンスで読者を幻惑するストーリーが、実にタイトなプロットで構成されている。省略を効果的に効かせた科白まわしも上手い。子供たちの親密な感情が、慈しむような繊細さで描かれていることもいい。だが、私はひどく不穏な気持ちになる。どうして肌が粟立つような戦慄を覚えてしまうのか。おそらくは作者の、そして彼女のマンガを愛する読者たちの不興を買うであろうことを承知で言う。おそろしい。

 主人公の少女、福田ねこは高校受験にことごとく失敗、自宅を離れた全寮制の学校「盛森(もりもり)高校」に進学する。そこは人里離れた森のなかにある、謎めいた学校だった。何も知らずにやって来た彼女に告げられたのは、ここが「人間じゃないものが 人間になろうと がんばる学校」であること。猫や狐や狸、鹿などの「化(ばけ)アニマル」たちが、「より人間らしくなるための学校」である。「人間」であるねこは、「真実を知っても驚かないこと」「皆の中にとけこむこと」「自分が人間だと悟られぬこと」を条件に入学を許される。そして、結界によって外界と隔絶された学校で、ドアの開け方も知らず、「テレビって何?」と言い、道路標識の見方を授業で習う生徒たちのあいだで仲間たちと少しずつ親密な関係を作っていく。

 孤独を抱えつつ、だがひたむきさは失わない少女が、ファンタジックな場所で少しずつ成長していく物語、というのが一見した印象だろう。人々の感想にも「暖かい」「懐かしい」「ほのぼの」といった形容がみられる。絵柄のかわいらしさ、キャラクター造形の豊かさは一級といってよく、とりわけ、主人公が友達になる狐の少年・狐タ郎(こたろう)や、猫の少女・鈴原みぃ子の可愛さ(彼女の、あまりに猫らしい美少女ぶりは素晴しいの一言だ)には、素直に微笑ましい気持ちになる。あるいは児童文学方面からも賞賛されるかもしれない。だが、不穏さは冒頭からすでに感じられる。私は当初、主人公の行き場のなさが強調されているためだと考えていた。通常の学校から排除された主人公はもちろん、常識以下の日常生活をわざわざ学ぶ「化アニマル」たちは、みな寄る辺なき子供の寓意という解釈をした。

 だから一巻刊行時に書いたレビューでは、この日常生活の「練習」を手がかりに「まるで重症の引きこもりや、パニック・ディスオーダーの治療のようだ」と書き、「いま」を生きる思春期的なこころの問題の切実さと接続されているのだろうと評した。だが同時にそれが、射程の足りないチンケな解釈であることも承知していた。
 この作品には、もっと深いレヴェルで私たちの「リアリティ」の感覚を揺さぶるものが間違いなく、ある。その直感だけはあったのである。

 ネタバレになるので具体的には書かずにおくが、第3巻まで進んだところで、私はこれほど簡単な仕掛けで、「この私」が「いま、ここ」の「この身体」に宿っているという、私たちが自己と世界を規定するリアリティの根幹を揺るがせることができるのかと思った。そして最も戦慄したのは、私たちにとって親しみ深いはずの、どうということのない日常描写のほうだった。具体的には、「人間」であるがゆえに、化アニマルたちの学校にはいられないと思った(実際はもう少し複雑な感情なのだが)主人公が、どのようにしてか結界を抜け、一人夜の電車に乗って自分の家がある町にたどりつくシークエンスだ。

「・・・・・・ばんざい (到着)」

と言って両手をあげる主人公の後姿が、どこにでもあるような郊外の町の、誰もいない夜景に置かれたコマ。そして、彼女の突然の帰宅を、とくに何の感慨もなく迎える小学生の弟との何気ない会話。すべては「日常」の点景だ。だが、このシークエンスを読んで、本当に寒気がした。私たちの「現実」と近いという意味で、最も「リアル」であるはずのものが、最も根拠の薄弱なものとして置かれていることに戦慄したのである。それは、おそらく以下のような要因によるのだろう。

 まず、日常の世界(此界)と非日常の世界(異界)を明確に分かたず、地続きなものとしていること。主人公の家族は盛森高校を普通の全寮制学校として見ている。また、主人公は何の障害もなく寮内の公衆電話から自宅に電話をする。つまり、異界の論理は、いつでも此界にたやすく侵入できる。
 しかも、物語の視点はほぼいつも主人公に寄り添い、視界はきわめて限定される。そのうえ、目に入っているはずが「見ていない」ものが繰り返し登場する。あるキャラクターの側にいつのまにか別のキャラクターが忍び寄る、という動きが反復される(それは、ともすれば、読者に「わかりにくい」という印象を与えもする)。さらに主人公は物語全体を牽引する役割を持つ謎めいた本を開き、眺めるだけで、読むことをしない。
 特別に自分に託された「この学校の事なら大概書いてある」という本にもかかわらず、「文字がびっしりつまってるだけで脳が読む事を拒否してる・・・・・・」というのだ。

 知覚されているが、認識できないもの。それは、別のエピソードでは、記憶の部分的な欠落という変奏も取る。これをもう一歩進めれば、「この私」が「この身体」に宿り続けているという自己同一性の根幹すらあやしくなる。すると、ある親密な関係性の網目だけが、「この私」を辛うじてつなぎとめる根拠となる。主人公にとってそれは「盛森高校」の子供たち(設定は高校だが、子供たち、という形容がぴったりくる)によって与えられる。かくして、私たちが「現実」と呼ぶ日常のほうが危ういものとして残る。その危うさは、マンガを読む私自身の足許にも届き、背筋には冷たいものが走ったのである。

 さて、この物語とリアリティという問題系に関しては、固有名をめぐる主題が残っているのだが、「見えているが、読めない」ものにもうひとつだけ言及して本稿を締めくくろうと思う。「あの表情」である。
 マンガに登場する子供たちは、ふと黙り込み、目を大きく見開いたまま、まっすぐ何かを見つめるような顔をする。喜怒哀楽のどれでもない、感情のまったく読めない表情だ。
 それは無表情とは違う(無表情もまた、ある感情を表す表情のひとつだ)。いわば表情のゼロ記号だ。たとえば2巻で、結界の外に出た子供たちが粗大ゴミをみつけるシーン。番組を鳴らすちいさなラジカセを前にしゃがみこんだ主人公たちは、この顔をする。自分たちの帰る場所から送られたはずのものが異物のように感じられ、私はここでもぞくりとするのだ。(伊藤剛)

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