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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第7回 『もっけ』 熊倉隆敏 (講談社)

もっけ 表紙

(C) 熊倉隆敏/講談社・アフタヌーン 現在7巻まで発売中、以下続刊

 本作の舞台は、北関東をモデルにしているという。とはいっても、作中ではどこと特定はされず、どこか日本の地方という程であるのだが(岐阜県にある「養老天命反転地」を模したテーマパークが登場したりもする)、作者のインタビューによれば、直接作画の参考にしたのは栃木県なのだそうだ。だがぼくは、岐阜か、滋賀か、東海地方以西のどこかだと思っていた。それは何も「養老天命反転地」が出てきたからではない。描かれているのは、「ファスト風土」化を被ることのない、かといって過疎までには至らない、きちんと機能している田舎だ。そんな土地の「風景」をみて、漠然とそう思っていたのである。
 『もっけ』の主人公は、常人には知覚できない物の怪と日常的に接する姉妹だ。姉・静流は物の怪たちの姿を見ることができ、妹・瑞生は、彼らに憑かれやすい体質を持つ。連載当初、姉は中学生、妹は小学生。彼女らはそのために親元を離れ、怪異への民間伝承的な対処法を知っている祖父のもとで暮らす。作中の時間はゆるやかに経ち、姉は家から離れた女子高で寮生活をはじめ、妹は中学に上がって柔道をはじめる。
 エピソードは、抑えた筆致で淡々と描かれる。物の怪が登場するとしても、派手な戦闘やら人死にの出るような事件は登場しない。ともすれば地味な作品と見られがちなところだが、日常の暮らしのなかで怪異を怪異としてそのまま描こうという生々しさが、本作に非凡な魅力を与えている。物の怪に「憑かれやすい」妹は、物の怪の見えない、感じられない人々からは、単にすぐに具合の悪くなる子供に見えている。つまり、日常のなかに置かれた怪異は、身体や心の変調を基調として描かれる。そこには思春期前期的な、心身の成長にともなう齟齬や違和感も含まれ、物の怪たちは、身体や心の変調のメタファーとして読める。
 物の怪たちの描かれようについて、ここで急いで付け加えなければならないのは、彼らが具体的に描かれた姿を持つということだ。それはユーモラスで、おどろおどろしくない分、やけに存在感があり、体温のぬくもりすら感じさせる。そして、彼らの姿を見ることのできる姉・静流が、歩いていてひょいと彼らを避ける仕種などに、彼らと「人」との距離感を見ることができる。人間と敵対するとは限らないが、しかし必要以上に親しみやすくもなく、ただ「そこにいる」者たち。そんな物の怪たちは、丁寧に描かれた風景のなかにも置かれる。それはまるで、もともと彼らが住まっていた土地に、あとから人間が入り込んできたと告げているようだ。言い換えれば、そこに「いた」だけのものに、我々が勝手に意味を見出しているということだ。その意味では、彼らはまるで風景のようでもある。
 「風景」といえば、本作が生々しく感じられるのは、風景に負うところが大きい。ぼくは趣味の鉱物採集を通じて、それなりに方々の田舎の風景を見ている。東日本と西日本、たとえば栃木と岐阜と福井と兵庫の佇まい、家々の作りや植生などの微妙な差異もわかっていると思っていた。それだけに北関東をモデルにした「背景」を岐阜かどこかと勘違いしていたことには、軽い驚きを覚えた。これは作者の描写が正確さを欠き、情報量が足りなかったということではない。そうではなく、「風景」が、主人公たちにとってのものとして見えていたということだ。
 もとより我々は、感情移入という回路を通じて、マンガに描かれた風景を「見る」のではなく「読む」。このことは、マンガに描かれた風景の「絵」だけを取り出してみれば分りやすいだろう。魅力的だったそれは、コマの連続から取り出された途端に、安っぽい、いかにも薄っぺらなものになってしまう。「絵画」として鑑賞することなどできないのだ。そんなマンガの「風景」が訴えかけるのは、あくまでも登場人物たちが「見た」ものとして、私たちが受け取るからだ。それは登場人物たちの「内面」と対で存在する。だからこそ、自分の地元である東海地方の田舎だと錯覚をした。自身にとって親しみのある田舎の「風景」、つまり自分の内面を、いつのまにか投影していたのだ。
 登場人物たちの「見た」ものとしての「風景」は、物語がコマの連続によって語られ、さらにそのコマの連続が、登場人物たちがコマの外へと向けるまなざしのネットワークで繋がれるという構造に支えられている。つまり、風景は「コマ構造」がもたらすリアリティの産物と位置づけられるのだ。さらにやや強引に、これを言語的に秩序づけられた「意識」に相当させることもできるだろう。では、もう一方の物の怪たちの存在感はどうなのか。身体や心の変調のメタファーというアイディアとあわせて考えると、人間のうちに潜む、無意識的な「何か」をどうにか可視化したもののように思えてくる。それは、心と身体の境界に存在する、「心身症」という言葉がはからずも表しているような、通常は意識することのできない「病の種」とでもいうべきもののようですらある。ぼくがこの作品に、ぞくりとするような怖さを憶えるのは、こうした想像による。
 ではそれは「無意識」に相当するのか。だが一方で、マンガ表現のうえでは、キャラ図像のリアリティがもたらすものだ。キャラもまた、表現上の制度のひとつであり、秩序づけられた体系を持つ。であれば、むしろ意識と無意識の境位にあるものとしたほうがよいようでもある。ここで我々は「無意識」についてより精緻に考えざるを得なくなる。キャラへの考察は、意外なところで深い穴を開けている。(伊藤剛)

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