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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第5回 『ナチュン』 都留泰作 (講談社・アフタヌーン)

ナチュン 表紙

(C) 都留泰作/講談社・アフタヌーン 現在2巻まで発売中、以下続刊

 もしマンガ表現のトレンドを、若い作家たちが次々と繰り出す新しいスタイルのみで判断するのならば、このマンガのスタイルは反時代的なまでに「古い」。ときにページあたり10コマを超えるコマ構成、ショットの切り返しを多用し、ダイアローグを基本とした映画的なコマ展開、何よりもまして風景と同一の線で描かれる、目が小さなキャラ絵。近未来海洋SF『ナチュン』の紙面は、大友克洋の初期作品を思わせもする。だが、80年代ニューウェーヴとすでに縁の切れてしまった20代以下の若い読者は、これを古くさいとも思わないだろう。つまり、ひとつのスタイルとして受容される。このような状況は、2000年代になってはじめて現れたものだろう。本作のような作品は、やはり「いま」にしか作られ得ない。
 物語は、ただイルカの生態を記録しただけの映像が「数学の論文」として提出されたことに端を発する。事故で大脳の左半球を失った、高名な数学者が作ったものだ。大学院生である主人公・石井光成(テルナリ)はその映像を見て、画期的な「理論」だと直感する。人間ばなれした思考能力はそのままに、言語能力のみを失った天才の新しい仕事だと感じたのだ。彼は、誰も解釈できず、解読できないそれを理解すれば、人工知能を作ることも、そこから派生する富や権力を独占することもできると確信し、「理論」を世界でただひとり解読し「世界征服」するという野望を持つ。その野望のため彼は、イルカの集団を観察できる場所を求め、沖縄の小さな島・真計(まけい)島にやってくる。そして、島の中年漁師・ゲンさんとともに潜水漁に携わるようになる。
 一人暮らしのゲンさんは、島の共同体からはぐれた「変わり者」だ。過去には那覇でヤクザをやっていたらしく、いろいろ過去にいわくがある様子だ。はじめは乱暴に当たるばかりだった彼が主人公と打ち解けていくにつれ、実は愛すべき中年男であることが読者にも伝わってくる。この作品のいい点は、世界をひっくり返す「理論」という、抽象的でサイズの大きな話をしつつ、同時にひじょうに下世話な、人々の生活感をしっかり描いていることだ。たとえば人工鰓肺(さいはい、水中で呼吸可能にする装置)といったSFガジェットも、塩っ辛く日灼けした漁師のオッサンどもの仕事道具として登場する。そこがいい。そのうえで、日常の描写の背後に大きなスペクタクルを予感させるものを置く。主人公の身辺にちらつく、東シナ海を縄張りにする非合法組織や、数学者を探しているとおぼしき機関の影。加えて、言語能力を持たず、だがいつもイルカと戯れている謎めいたヒロインの存在。島には数学者本人までが現れる……。
 この物語がどこへ向かうのかは、現在のところまだ分らない。掛け値なしに先が気になる。
 世界の「真理」に向かう抽象的な思考と土着的な日常にまみれる姿勢。これはフィールドワーカーのものであろう。著者・都留泰作は、プロの文化人類学者という顔も持つ、現役の富山大学准教授である。マンガ以外の専門的なキャリアを持った描き手が、中年になってからそのキャリアを活かし、作品を紡ぎだすこと、これもまた、マンガの「現在」だろう。(伊藤剛)

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