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ビートン夫人の教え

5 <前編>

 いよいよビートン夫人の本領たる台所の経営ということに話が進んでくると、いちだんと熱もこもり、具体的で詳細なことがらにまで論じ及んできて、これはこれでなかなか興味深い。
 たとえば、夫人は、「ストランド336番地のリチャード&ジョン・スラック社」の厨房器具カタログのセットをここに引用して、当時の厨房というものがどのような道具を必要としていたのかを教えてくれる。ちょっとこれを見てみよう。

ティー・ケトル(やかん)
トースト用焼き串
パン粉おろし器
真鍮のロウソク立て一対(たぶん食卓用の装飾的な物)
ティーポット&トレー
ボトル型ジャッキ(ボトルの様な形で中にネジ式の心棒が入っていて、それを回して使うジャッキ)
スプーン一式
ロウソク立て一式
ロウソクを入れる箱
ナイフとフォーク一式
焼き串セット数種
肉切り庖丁
灰漉し器(調理ストーブの灰を移して揺すりながら網でゴミなどを選別する箱)
コーヒー・ポット
水切り籠(琺瑯製の穴あき籠で、普通把手と糸底が付いている)
錫の片手鍋一式
鉄の片手鍋一式
同じく鉄製蒸し器
大型茹で鍋
鉄製シチュー鍋
脂汁受け皿&スタンド
塵取り
魚用及び卵用へら(Fish & Egg-slice)
フィッシュ・ケトル一式(魚を丸ごと茹でるための細長い鍋)
小麦入れ箱
アイロン一式
フライパン一式
焼き網
マスタード入れ
塩入れ(テーブル用)
胡椒入れ
ふいご一組(調理用のストーブの火を熾すのに使う)
ゼリー型一式
プレート・バスケット(ナイフやフォークを入れておくための仕切りと把手の付いた箱)
チーズトースター(先っぽの籠にチーズを載せて火に炙るための長い柄のついた道具)
石炭シャベル
木製挽肉器(wood meat-screen、あのソーセージなどを作るのに用いるハンドルの付いた挽肉器)
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以上セット価格
8ポンド11シリング1ペンス

 今の目で観ると、いったい何に使うんだろうと思うようなものも含まれているけれども、これらの道具類の集合から、当時の台所でどんな調理がよく行われていたかおおかたの見当が付くような気がする。そうして、この時代の使用人たちの給料が、一般的料理人で年俸500ポンド程度であったというところと比較すると、案外とリーズナブルな値段で、決してぜいたくな品を揃えようというのではない、堅実な買い物ぶりが伺われる。
 そうして、特筆すべきことは、ここに夫人が、特に衛生上の注意を縷々示していることである。
 そもそもイギリスの人たちは伝統的にあまり衛生観念は発達していなかったように思われる。それは、日本のように清らかな水の豊かな風土とは異なって、物を洗うにも必ずしも十分な水利が保証されない国土だったからかもしれない。
 古い城館などに行くと、しばしば食卓用の古い樫のテーブルなどがあるが、その足下には、かならず「足置き板」というものが付いている。すなわちこれは、食事のときに、昔のイギリス人は食べ物を食ったらその骨だのガラだのを、そこらの床にほっぽり出して食べ続けたのだそうである。そうすると、それを目がけて犬や猫なども来たかと思うけれど、同時に鼠が跳梁跋扈して、どうかすると人間の足に噛みつくおそれがあった。そこで、食事をしている間、足を床に置いておいては剣呑だというので、かならずその足上げ板のうえに載せて置いたのだそうである。
 しかし、ヴィクトリア時代という時代は、イギリスが国力の充実を背景に、植民地から流入する膨大な富を、さまざまなインフラストラクチャーの整備に投入した時代で、以て、公衆便所、公共下水、救貧院、病院、公衆浴場、恩賜の洗濯所など、公衆衛生のための施設がほぼ完備されるに至るのである。
 同時に、人々を啓蒙する運動もしきりと行われるようになる、つまり、この時代はイギリス最大の啓蒙時代であった。


(後編へつづく)
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