ビートン夫人の教え
1 ビートン夫人とは誰か。<後編>
イギリスに渡って間もなく、1984年の夏のことだったが、私はスティーヴン・ストレンジ君というイギリス人の友達と、お茶など喫しながら、台所を兼ねたフラットの食堂で四方山の話に興じていた。
昔から私は料理が好きで、ロンドンでももちろん自炊を原則として暮していたので、こんど日本料理を御馳走してやるから、イギリス料理なども教わりたいものだ、というようなことを口にすると、スティーヴンは、打てば響くように、こう言った。
「それじゃノゾム、ミセス・ビートンの本を読めばいいと思うがねえ」
私にとって、ミセス・ビートンという名前は初耳だったので、それはどういう本なのかと聞き返した。
「ミセス・ビートンか。イギリス人だったら、ミセス・ビートンの名前を知らない人はいない、というくらい著名な料理家事のオーソリティでね」
「ふーん。知らなかった。で、それは現代の人かい」
「いやいや、彼女はヴィクトリア時代の人さ」
ヴィクトリア時代は1837年から1901年まで、つまりは、ほぼ19世紀後半という時代、日本でいえば幕末から明治34年までである。
日本で幕末や明治の料理本といったら、それは間違いなく「古典」であって、そこに出ている料理などは到底現代に通用するものとは思えない。
「しかし、そんな古い時代の話じゃなくてさ・・・」
と私が疑問を呈すると、彼は、からからと笑いながら言った。
「いや、ミセス・ビートンは昔の人だけれど、ミセス・ビートンの料理本は今でも立派に通用するのさ」
信じ難いことである。
私は、眉に唾をつけようかという表情であったかもしれない。すると、彼がこう言った。
「じっさい、彼女の料理本は無数に版があって、いまでも、新刊本としてビートンの料理書ってのは本屋に並んでいるよ」
彼はそういう驚くべきことを平然とした表情で言った。びっくりではないか。19世紀の料理書が、20世紀の末になろうという頃になっても、なお「新刊書」として通用する、というのだ。いかにイギリスが「変らない国」であるとしても、料理のような、どちらかといえば不易的であるよりは流行的であるものが百年以上も変らぬレセピで作られるとは!
「もちろん、僕の自宅にも、おふくろが愛用してるのが一冊ある・・・もうボロボロになってるけどね」
スティーヴンは当然のことだと言わぬばかりの口調で言った。
「いま君は無数に版がある、と言ったね」
「ああ、そのとおり。僕自身は料理は不得意だから、あまりミセス・ビートンは読まないけれど、どこでもいい、古本屋に行ってみれば、いつだってどこだって一冊や二冊は古いエディションのものが出ているよ」
この時、私は、ぜひその古いエディションの版を実際に手に入れたいものだと思った。
「ところが・・・」
スティーヴンはさらに続けた。
「ところが、不思議なことに、この料理本はたいていどの版にも『刊年』が記載されていないんだ。まあデザインとか用紙なんかを見ればだいたいの見当はつくけれど、ヴィクトリア時代末期のものらしい版もそれほど珍しくなく見つけられる。値段も、だから大した事はない。しかし多くのものは、たぶん20世紀の前半くらいのもので、古本屋の店先で見るたびに装訂が違うというのが、まあ面白いところだね。なんなら、こんど一緒に古本屋巡りでもしてみるか」
もともと書誌学者で、書物の版種とか刊年とか装訂とか、そういうことには並々ならぬ興味を抱きがちの私は、ここに至って、その『ビートン夫人の料理書』なるものを、どうでも手に入れたいと思い立ったのだった。
思えば、それが私とビートン夫人との、初めての出合いであった。
スティーヴンは、いつもこうやって私の知らなかったことを教えてくれるありがたい友人だったが、もし彼の教示がなかったら、おそらく今この文章も書かれることはなかったかもしれない。
さて、それからしばらくして、私は、・・・どこの本屋だったかちょっと記憶が薄れているけれど、たぶんその頃住んでいたロンドン北方ハイゲートの町から少しだけ西に坂を上ったハイゲート・ヴィレッジの小さな古本屋だったような気がする・・・一冊の分厚い古書『Mrs Beeton's Household Managements』を手に入れた。価は25ポンドかそこらのものだったであろう。
なるほど、スティーヴンの言ったとおり、刊年らしきものはどうひっくり返しても見当らなかった。
この本は、くすんだ薄緑色の布表紙に、アールデコ風幾何学的文様の型押しを施した赤い皮革で背をくるみ、そこに金文字で上記の通りの書題を印字してある。その背の下部には「Ward Lock & Co」と出版社の名が、これも金泊で押してあるという体裁をもち、全部で1680ページにも及ぶ大冊の本である。
しかしながら、この本の序文には「New Edition」と謳ってあって、文中に、
「あるいは本書の如く、もとより浩瀚にして完備せるものについて、事新しく『新編集』版を出刊する必要があるということは不思議に思われるかもしれない。しかしながら、世界は、とりわけこの『大戦』以降、電光石火の勢いで遷移し、時世の変遷は家事百般にもその立脚点からして著しい作用を及ぼさずには置かなかった」
などと書かれているのを見る。この『大戦』はむろん第一次大戦であろうから、すなわちこのエディションは、その体裁も考慮して、おそらく1920年頃の増補新版であろうということはおよそ見当がつく。
その後、私は、このビートン夫人の家政書のなかから料理のところだけを抜き出したというスタイルの、『Mrs Beeton's All About Cookery』と題された別本も入手することができた。
しかし、これも上記の『増補新版』の抄出本であることは、同じ序文を持つことで分かる。こちらは、黄土色の布装本で、全体に麦穂をシンボライズしたらしいアーツ&クラフツ調の型押しの表紙を持ち、これも明らかに1920年代の刊本であることが分かる。
ところが、ウタ・シューマッハ・ヴェルカー女史の『The Success of Mrs Beeton』という論文(Antiquarian Book Monthly Review,1984年12月所収)によると、初期のほんとにビートン夫人が編集した原刊本は、元来が、(ちょうど現代のデアゴスティーニ本などのごとく)毎月3ペンスの代金で、いわゆる逐次刊行物(serial publishing)のスタイルで売り出されたものであった。その一冊ずつは片々たる小冊子で、美しくデザインされた袋に入れて販売されたのであったらしい。
この袋入り小冊子スタイルの料理書が発売されたのは、1859年11月1日からであった。そうしてしかも、この料理本を全巻予約購読した人には、25ギニー相当の価値ある金時計が景品として貰えるという特典まで用意されていた。
もともと確たる刊年を印刷していないのは、こういう逐次刊行物として世に出たからなのであって、それが一冊分に完結すると、1シリング6ペンスという装訂料金と引き換えに、版元において一冊に合綴製本してくれたのだという。
この版元において合綴した本の他に、各地の読者がそれぞれに地元の製本屋に合綴装訂させたものが夥しくあるわけなので、この本は結果的に無数の装訂を持つということになった。
しかしながら、そういうふうに分冊して売るのは、読者にとっては「買いやすい」利点がある反面、散佚しやすいとか、壊れやすいとかいう欠点もある。
そこでこれを最初から一冊に綴じて、堂々たる単行本として売り出すということになった。1861年10月1日のことで、価格は7シリング6ペンスであった。
じつは、この家政書を出版したのは、サミュエル・オーチャート・ビートン(Samuel Orchart Beeton)という男であった。
言うまでもなく、編者イザベラ・メアリー・ビートン(Isabella Mary Beeton)の夫であり、当時もっとも成功した腕利きの雑誌編集人兼出版人であった。
この夫妻の伝記的事実については、セーラ・フリーマン女史の『Isabella and Sam』(Coward, McCann and Geoghegan, Inc. New York)という本に詳しい。
また、その概略は、オックスフォード大学から出ている『Mrs Beeton's Book of Household Management』というペーパーバックのに付せられたニコラ・ハンブル女史の解題によっても知ることができる。
イザベラは、1836年(ということは、まさにヴィクトリア時代が始まる前年)ロンドンのチープサイドに生まれた。まさにヴィクトリア時代という、大英帝国の栄光とともに生まれてきたと言っても良い。父親はジョン・メイソンと言い、当時新興の中産階級に属する乾物商であった。が、父ジョンは、イザベラが五歳の時に死に、寡婦となった母は、その後ヘンリー・ドーリングという裕福な印刷業の男やもめと再婚、そのそれぞれに4人の子供があったから、ここに8人の子供を擁する大家族が出現したが、どっこいこの両親はさらにせっせと子を産み続け、なんと総勢21人の子持ちとなったというからびっくりである。謂わば、イザベラは、この異常に多い兄弟のほとんど長女格で育ったのである。
やがてイザベラはロンドンの中心部から少し北のイズリントンの寄宿舎学校に進み、後にはドイツのハイデルベルクの寄宿舎学校に入学して、ここでフランス語、ドイツ語、そして玄人はだしのピアノの腕前まで身に付けるという才覚と頑張りを示した。
いわば、新興中産階級の令嬢として、知識教養と芸術的技能とを充分に身に帯びた新時代の女性として育てられたのだと見てもよい。
イザベラが料理に興味を持ち、また多少の実習もしたのは、ドイツの学校時代のことであったらしいから、もし彼女がハイデルベルクの学校に行かなかったら、今日イギリスの料理の聖典ともなっている「ミセス・ビートンの家政書」は生まれなかったかもしれない。
(後編につづく)
昔から私は料理が好きで、ロンドンでももちろん自炊を原則として暮していたので、こんど日本料理を御馳走してやるから、イギリス料理なども教わりたいものだ、というようなことを口にすると、スティーヴンは、打てば響くように、こう言った。
「それじゃノゾム、ミセス・ビートンの本を読めばいいと思うがねえ」
私にとって、ミセス・ビートンという名前は初耳だったので、それはどういう本なのかと聞き返した。
「ミセス・ビートンか。イギリス人だったら、ミセス・ビートンの名前を知らない人はいない、というくらい著名な料理家事のオーソリティでね」
「ふーん。知らなかった。で、それは現代の人かい」
「いやいや、彼女はヴィクトリア時代の人さ」
ヴィクトリア時代は1837年から1901年まで、つまりは、ほぼ19世紀後半という時代、日本でいえば幕末から明治34年までである。
日本で幕末や明治の料理本といったら、それは間違いなく「古典」であって、そこに出ている料理などは到底現代に通用するものとは思えない。
「しかし、そんな古い時代の話じゃなくてさ・・・」
と私が疑問を呈すると、彼は、からからと笑いながら言った。
「いや、ミセス・ビートンは昔の人だけれど、ミセス・ビートンの料理本は今でも立派に通用するのさ」
信じ難いことである。
私は、眉に唾をつけようかという表情であったかもしれない。すると、彼がこう言った。
「じっさい、彼女の料理本は無数に版があって、いまでも、新刊本としてビートンの料理書ってのは本屋に並んでいるよ」
彼はそういう驚くべきことを平然とした表情で言った。びっくりではないか。19世紀の料理書が、20世紀の末になろうという頃になっても、なお「新刊書」として通用する、というのだ。いかにイギリスが「変らない国」であるとしても、料理のような、どちらかといえば不易的であるよりは流行的であるものが百年以上も変らぬレセピで作られるとは!
「もちろん、僕の自宅にも、おふくろが愛用してるのが一冊ある・・・もうボロボロになってるけどね」
スティーヴンは当然のことだと言わぬばかりの口調で言った。
「いま君は無数に版がある、と言ったね」
「ああ、そのとおり。僕自身は料理は不得意だから、あまりミセス・ビートンは読まないけれど、どこでもいい、古本屋に行ってみれば、いつだってどこだって一冊や二冊は古いエディションのものが出ているよ」
この時、私は、ぜひその古いエディションの版を実際に手に入れたいものだと思った。
「ところが・・・」
スティーヴンはさらに続けた。
「ところが、不思議なことに、この料理本はたいていどの版にも『刊年』が記載されていないんだ。まあデザインとか用紙なんかを見ればだいたいの見当はつくけれど、ヴィクトリア時代末期のものらしい版もそれほど珍しくなく見つけられる。値段も、だから大した事はない。しかし多くのものは、たぶん20世紀の前半くらいのもので、古本屋の店先で見るたびに装訂が違うというのが、まあ面白いところだね。なんなら、こんど一緒に古本屋巡りでもしてみるか」
もともと書誌学者で、書物の版種とか刊年とか装訂とか、そういうことには並々ならぬ興味を抱きがちの私は、ここに至って、その『ビートン夫人の料理書』なるものを、どうでも手に入れたいと思い立ったのだった。
思えば、それが私とビートン夫人との、初めての出合いであった。
スティーヴンは、いつもこうやって私の知らなかったことを教えてくれるありがたい友人だったが、もし彼の教示がなかったら、おそらく今この文章も書かれることはなかったかもしれない。
さて、それからしばらくして、私は、・・・どこの本屋だったかちょっと記憶が薄れているけれど、たぶんその頃住んでいたロンドン北方ハイゲートの町から少しだけ西に坂を上ったハイゲート・ヴィレッジの小さな古本屋だったような気がする・・・一冊の分厚い古書『Mrs Beeton's Household Managements』を手に入れた。価は25ポンドかそこらのものだったであろう。
なるほど、スティーヴンの言ったとおり、刊年らしきものはどうひっくり返しても見当らなかった。
この本は、くすんだ薄緑色の布表紙に、アールデコ風幾何学的文様の型押しを施した赤い皮革で背をくるみ、そこに金文字で上記の通りの書題を印字してある。その背の下部には「Ward Lock & Co」と出版社の名が、これも金泊で押してあるという体裁をもち、全部で1680ページにも及ぶ大冊の本である。
しかしながら、この本の序文には「New Edition」と謳ってあって、文中に、
「あるいは本書の如く、もとより浩瀚にして完備せるものについて、事新しく『新編集』版を出刊する必要があるということは不思議に思われるかもしれない。しかしながら、世界は、とりわけこの『大戦』以降、電光石火の勢いで遷移し、時世の変遷は家事百般にもその立脚点からして著しい作用を及ぼさずには置かなかった」
などと書かれているのを見る。この『大戦』はむろん第一次大戦であろうから、すなわちこのエディションは、その体裁も考慮して、おそらく1920年頃の増補新版であろうということはおよそ見当がつく。
その後、私は、このビートン夫人の家政書のなかから料理のところだけを抜き出したというスタイルの、『Mrs Beeton's All About Cookery』と題された別本も入手することができた。
しかし、これも上記の『増補新版』の抄出本であることは、同じ序文を持つことで分かる。こちらは、黄土色の布装本で、全体に麦穂をシンボライズしたらしいアーツ&クラフツ調の型押しの表紙を持ち、これも明らかに1920年代の刊本であることが分かる。
ところが、ウタ・シューマッハ・ヴェルカー女史の『The Success of Mrs Beeton』という論文(Antiquarian Book Monthly Review,1984年12月所収)によると、初期のほんとにビートン夫人が編集した原刊本は、元来が、(ちょうど現代のデアゴスティーニ本などのごとく)毎月3ペンスの代金で、いわゆる逐次刊行物(serial publishing)のスタイルで売り出されたものであった。その一冊ずつは片々たる小冊子で、美しくデザインされた袋に入れて販売されたのであったらしい。
この袋入り小冊子スタイルの料理書が発売されたのは、1859年11月1日からであった。そうしてしかも、この料理本を全巻予約購読した人には、25ギニー相当の価値ある金時計が景品として貰えるという特典まで用意されていた。
もともと確たる刊年を印刷していないのは、こういう逐次刊行物として世に出たからなのであって、それが一冊分に完結すると、1シリング6ペンスという装訂料金と引き換えに、版元において一冊に合綴製本してくれたのだという。
この版元において合綴した本の他に、各地の読者がそれぞれに地元の製本屋に合綴装訂させたものが夥しくあるわけなので、この本は結果的に無数の装訂を持つということになった。
しかしながら、そういうふうに分冊して売るのは、読者にとっては「買いやすい」利点がある反面、散佚しやすいとか、壊れやすいとかいう欠点もある。
そこでこれを最初から一冊に綴じて、堂々たる単行本として売り出すということになった。1861年10月1日のことで、価格は7シリング6ペンスであった。
じつは、この家政書を出版したのは、サミュエル・オーチャート・ビートン(Samuel Orchart Beeton)という男であった。
言うまでもなく、編者イザベラ・メアリー・ビートン(Isabella Mary Beeton)の夫であり、当時もっとも成功した腕利きの雑誌編集人兼出版人であった。
この夫妻の伝記的事実については、セーラ・フリーマン女史の『Isabella and Sam』(Coward, McCann and Geoghegan, Inc. New York)という本に詳しい。
また、その概略は、オックスフォード大学から出ている『Mrs Beeton's Book of Household Management』というペーパーバックのに付せられたニコラ・ハンブル女史の解題によっても知ることができる。
イザベラは、1836年(ということは、まさにヴィクトリア時代が始まる前年)ロンドンのチープサイドに生まれた。まさにヴィクトリア時代という、大英帝国の栄光とともに生まれてきたと言っても良い。父親はジョン・メイソンと言い、当時新興の中産階級に属する乾物商であった。が、父ジョンは、イザベラが五歳の時に死に、寡婦となった母は、その後ヘンリー・ドーリングという裕福な印刷業の男やもめと再婚、そのそれぞれに4人の子供があったから、ここに8人の子供を擁する大家族が出現したが、どっこいこの両親はさらにせっせと子を産み続け、なんと総勢21人の子持ちとなったというからびっくりである。謂わば、イザベラは、この異常に多い兄弟のほとんど長女格で育ったのである。
やがてイザベラはロンドンの中心部から少し北のイズリントンの寄宿舎学校に進み、後にはドイツのハイデルベルクの寄宿舎学校に入学して、ここでフランス語、ドイツ語、そして玄人はだしのピアノの腕前まで身に付けるという才覚と頑張りを示した。
いわば、新興中産階級の令嬢として、知識教養と芸術的技能とを充分に身に帯びた新時代の女性として育てられたのだと見てもよい。
イザベラが料理に興味を持ち、また多少の実習もしたのは、ドイツの学校時代のことであったらしいから、もし彼女がハイデルベルクの学校に行かなかったら、今日イギリスの料理の聖典ともなっている「ミセス・ビートンの家政書」は生まれなかったかもしれない。
(後編につづく)