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憲法で読むアメリカ史

第26回 ブッシュ新大統領の試練

 

ブッシュ新大統領の就任

 2001年1月20日、ワシントンの議事堂前でジョージ・W・ブッシュが第43代大統領に就任した。憲法の規定にしたがってレンクイスト連邦最高裁首席判事の前で宣誓をすませた新大統領は、恒例の就任演説を行う。大統領は最高裁判所の判決によって、ようやく決着した大統領選挙をふりかえり、
 「今皆さんが目にした平穏な権力の委譲は、歴史的に見れば稀なできごとであるけれども、我が国においてはごく当たり前である。(中略)精一杯選挙戦を戦いながら、最後には潔く敗北を認めたゴア副大統領に感謝する」
 と述べ、政権交代の正統性を強調、党派の対立を乗り越えようと呼びかけた。
 ブッシュ大統領はさらに、歴史上アメリカがときに間違いを犯したことを認めながらも、礼節、勇気、思いやり、品格といった、アメリカの理念を実現するために必要な徳について、また政府の責任と市民の役割について訴えた。
 「(アメリカの理念のなかで)もっとも偉大なのは、すべての人が社会の重要な一員であり、すべての人に機会が与えられており、意味のない人生というものは一つもないという信念である」
 直接は言及していないが、スキャンダルで揺れたクリントン時代をおそらくは意識しながら、理念や徳を大切にする新しい政治を行う決意を示した。そして最後に、
 「われわれ(アメリカ国民)は全員、長い物語の一部を担っている。物語の著者ではないのでその結末を知ることはないが、互いにベストを尽くしそれぞれの責務を果たし、たゆむことなく、大きな目的のために、この物語を続ける」
 と述べる。任期中いろいろな試練があるだろう。何が起こるかわからないけれども、アメリカという大きな物語を、4年のあいだ国民と共に紡いでいこうと。
 このとき、まさか8ヵ月後にテロリストの大規模な攻撃が起こり、この物語が大きな転機を迎えるとは、大統領も国民も誰一人として予想しなかった。

ブッシュ政権の出発

 もし9.11という大規模テロ攻撃事件が発生しなかったら、ブッシュ大統領は4年間もしくは8年間の任期中どのような仕事をしただろうか。
 ブッシュ新大統領がモデルとしていたのは、父親のブッシュ第41代大統領ではなく、むしろその前のレーガン大統領、そして大恐慌以前のカルビン・クーリッジ大統領であったようだ。2人とも堅実な、しかし比較的穏健な保守主義者であり、重要な方針は自ら決定するけれども細かいことは部下に任せるタイプであった。時代が違うとはいえ、クーリッジ大統領は午後仕事をしなかったと伝えられる。カーターやクリントンのように、二六時中働いて(クリントンの場合その他のこともやって)、マイクロマネジメントに走りがちな大統領ではない。実際チェイニー副大統領に総理大臣的な役割を任せたのも、それまでの大統領とは対照的だった。
   こうしたブッシュ新政権への評価は、最初からはっきりと2つに分かれていた。共和党支持者は、清新なブッシュ大統領が有能な部下に支えられ、アイゼンハワーやレーガンのときのように、品格のある着実な、そしてリーダーシップを発揮する内政や外交を展開すると期待した。
 それに対して民主党支持の人々は、最初からブッシュは頭が悪い大統領だと信じており、特に最高裁の判決により当然大統領になるべきであったゴア副大統領が政権を不法に盗まれたという意識が強かった。ブッシュ政権が1月20日にホワイトハウスへ入ると、オフィス中のキーボードからWのキーがすべて抜かれていたという話があるほどである。
 民主党支持のある私の友人は、英語の発音も間違うような基礎能力の低い大統領に国政は任せられないと、文句を言っていた。どんなに部下が優秀でも、いざというときに正しい決断ができるだろうか。しかしブッシュ大統領は、そうした批判をときどきジョークで言い返した。「シュワルツネガーと私には共通点がある。どちらも英語が下手だ」と言ったことさえある。
 クリントン政権の末期に引き続いて経済は悪くなかったし、アメリカは平和であった。ブッシュ対ゴア事件の判決以降、最高裁も比較的静かである。9.11事件が起こる前夜まで、トップニュースはしばらく、行方不明になった連邦政府インターンの若い女性が、ある下院議員と不倫関係にあったという事件である。下院議員は彼女の失踪に関係しているのか。何か知っているのか。全米が大騒ぎになった。
 9.11事件が起こった瞬間、こういったことすべてが吹き飛んでしまう。

9.11事件と大統領の対応

 2001年9月11日朝、イスラム過激主義者のテロリストがジェット旅客機4機をハイジャックし、ニューヨークの世界貿易センターとワシントン郊外の国防総省に突っ込んだ事件は、全米のみならず全世界を震撼させた。アメリカ史のなかでも、これほど衝撃的な事件は、おそらく大恐慌が始まった1929年の暗黒の火曜日、1941年の真珠湾攻撃事件、1963年のケネディー大統領の暗殺ぐらいしかないだろう。アメリカ本土が敵に直接本格的に攻撃された事態は、1812年に始まった米英戦争のさなかイギリス軍が上陸してワシントンのホワイトハウスや議事堂などを焼き討ちした以外にない。真珠湾のあるハワイは攻撃当時アメリカの領土であった。
 9.11事件のとき、私はたまたまアメリカにいた。その日ニューヨークでスピーチをする約束があり、朝早く滞在先のヴァージニア州シャーロッツビルの町を小型旅客機で飛び立ち、ワシントンのダレス空港でニューヨーク行きの便に乗り換えた。座席についてゲートを離れる直前、突然全員降ろされる。何が起こったのかと訝りながら搭乗口へ戻った瞬間、テレビモニターで貿易センタービルが崩落するのを見て事件発生を知った。空港は閉鎖、緊急避難センターへ移され何時間も待ち、夕方出発地のシャーロッツビルへ戻った。長い一日だった。その後、9月末まで、当初の予定どおりヴァージニア大学のロースクールで教え続けながら、周囲のアメリカ人と一緒に悲しみ、彼らの受けた衝撃と怒りを共にした。
 事件後、全国民が注目したのは、大統領がこの未曾有の大事件にどう対応するかであった。国家的危機への対応は、大統領のもっとも重要な仕事である。平時の大統領はなかなか思い通りにものごとを進められないが、危機の際に大統領は殆ど無制限な権限を与えられ、あらゆる措置を取ることが期待される。同時に国民を精神的に支え、団結させる役割も果たす。
 9.11当日、フロリダの小学校を訪問中にテロ攻撃の第1報を受けた大統領は、危険を避けるためにすぐ大統領専用機で離陸する。その夜ホワイトハウスへ戻り、全米の国民へテレビで語りかけた。政府がテロリストの攻撃に対して全力で対処していることを報告し、
 「テロリストはアメリカ最大のビルを倒せるが、この国のよって立つ基盤には触ることもできない。テロリストは鋼鉄さえ破壊できるが、アメリカ国民の鉄のごとき固い決意は微動だにしない」
 と述べた。
 14日にはニューヨークへ飛び、世界貿易センター崩落の現場の瓦礫の山のうえに立って、ハンドマイクを使い即興で演説する。おそらく音質が悪くて聞き取りにくかったのだろう。「ジョージ、よく聞こえないよ」と救助隊の一人から野次が飛ぶ。すると大統領は、こう応答した。
 「君の声はよく聞こえるよ。いや、世界中の人々が、みなさんの声を聴いている。ビルを崩落させた者たちも、間もなく我々すべての声を聞くことになる」
 同日、ワシントンの大聖堂で、特定の宗派によらない礼拝が執り行われる。大統領はスピーチのなかで、「神はときに我々に理解しにくいことをなさるが、同時に神はいつもわれらと共にあり、われらの祈りを聴き、理解される」と述べた。キリスト教、ユダヤ教の聖職者と一緒に、イスラム教の聖職者が並んで座り、大統領の言葉に耳を傾けた。アメリカ国民はテロリストに対し心の底から怒っていたが、9.11は何より人間の命のはかなさについて考える、きわめて精神的なできごとでもあった。危機が国民を団結させたのか、ブッシュ大統領が国民を団結させたのか。ブッシュ大統領の支持率は9.11の直後、史上最高の90パーセントにまで跳ね上がる。

テロとの戦争

 この決議にもとづいて、ブッシュ政権 大統領は同時に、アメリカをさらなるテロから守り、テロリストとその背後にいるアルカーイダに対して断固たる措置を取ることを誓う。9月12日、テロリストの攻撃を戦争行為とみなすと宣言。14日には緊急事態を宣言した。これを支持し法的な裏付けを与えるために、18日連邦議会は上下両院で合同決議を可決し、「9.11のテロ攻撃を計画し、許可し、実行し、あるいは援助したと大統領が認める、国家、団体、あるいは個人に対して、すべての必要かつ適切な軍事力を用いる権限」を大統領に与えた。合同決議はまた、「アメリカ合衆国に対する将来の国際的テロ攻撃を防ぐために、そのような団体もしくは個人をかくまう国家、団体、個人」に対しても軍事行動を行う権限を付与した。決議前文は、「9・11事件は合衆国に対する攻撃であり、合衆国による自衛権行使を必要かつ正当化するものである」と宣言する。
はテロリストに対する軍事行動を検討しはじめる。そして10月7日、米軍はイギリスはじめ他国軍隊と共に、アルカーイダをかくまうタリバン政権が支配するアフガニスタンの攻撃を開始。北大西洋条約機構のメンバーである同盟各国は、テロリストに対する武力行使を、アメリカの個別自衛権行使として捉え、同機構の歴史上初めて集団的自衛権を発動してアフガニスタン攻撃を武力その他によって支援した。
 その後、武力行使を許す国連決議を得られないまま、アメリカ軍は2013年3月20日、英軍などと共に大量破壊兵器を隠匿し国際テロを支援すると判断したイラクを攻撃する。5月1日、大統領は航空母艦艦上で、勝利宣言を行った。ヨーロッパその他では米国の単独武力行使に批判が強かったが、国内で大統領の支持率は依然として高かった。
 しかし程なく事態は大きく変わる。アフガニスタン・イラクに駐留したアメリカ軍は抵抗を続ける現地の勢力と泥沼の戦いを強いられ、戦死者戦傷者が増大。ブッシュ政権の政策は強い批判を浴びた。そしてブッシュ政権の対テロ政策は、やがて憲法問題としても合衆国最高裁で争われる。

戦争権限と憲法

 戦時や国家的な危機の際、大統領がどこまで制約を受けずに行動を取れるのかは、アメリカ憲法史の古くて新しい問題である。国の生存と安全を確保せねばならないが、同時に国民の自由と基本的人権をできる限り守らねばならない。両者はしばしば両立が難しい。
 憲法の起草者もそのことをよく理解していた。『ザ・フェデラリスト』の第23篇で、アレクサンダー・ハミルトンは国家防衛のために必要な権限は
 「何らの制限なしに与えられるべきである。というのは、国家存亡の危機について、その範囲や種類をあらかじめ予測し定義することは不可能であり、かつまた危機を克服するに必要と思われる手段について、そのしかるべき範囲や種類をあらかじめ予測し定義しておくことは不可能だからである」
 と述べている。しかし同時にハミルトンは、第8篇で率直に、外敵からの脅威が自由を圧迫する傾向を認める。
 「自由へのもっとも熱烈たる愛着も、(脅威に対抗する)必要性に屈してしまう。戦争にともなう暴力的な財産の破壊や人命の喪失、継続する危険状態に対処するための絶え間ない努力と緊張は、そこからの休息と安全を得るために、もっとも自由を愛する国民さえをも社会的政治的権利を奪いかねない体制に追いやってしまう。より安全であるために、人々は自由を失う危険を冒すのをいとわなくなる」。
 その後アメリカの歴史において、安全の確保と自由の維持のあいだでどのようにバランスを取るかは、憲法上の大問題でありつづけた。たとえば南北戦争が始まると、リンカーン大統領は議会の許可を得ないまま南部港湾封鎖、民兵の動員、徴兵の開始、人身保護令状の停止など、一方的な措置を次々に講じる。奴隷解放宣言も、大統領の戦争権限にもとづいて行われた。
 第1次大戦下のウィルソン大統領、第2次大戦時のローズヴェルト大統領も同様である。2人ともリンカーン大統領以上に、議会からの授権のあるなしに関わらず、さまざまな政策を実施した。こうしてリンカーン大統領による非戦闘地域での軍事法廷における民間人の裁判、ローズヴェルト政権下での日系米人強制収容など、平時であれば重大な人権侵害にあたるような行為が、有事における大統領の広範な戦争権限によって正当化された。
 その後も戦争が起こる度に、大統領の戦争権限がどこまで認められるかが問題になる。朝鮮戦争のさなか全米鉄鋼労働組合は賃上げを求め、全米規模のストライキを計画、労使の話し合いが決裂して実施寸前に至る。これに対しトルーマン政権は、戦争遂行の重大な支障になると判断し、大統領の戦争権限にもとづいて全米の製鉄所をすべて一時的に国有化し、ストを中止させ生産を続けさせた。最高裁はトルーマンのこの措置を、戦場から遠く離れたアメリカ本土では正当化できないとの理由で違憲とした。有名なヤングスタウン製鉄所事件の判決である。大統領の戦争権限は決して無制限でないと判断した重要な判決であった。
 またベトナム戦争の初期トンキン湾事件の際、ジョンソン大統領に与えた武力行使許可決議は広範すぎたと後悔した議会が、1973年に戦争権限決議を可決し、議会の同意を得ぬままの大統領による武力行使の権限と範囲を著しく制限した。歴代政権は、この決議を大統領の本源的な戦争権限をしばるもので強制力がないとの立場を取る。しかし1991年の湾岸戦争においては、ブッシュ(父)代大統領が武力行使を開始する際、あえて議会の決議を求め、国連決議の可決によって国際社会の理解も得て、イラクに対する武力行使に正統性を与えた。
 息子のブッシュ大統領は、9.11事件直後に武力行使の権限を議会から得ていたので、アフガニスタン攻撃開始に関しては憲法上の問題はなかった。しかし武力行使を許可する国連決議をフランスとドイツの反対によって得られないまま、大量破壊兵器の存在を前提に始めたイラク攻撃の正統性、またテロリストとの戦争に関わって実施されたさまざまな政策や措置が、戦局の悪化にともない次第に大きな非難を浴びるようになる。そしてついにはテロリストの捕虜の取り扱いをめぐる憲法問題が最高裁で裁かれるのである。







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