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憲法で読むアメリカ史

第24回 クリントン弾劾決議

 スター独立検察官から詳細な報告書を受け取った下院司法委員会は、これを検討のうえ、1998年11月19日、クリントン大統領弾劾の可能性について公聴会を開始した。最初に証言したのは、独立検察官自身である。大統領の行動が弾劾に値することを縷々述べ、調査の過程で大統領が繰り返し虚偽の証言を行ったことを強調した。12月8日と9日には大統領側のロイヤーと証人が証言を行い、弾劾の正当性はないと主張する。これらの証言、スターの報告書、委員会独自の調査結果にもとづいて12月11日と12日に司法委員会は投票を行い、下院に弾劾を勧告した。
 弾劾を行う場合には、訴因を列挙した弾劾状(Articles of Impeachment)が作成される。下院司法委員会が提出した弾劾状原案には4つの訴因が記されていた。第1の訴因は大陪審への偽証、第2の訴因は司法手続きの妨害、第3がジョーンズ訴訟での偽証、第4は下院司法委員会から大統領に送られた81の質問の一部に対する虚偽の回答である。
 下院本会議での審議は12月18日に始まった。国連の大量破壊兵器査察を拒否するフセイン政権への報復として、米英共同部隊がイラク爆撃(砂漠の狐作戦)にふみきったため、1日延期されての開始であった。弾劾の手続き中も、大統領は国内外の危機に対処せねばならない。しかし共和党は、この爆撃が弾劾から国民の眼をそらすためのものだと強く非難した。
 実はこのとき、次期下院議長に指名されていたリビングストン議員の不倫が明るみに出る。この頃クリントンのセックス疑惑の余波で、他の政治家の不倫や不適切な性行為が次々に暴露されていた。自らの不倫疑惑が弾劾へ影響するのを恐れたリビングストン議員は、本会議場で過ちを認め議長就任を辞退する旨の演説を行い、人々を驚かせた。そして同時に大統領にも辞任を迫る。感情的なやりとりが両党の議員間でなされたが、クリントンは応じようとしなかった。
 審議は2日にわたって全部で13時間半なされ、最後に訴因ごとの投票が行われた。そして4つの訴因のうち第1と第2の2つについて弾劾を行うとの決議を19日に可決し上院に送る。第1の訴因については228対206、第2の訴因については221対212の僅差であった。残りの訴因は否決された。

クリントン弾劾裁判

 クリントン大統領の弾劾は、ジョンソン大統領のケースから実に131年ぶりであった。1973年に司法小委員会が弾劾を勧告するところまで進んだとは言え、ニクソン大統領の場合は下院による弾劾、上院による弾劾裁判が行われていない。何せ1世紀に1度のできごとである。実際に経験した人はおらず、先例が1つしかない。古い記録をもとに、上院は弾劾裁判の準備に取りかかった。すべてを取り仕切ったのは、共和党の上院多数党院内総務トレント・ロット議員である。同議員は、この裁判をジョンソン大統領のときとなるべく同じ方法で行うよう指示した。
 年が明けた1999年1月7日、上院本会議場で弾劾裁判が始まった。憲法第1条3節6項の規定にしたがい、レンクイスト最高裁首席判事が裁判長として指揮する。判事はこの仕事にうってつけであった。歴史好きで、毎年6月の末から10月初旬までの最高裁休廷期間中、本を書くのをならいとしていた。一般向けの最高裁の歴史など、数冊著している。そのうちの一つが1992年に出版した『大審問(Grand Inquiry)』という、チェース最高裁判事とジョンソン大統領の弾劾についての著書である。地味な本であるが、本を書いて得た知識が役に立った。
 レンクイスト判事もまた、なるべく先例にならってこの裁判を行おうと努力した。判事はこれより数年前から、特注の法服を来て最高裁の法廷に現れるようになっていた。左右それぞれ二の腕のところに4本黄色の筋が入ったもので、判事が好きなオペレッタ、ギルバートとサリバンの『イオランテ』に出てくるイギリス大法官の法服と同じだと言われる。レンクイストはこの特別な法服を着用して上院本会議場に姿を現し、正面の議長席に座った。
 100人の上院議員はすべて自席に座る。通常の本会議であれば、議員はほぼ自由に議論を行い、議場を歩き回り、同僚に話しかけ、本会議場を出たり入ったりする。しかしこの弾劾裁判では自席にずっと座って当事者双方の弁論を静かに聴き、最後に大統領を有罪にするかどうか票を投じねばならない。勝手が違っていた。
 本会議場前方には、裁判長に向かって左側にマネージャーと呼ばれる検察官役の下院議員13人、右側にクリントン大統領の代理をつとめるロイヤーが数人、それぞれ特別に設けられた大きな机の前に着席する。中央には演台と証言席が設けられた。前回述べたとおり、弾劾裁判はもともと英国議会貴族院の古い慣習にその起源がある。18世紀そのイギリスから独立した合衆国議会上院で、20世紀末にこの古色蒼然とした形式の裁判が行われる。きわめて珍しい光景である。レンクイスト判事が上院議員全員に、公正な判断をする旨の宣誓をさせ、審理が始まった。
 弾劾裁判は2月12日まで続いた。毎日ではないが、上院議員は何回も本会議場に釘づけになる。最初に手続き規則が採択され、当事者双方から陳述書が提出されたあと、1月14日から3日間かけて下院のマネージャーが最初の弁論を行う。証拠を提出し、偽証と司法の妨害に関する法解釈や先例を並べ、大統領を有罪とし解任すべしと主張した。1月19日から3日間、今度は大統領の代理人が反対弁論を行う。大陪審への大統領の証言ははっきりせず偽証と決めつけられない、大統領の支持率は依然高く統治能力が失われていない、この裁判は党派的偏見に満ちていて公平でないと主張する。
 1月22日と23日には、上院議員からの質問がなされた。決まりにしたがって議員が紙に記した150を超える質問を、レンクイスト判事が読み上げ、下院のマネージャーたちとクリントンの代理人が回答する。1月27日には最終投票を待たずにクリントン大統領を放免するとの決議案が提出されたが、投票の結果56対44の票で否決された。
 この裁判では結局証人の喚問はせず、その代わりに議場の外でルインスキーと2人の重要なクリントン側証人の尋問を非公開で行い、証言をビデオで採取した(この手続きをデポジションと呼ぶ)。ルインスキーの証言ビデオは2月6日本会議場で流され、国民もこれをテレビで見る。ちなみに大統領は証人として喚問されず、1回も出廷しなかった。
 こうした一連の手続きを経て、2月8日に下院マネージャーと大統領の代理人がそれぞれ3時間ずつ最終弁論を行った。ホワイトハウスのロイヤー、チャールズ・ラフは「究極的に争点は1つしかない。この大統領が職に留まることが、アメリカ国民の自由にとって危険か。党派的な感情はわきに置いて、もしみなさんの答えがノーであれば、無罪と投票すべきである」と上院議員100人に訴えかける。これに対し、首席検察官役をつとめるヘンリー・ハイド下院議員は、「大統領を有罪としないのは、宣誓をしたうえでの偽証は深刻な犯罪でないと述べるに等しい。大統領の偽証が行儀悪さの問題に矮小化されてしまう。我らの名誉にかけて正しい決定をなし、歴史に名を残そう」と訴えた。
 2月12日審判の日が来た。上院議員が非公開の議論を行ったあと、本会議場では先例にしたがって、レンクイスト判事がまず弾劾状の第1訴因条項を議会事務員に読み上げさせ、「上院議員諸氏、どう判断されるか、被告ウィリアム・ジェファーソン・クリントンは有罪であるか、無罪か、」と問いかける。名前を呼ばれた議員が1人ずつ立ち上がり、「有罪」あるいは「無罪」と答える。100人の議員がすべて答え終わると、レンクイスト判事が45対55票の投票結果を発表し、無罪を宣告した。同じことが第2の訴因に関しても行われ、50対50の結果を得て判事が再び無罪を宣告する。いずれも憲法第1条3節6項が規定する、有罪とするのに必要な3分の2の賛成に足りなかった。レンクイスト首席判事が最後に「したがって被告は放免される」と宣告して、裁判そのものは終わった。続いて判事が「反対がないようなので」と述べ議場を笑いにつつんでから短い挨拶をし、ロット議員に議事進行を戻す。同議員が首席判事への感謝決議を提案、これが可決されて首席判事他が本会議場を去ると、上院本会議場は通常の立法府に戻った。

クリントン大統領弾劾の意味

 こうして、1世紀に1度の大統領弾劾裁判が終わった。国中をまきこみ、大統領と議会がかかりきりで取り組んだこの事件の意味は一体何だったのだろうか。
 そもそも実は大統領が有罪とならないであろうことは、弾劾裁判の開始前からほぼ予測がついていた。弾劾裁判に参加した上院議員は、共和党所属が55人、民主党が45人。共和党所属の議員だけでは有罪判決に必要な67票に届かず、共和党以外の議員が少なくとも12人賛成票を投じないかぎり大統領は解任されない。共和党所属議員のなかにも弾劾裁判に懐疑的な人がいたので、最初から3分の2の票数は取れる見こみがなかった。それでも行われたこの弾劾を政権側は共和党の政治的いやがらせ、もしくは陰謀と捉え、共和党側はあくまでもやるべきことはやらねばならないと言い張った。
 アメリカ国民はこの弾劾の大騒ぎにかなり冷めていたようだ。当時の世論調査によれば、クリントン大統領弾劾を支持する人は存外少ない。たとえば下院が弾劾を決定する直前に行われたCNNギャロップ調査によれば、賛成する人が35パーセント、しない人が63パーセントいた。
 一方クリントン大統領の支持率(Approval Rate)は一貫して高く、ルインスキー事件の影響が大きかったようには見えない。ギャロップ社による世論調査によれば、大統領の支持率は1995年から1998年へかけて徐々に上がりつづけ、下院本会議が弾劾を決めた98年12月19日に、何と任期中最高の73パーセントを記録する。その後もあまり下がらず、任期の終わる2001年1月に66パーセントを記録して終わる。国民は大統領の仕事ぶり、特に経済運営の手腕を高く評価していた。
 ただし国民は、クリントン大統領の道徳・倫理観を認めたわけではない。同じくギャロップ社の世論調査によれば、1999年1月に大統領が「正直で信用できる」と答えた人は24パーセント、大統領と価値観を共有すると答えた人は35パーセントしかいなかった。これらの結果は人々が、政治家の力量と政治家のモラルを必ずしも一緒にしないことを示しているようである。
 選挙結果にも、その傾向が現れた。1998年11月下院司法委員会が弾劾の可能性について検討しつつある、そのさなかに行われた中間選挙で、共和党は予想外の苦戦をする。下院では辛うじて多数を維持したものの、5議席を失う。ギングリッジ下院議長は責任者として辞任を余儀なくされた。上院でも中間選挙の結果両党の議席数はまったく変わらない。大統領のセックス・スキャンダルで議席増を期待した共和党にとっては、予想が大きく外れた。
 クリントンの弾劾が2000年の大統領選挙の結果に影響があったかどうかについては諸説ある。まず大統領の人柄、正直さが予想以上に選択の重要な基準となり、ゴア候補は清潔なイメージを売り出したブッシュ候補に苦戦したと言われる。それを意識してか、ゴア候補は大統領から距離をとり、選挙運動中応援を求めなかった。しかしむしろクリントン政権の成果を十分に宣伝しなかったために、ゴアは敗北したのだという分析もある。
 しかしこれらはすべて弾劾の政治的意義であって、憲法上の意義ではない。歴史上稀な大統領弾劾が実際に行われたこと。ジョンソン大統領のときと同様、大統領が弾劾を逃れられなかったものの裁判の結果解任はされなかったこと。したがって大統領の議会からの独立が保たれたこと。憲法上はそれが何より重要であった。
 大統領の弾劾は基本的に考え方が異なる党派間の政治闘争の一部であるが、司法的な手続きにそって行う。大統領を辞めさせるのに議場での乱闘も、街角での暴力もない。手間はかかるが、大統領を簡単に引きずり下ろさせないことで、大統領制度の正統性を憲法が守る。弾劾裁判が終わったあとの挨拶でレンクイスト首席判事は「(有罪にすべきかどうかについての)意見の相違にもかかわらず、多数党のリーダーと少数党のリーダーが、適用すべき手続きについて合意したことにもっとも強い感銘を受けました。意見の本質的な違いを予め合意したルールによって解決できることこそ、(議会が)偉大な討議体であるしるしに他ならないでしょう」と述べた。
 ところで、話はこれがすべてではない。弾劾がすべて終わったあと1999年4月、ジョーンズ事件の審理を担当した連邦地裁のライト判事は、クリントン大統領が同事件審理の過程で信憑性に欠け意図的に誤解を招く証言をしたとして法廷侮辱の処分を行い、9万ドルの罰金を科した。このためアーカンソー州法曹協会は、クリントン大統領がその地位を離れる1日前の2001年1月19日、5年間の法曹資格停止処分を科す。大統領は弾劾裁判では有罪とならず任期をまっとうしたものの、ロイヤーとしては失格の印を押された。
 一方スター独立検察官の調査については、あまりにも強大な権限を与えすぎているとの声が高まった。そしてこれまで何回も延長されてきた独立検察官授権法が1999年6月に効力を失ったとき、議会は再授権の法律を通さずに終わる。1988年のモリソン対オルソン事件判決で、独立検察官制度は三権分立原則に反し違憲であると一人反対意見を著した、そのスカリア判事の言い分を、それまで独立検察官を使って共和党政権をさんざんいじめた民主党もようやく理解したようである。










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