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憲法で読むアメリカ史

第20回 1990年代のレンクイスト・コート

1995年のシャーロッツビル

 最高裁が合衆国対ロペズ事件の判決を下したのは、1995年4月26日である。1937年以来変わらなかった通商条項の拡大解釈に初めて異議を唱えたこの判決について、これまでかなり詳細に記したのは、本判決が最高裁の保守化において大きな意味をもったからであるが、それだけではない。
 実は同年8月から翌1996年の8月まで、私はヴァージニア大学ロースクールに訪問研究員として1年間籍を置き、アメリカ憲法史について考え文章を書く日々を送った。ロイヤーとして8年働いたあと、一度充電しなおしたいと思い、つとめていた事務所を休職しての渡米であった。
 そしてロースクールに到着早々、ロペズ事件判決について教員同士が活発な議論をするのに触れる。200年以上前に書かれた憲法の1条項の解釈が、現代の司法問題として真剣に論じられている、そのことに強い印象を受けた。1年後再び法律実務の仕事に戻ったけれども、ロペズ事件判決への遭遇をふくめ2度目のロースクール留学は、アメリカ憲法史の勉強を帰国後も続け、その後日本の大学で教える大きなきっかけとなった。本事件判決について詳しく書いた背景には、この時の思い出がある。
 実際アメリカ憲法史を勉強するのに、ヴァージニア大学は理想的な場であった。そもそもこの大学が所在するシャーロッツビルという町は、建国の父祖の1人トマス・ジェファソンの故郷である。郊外のモンティチェロという小高い丘の上に、ジェファソンが自ら設計し亡くなるまで思索にふけったチャーミングな邸宅が、今でも大切に保存されている。丘の中腹の家族の墓地に彼の墓があり、「アメリカ独立宣言ならびにヴァージニア信教自由法の起草者、ならびにヴァージニア大学の父」と彫ってある。第3代大統領、初代国務長官など、数々の重要な役職にあったことは書いていない。
 制憲会議が開かれた時、公使(実質上の大使)としてフランスに滞在中だったため、ジェファソンは合衆国憲法の起草に直接かかわっていないが、親友のジェームズ・マディソンを通じて影響を与えた。その後もアメリカ民主主義の思想家として、共和国初期の主要な政治家の1人として、憲法の制定と発展に深く関与した。
 シャーロッツビルはジェファソンの父ピーターが18世紀中頃、土地を測量し道路を引いた町であり、今でも当時建てられた裁判所が使われている。郊外のモンペリエには第4代大統領をつとめたマディソンの屋敷、同じくアッシュランドには第5代大統領をつとめたジェームズ・モンローの屋敷が残る。ジェファソン、マディソン、モンローは親しい友人で、よくこの町で集まっていたという。裁判所の法廷に3人の肖像画が掲げられている。
 さらにシャーロッツビルから東へ2時間から3時間ほど走ると、イギリス人が初めて新大陸に入植したヴァージニア植民地最初の首都ジェームズタウン、憲法制定当時のヴァージニア州都ウィリアムズバーグ、そして19世紀初頭以来の州都リッチモンドの街がある。リッチモンドは南北戦争中、南部連邦の首都でもあった。この地域には独立戦争と南北戦争の古戦場が多数残されている。
 ジェファソンが1819年に創立したヴァージニア大学は、このようにヴァージニアとアメリカ合衆国の豊かな歴史のただなかにある。この大学では、今でもジェファソンのみ「ミスター」と敬称で呼ぶのがならいである。慶應義塾で福澤諭吉だけを「先生」と呼び、あとはどんな地位にあっても公式には「君(くん)」と呼ぶのに似ている。そのためもあって、同大学のロースクールには憲法理論と憲法史の有力な学者が多く、憲法の勉強にはまことに適していた。訪問研究員は正規の教員でも学生でもなかったけれど、授業の聴講を許され、教員同士の研究会に加えてもらい、図書館を活用して、過去そして現代の憲法問題に思う存分触れた。

ローゼンバーガー事件判決:政教分離と平等のせめぎ合い

 ヴァージニア大学ロースクールに私が到着する前、最高裁はロペズ事件判決のほかにもいくつか興味深い判決を下していた。同判決に加え、これまでと少し異なる方向の憲法解釈を打ち出したのは、1995年6月29日のローゼンバーガー対ヴァージニア大学評議員会事件判決である。事件名のとおりヴァージニア大学自体が当事者であり、大学全体で話題になった。当時ロースクールのディーンの地位にあり私も世話になったジョン・ジェフリー教授が、大学側代理人として最高裁で口頭弁論を行った。
 この事件は、「Wide Awake (覚醒)」という名のニューズレターを発行する公認学生団体(Wide Awake Production, WAP)のメンバーが、大学を相手どって提起した訴訟である。大学が他の学生団体の出版活動に金銭補助を行っているのに、「覚醒」にだけ支払いを拒否するのは違憲である。原告はこう主張した。
 日本の大学と同様、アメリカの大学にも公認学生団体の制度がある。ヴァージニア大学では大学自治会に申請して審査を受け公認を得れば、学内での集会や学内施設の使用などが許される。同大学の学部生である原告ローゼンバーガーらは、学内でのキリスト教理解を深めるため「覚醒」を発刊しようと1990年にWAPを創立し、学生団体として公認を得る。そして全学生から大学が徴集する学生活動資金から創刊号の印刷費を支出するよう自治会ならびに大学へ求めたが、拒否された。州立であるヴァージニア大学が特定の宗教を信仰する団体に財政援助を行うのは、憲法修正第1条が定める政教分離の原則に反するというのが、理由である。ローゼンバーガーらは大学の再審査を求めて認められず、連邦地区裁判所に訴えて出た。第1審の地区裁と第2審の連邦控訴裁が共に原告の申し立てを退け、連邦最高裁が上告を取り上げた。
 最高裁は5対4の僅差で、ヴァージニア大学がWAPに対してのみ出版への補助金の支払いを拒否するのは違憲と判断する。法廷意見を著したケネディー判事は、判決の理由を次のように述べた。
 ヴァージニア大学はWAPを公認学生団体として認めており、学内での活動を許している。「学生へのニュース、情報、意見等を提供する」公認団体は、学生活動資金の分配を受け外部業者への支払いにあてることが許される。一方大学は、特定の宗教信条を表明し増進する「宗教活動」にはそのような補助ができないし、宗教活動に従事する組織は「宗教団体」として公認を与えない。
 WAPは確かにキリスト教の信仰にもとづく団体である。しかし学内団体としての活動はニューズレターの発行であり、布教など宗教活動への従事ではない。大学がWAPを公認したこと自体、宗教団体とみなしていないことを示す。WAPがキリスト教の考え方を表明するがゆえにその出版活動への補助を拒否するのは、言論の内容を理由に差別するに他ならず、修正第1条が禁止する言論の自由原則に反する。
 ところで修正第1条は政教分離の原則をも掲げており、州立大学であるヴァージニア大学が特定の宗教に肩入れするのを禁じている。しかしそれは政府(この場合大学を監督するヴァージニア州政府)が特定の宗教を優遇し、いわば国教のように扱うことによって、州民から信教の自由を奪うのを恐れるからである。本件の場合、WAPに対する大学の補助は、州がその信仰を支持し優遇することを意味せず、したがって政教分離の原則に反しない。そうであれば、WAPだけに補助を与えないのは、特定の見解(宗教に関する見解をふくむ)を理由に言論を禁じるものであり、許されない。よって違憲である。
 WAPへの金銭補助は、州は公立学校での宗教活動に一切関与すべきでないという最高裁の政教分離条項に関するこれまでの厳格な解釈に反する。よってヴァージニア大学がWAPへの財政補助を拒否したのは正しい。反対意見を著した4人の判事はこう反論したけれども、ケネディー判事の法廷意見は上記のとおり言論の自由原則をより重視して、これを退けた。

公立学校での祈りは許されるべきか

 最高裁は1940年代以来、公立学校における宗教活動に対し一貫して厳しい態度を示してきた。建国以来アメリカの公立学校では、キリスト教プロテスタント会派のしきたりにそった宗教教育を行うのが、一般的であった。ジェファソンが起草したヴァージニアの信教自由法と合衆国憲法修正第1条は政教分離の原則を示したけれど、プロテスタント派のキリスト教は実質上アメリカの公認宗教であったと言ってよい。20世紀前半まで、カソリックやユダヤ教はプロテスタントより一段低い扱いを受けた。そもそも修正第1条は連邦政府が対象であり、州政府には適用されなかった。
 より多様で寛容なアメリカ社会をめざす自由主義的な最高裁は、1947年エヴァーソン対教育委員会事件判決で初めて、連邦憲法修正第1条の政教分離原則は州にも適用されると判断する。ジェファソンが述べたとおり、同原則(原文上は、国教樹立の禁止)は、教会と州のあいだに壁を設けることを意味する。この壁は高く強固なものでなければならない。連邦政府も州も、特定の宗教を支援する法律、すべての宗教を支援する法律、あるいは特定の宗教を他の宗教よりも優遇する法律を制定してはならない。エヴァーソン判決で最高裁のブラック判事は、こうして厳格な政教分離条項の解釈を示した。
 それ以来、最高裁は公立学校における宗教活動、特に祈祷について、厳しい判断を示し続ける。たとえば1962年のエンジェル対ヴィターレ事件判決では、ニューヨーク州当局が作成した祈祷文を公立学校で用いるのは、たとえ特定宗派の教義によらず生徒の参加が強制されなくても違憲であるとの判決を、6対1の大差で下した。
 宗派色のあるなしにかかわらず、公立学校での宗教活動一般を否定する判決傾向は、1980年以降保守派の判事が増えてもそれほど変化しない。たとえば1992年のリー対ワイズマン事件判決で、最高裁はロードアイランド州の公立学校における卒業式で、ユダヤ教のラビ(司祭)が捧げる特定の教義に触れない祝祷を、学校の行事に実質上強制的な宗教行事をもちこむものだとして違憲無効にしている。判決は5対4の僅差であり、法廷意見を著したのは、ローゼンバーガー事件判決法廷意見と同じケネディー判事であった。
 こうした最高裁の判決に、保守派は強く反発した。憲法の政教分離条項は、確かに特定の宗教を国家が支持するのを禁止している。それはそもそも、ピューリタンたちがイギリス本国での宗教的迫害を逃れてアメリカ大陸へ渡った、この国の歴史に根ざす。しかし憲法起草者たちが宗教そのものを否定したわけではない。むしろ宗教を重視したからこそ、同じ修正第1条に信教自由の原則を規定したのである。特定の教義を支持するのでなければ、祈祷をふくむ公立学校での宗教教育は、健全な市民を育てるためにむしろ奨励されるべきである。保守派の政治家や活動家は、こう主張して公立学校へ神様を戻そうと運動を続けた。判例変更による公立学校での宗教復権は、妊娠中絶を認めたロー判決の否定と並び、保守派運動家の一大目標となった。
 こうした保守派の主張にとって、ローゼンバーガー事件判決は喜ばしいニュースであった。修正第1条が掲げる政教分離の原則と言論の自由原則が対立する場合、平等な取り扱いの観点から後者をより重視するという最高裁判決の新しい傾向は本判決以前からあったものの、ローゼンバーガー判決はこの解釈を確固たるものにした。そしてそれまでの厳格な政教分離条項解釈に、小さな風穴を開けるものだと捉えられたのである。

保守の季節

 以上のようにヴァージニア大学ロースクールに私が滞在していた頃、最高裁では保守的な司法観をもつ判事と進歩的な司法観をもつ判事のあいだで、さまざまな憲法問題についてのつば競り合いが進行していた。ロペズ事件、ローゼンバーガー事件の他にも、いくつか興味深い判決が下されているが、ここでは詳述する余裕がない。またの機会に譲ろう。なおこの2つの事件では保守派判事が勝利したが、憲法上の争点によって同じ最高裁が進歩的判決を下すこともしばしばあったのだ。
 一方アメリカでは、政治の世界でも保守派と進歩派がせめぎ合いを続けていた。1992年の選挙で共和党から12年ぶりに政権を取り返した民主党のクリントン大統領は、この時期保守派の勢いに押されて苦戦を強いられつつあった。そして1994年11月の中間選挙では、ついに共和党が連邦議会の上下両院で多数を奪回した。上院では9つ議席を増やし、その結果共和党52、民主党48となり、1986年以来初めて多数党となる。下院では実に57議席を増やし、共和党230対民主党204と、1954年以来実に40年ぶりで多数を獲得した。
 共和党の勝利には、いろいろな理由があろう。第1期のクリントン政権が期待に反して具体的成果を挙げられず、たとえば国民皆保険制度が実現しなかった。大統領にスキャンダルの噂が絶えなかった。議会の銀行や郵便局を舞台にした民主党議員による不透明な取引や金の引き出しが相次ぎ、国民の信頼が薄れた。これに対しニュート・ギングリッチ下院議員を中心とする共和党の若手下院議員と中間選挙の候補者たちが、1994年9月「アメリカとの契約」という小さな政府をめざす政策要綱を発表し、多くの国民の支持を受けた。これらの理由が重なって民主党は惨敗したのである。
 こうして1994年の中間選挙以降、クリントン政権と共和党支配下の連邦議会は2年にわたって対決の政治に明け暮れる。ギングリッチは下院議長に就任し、議員の任期制限、議員への便益供与縮小、減税、福祉改革、財政赤字縮小などに関する法律制定に邁進した。共和党は1996年11月の大統領選挙でホワイトハウスを取り戻すべく大いに張り切り、ますます攻勢を強める。そうした時期に私はシャーロッツビルで憲法史の勉強をし、最高裁における憲法判例の動きを追っていた。







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