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憲法で読むアメリカ史

第18回 ブライヤー判事就任と司法保守派の新たな攻勢

ブライヤー判事の任命

 ルース・ベーダー・ギンズバーグ判事が1983年8月に最高裁判事へ就任してから8ヶ月後の1984年4月6日、今度はハリー・ブラックマン判事が引退を表明した。女性には妊娠中絶を行う憲法上の権利があると宣言するロー対ウェード事件判決の多数意見を著し一躍有名になった同判事は、そのために各方面から批判され中傷を受ける。それでも次第に保守化する最高裁のなかでなかば孤立しながら、プロチョイスの立場を頑なに守ってきた。中絶の権利を一部制限した1992年のケーシー事件判決では反対意見を著し、ロー判決が認めた女性の権利をいささかも奪うことは許されないと熱弁をふるった。同意見のなかで「私もすでに83歳であり、永久にこの裁判所へ留まることはできない」と述べた判事は、さらに2つ年齢を重ね85歳。ケーシー判決では5対4の票で辛うじてロー判決の核心部分が守られたし、同判決を基本的に支持するギンズバーグ判事の任命は、6対3でプロチョイス派が優勢になったことを意味する。クリントン大統領もプロチョイス派である。辞めるなら今だと思ったのか、とうとう引退を決意した。
 就任からわずか1年3ヶ月でもう1人最高裁判事を任命する機会を得たクリントン大統領は、運がよかった。すでに述べたように、任期中1人も最高裁判事を任命する機会に恵まれない大統領もいる。ただブラックマン判事を除けば、他の8人はまだ比較的若かった。そのため、2期8年つとめたにもかかわらず、同大統領はその後1人も任命する機会を得ない。実際2005年にブッシュ息子大統領がロバーツ判事を任命するまで、最高裁には1人も欠員が出ず、11年間同じ顔ぶれであった。
 ホワイト判事引退のときと同様、クリントン大統領はまず政治家出身の候補を探した。しかしミッチェル上院議員に再び断られ、バビット長官も結局身を引く。政治家をあきらめると、次に自らの出身地アーカンソー州リトルロックの第5巡回区連邦控訴裁判事であるリチャード・アーノルドの指名を望んだ。イエール大学の学部とハーバード・ロースクールを一番の成績で卒業。ブレナン最高裁判事の助手をつとめ、アーカンソー州憲法を起草し、判事として公平な判決を下す。穏健で党派を問わず尊敬されるアーノルド判事は、能力人格とも申し分ない候補であった。ホワイト判事の後任としても検討されたが、そのときはアーカンソー出身者ばかりを登用することに批判が集まるのを恐れ、候補にされなかった。しかし今回改めて、この穏健な判事であれば上院の承認は問題ないと判断される。ロースクールの同級生で異なる司法観をもつスカリア判事でさえ、アーノルドに電話をかけ、「君が最悪な候補だと僕が言ったら、上院の承認が得られやすくなるかね」とジョークを飛ばして就任を支持したという。ところが同判事は20年前に癌にかかった既往歴があり、元気に活躍してはいたものの、検査の結果、癌は進行性で、任に堪えないとの診断が下る。同判事を尊敬するクリントンは、そのことを泣きながら判事に知らせたという。最高裁の歴史を通じて、間違いなく優れた候補でありながら、いろいろな事情で就任できなかった人がいる。アーノルドもその1人である。この判事が元気であったら、最高裁はまた違う方向に進んでいたかもしれない。
 アーノルド判事の診断結果を医者から知らされた5月13日の午後、クリントン大統領は最終的にスティーブン・ブライヤー第1巡回区連邦控訴裁判事指名を発表する。ホワイト判事の後任としても真剣に検討されたこの判事を、ケネディー上院議員が再度推した。クリントンはそれほどこの判事任命に乗り気でなかったようだが、他に有力な候補は見当たらず、前回任命に多大な時間がかかったことを考慮して、この発表がなされた。ブラックマン判事の引退発表から38日目の発表は、ホワイト判事の引退表明からギンズバーグ判事指名発表までの87日よりずっと早かった。
 ブライヤー判事もアーノルド判事に劣らず申し分のない経歴を有する。1938年にサンフランシスコで生まれ、就任当時55歳。スタンフォード大学を卒業、マーシャル奨学生としてオックスフォード大学モードリン・カレッジへ留学し、それからハーバード・ロースールへ進学。1964年から1965年にゴールドバーグ最高裁判事の助手として働いたあと、司法省のロイヤーとしてウォーターゲート事件の特別検察官補をつとめた。70年代には連邦議会上院司法委員会の法律顧問として活躍し、委員長ケネディー上院議員の知己を得る。また1967年から1994年まではハーバード・ロースクールの教授として教壇に立ち、行政法を教えた。
 1980年カーター大統領によってボストンの第1巡回区連邦控訴裁判事に任命され、1990年から1994年最高裁判事に就任するまで、その首席判事をつとめる。ちなみにユダヤ人のブライヤーが任命された最高裁判事のポジションは、カルドゾ、フランクフルター、フォータス、ゴールドバーグ、そして前任のブラックマン判事まですべてユダヤ人が占めており、最高裁の人事にも微妙なところで人種が考慮されているようだ。
 上院司法委員会での公聴会では、特に大きな問題はなかった。判事は明るく楽観的な性格の持ち主で、多くの人から好かれる。連邦議会で働いた経験から、議会の意向を最大限尊重する実際的で穏健な判事として知られていた。社会の大多数の問題は議会の多数決によって政治的に解決されるべきだとの信念は、スカリア判事など司法保守派と共通している。ただこの判事は連邦政府を全体として信頼し、その一翼を担う連邦最高裁もまた国民の意思を汲み立法目的を考慮して、やや踏みこんだ憲法解釈をすべきであると信じる。その司法観は、裁判官が特定の価値実現を目指してはならない、憲法はその文言と制定意図にのみもとづいて解釈すべきだとするスカリア判事の立場と対象的である。
 しかし議会での審議ではそうした司法観の違いは特に問題とはならず、民主党が多数を占める上院本会議は87対9の投票でブライヤー判事の任命を承認、判事は8月3日に最高裁判事へ就任した。クリントン大統領は2人目の最高裁判事任命に成功したのである。

司法保守派の反撃

こうしてクリントン政権のもとで、最高裁における保守派判事と進歩派判事のバランスは若干修正された。1969年以来ニクソン、フォード、レーガン、ブッシュ父と4人の共和党大統領が、合わせて10人の判事を続けて任命してきた。妊娠中絶の問題についても5対4で辛うじてプロチョイス派が多数を占めるまで進歩派を追い詰める。しかし、中絶の権利支持のギンズバーグ判事が中絶の権利を否定するホワイト判事と交代し、ブライヤー判事がブラックマン判事の立場を概ね踏襲したので、6対3とプロチョイス派の優位が確定した。これで当面ロー判決が覆される可能性はなくなる。レーガン大統領就任以来の司法保守派の悲願は達成できない結果となった。
 しかしクリントン政権のもと、保守派の勢いはなかなか衰えない。特に1994年の中間選挙で共和党は、上院で9議席、下院で54議席増やし、両院で多数を奪い返した。国民皆保険法の制定に失敗し、あいつぐスキャンダルが噴出するクリントン政権の人気は低下する。対照的に連邦議会の共和党議員たち、特に下院議長に就任したニュート・ギングリッチ議員が率いる下院共和党は血気盛んであった。この選挙結果はのちに共和党革命とも呼ばれる。
 連邦議会選挙での共和党勝利にともない、司法保守派も勢いを増した。彼らが問題にしたのは妊娠中絶の権利などいわゆるプライバシーの権利だけではない。ウォレン・コート以来下された進歩的な憲法判決は、政教分離、言論の自由、信教の自由、刑事事件被疑者の権利など他の分野にも及んでいる。ロー判決の中核的部分をケーシー判決で擁護した判事のなかにも、こうした問題に関しては保守的な立場を取る人がいて、司法保守派にはまだまだ進歩派と戦うべき憲法問題がたくさんあった。なかでも憲法のいわゆる通商条項の解釈をめぐって、進歩派と保守派のあいだに古くから対立が存在する。この問題に関し1995年画期的な判決が下された。合衆国対ロペス事件の判決である。

合衆国対ロペス事件

テキサス州サンアントニオのエジソン公立高校へ通う12年生(日本の高校3年生にあたる)の少年ロペスは、1992年3月10日、登校の際38口径のピストルと5つの実弾入りカートリッジを所持しているのを発見された。少年はその場で逮捕され、学校敷地内での銃器所持を禁じるテキサス州刑法の規定にもとづき起訴される。日本人の感覚からすると仰天する事件であるが、アメリカでは生徒が学校に銃を持ってくる、あるいは発砲することが時々あり、深刻な社会問題になっている。後の1999年にはコロラド州のコロンバイン高校で、3年生の生徒2人が銃を乱射、12人の生徒と1人の教師を射殺し、21人の生徒を負傷させて本人たちも自殺するという、最悪の事件が起こる。
 州法のもとでの起訴は、しかし翌日取り消された。その代わりにロペスは1990年に制定された「学校および学校周辺からの銃器追放法」という連邦法の規定に基づいて改めて起訴される。連邦地裁での第1審裁判で、ロペスの弁護人は上記連邦法が憲法の通商条項に違反し無効であり、被告は無罪だと主張する。しかし担当判事はこの主張を退け、未成年のロペスを6週間の保護観察処分に付した。この処分によって希望する海兵隊入隊が不可能になるのを知ったロペスは控訴する。第5巡回区連邦控訴裁はロペスの主張を認め、原審を破棄。このため合衆国が連邦最高裁に対し上告申請を行い、認められた。地方高校のめだたない事件が、憲法訴訟として一躍注目を浴びる。
 そもそもいったい学校に銃を持ち込むという明らかに好ましくない行為を禁じる連邦法が、どうして違憲でありうるのか。そう主張するのがなぜ可能なのか。それを理解するには、憲法の通商条項とその歴史について少々説明せねばならない。

通商条項解釈の歴史

1787年に開かれた憲法制定会議では、新しく創設する連邦政府にどのような権限を与えるかが中心議題の一つであった。連邦政府に包括的な権限を与える当初の憲法草案は、それまで独立国であった州の権限を大幅に制限することになるので合意できないと、各州の代表が強く反対する。結局、最終草案では連邦に与える個別の権限を第1条8節に列挙して示し、それ以外の権限は州とその人民が引き続き保持することになった。今に至るまでアメリカという国で州が独自の強い権限を保持しているのは、このためである。
 この列挙された権限の一つが第1条8節3項に規定した通商を規制する権限である。より正確に記せば、このいわゆる通商条項のもとで連邦議会は、「外国との通商」、「州と州のあいだの通商」そして「インディアン諸部族との通商」、を規制し法律を制定する権限を有する。独立以来各州はばらばらに通商規制を行うようになり、外国との貿易ならびに国内の通商が混乱した。そのためにアメリカが単一市場として機能しなくなった。本条項はその二重の弊害を除去するために制定されたものである。
 しかし通商条項の規定は簡略であったため、それが具体的に何を意味するのかは必ずしもはっきりしなかった。この条項の解釈を初めて体系的に示したのは、1824年に連邦最高裁が下したギボンズ対オグデン事件判決である。ニューヨーク州は蒸気船の発明者ロバート・フルトンとそのパートナーに、ニューヨーク周辺水域における汽船運行の独占権を与えた。この権利を本事件の原告オグデンが譲り受けニューヨークとニュージャージーの内でフェリーの運航をはじめた。ところが本事件の被告ギボンズが、マンハッタンとニュージャージー州エリザベスタウンのあいだで蒸気船による新たなフェリー運航を開始した。オグデンはニューヨーク州裁判所でギボンズを相手取って訴訟を提起し、自分の有する汽船運航の独占権を侵害しているとしてオグデンのフェリー運航差し止めを求める。第1審は原告の申し立てを認め、これを州最高裁が追認した。被告のギボンズはこれを不服として連邦最高裁に上告を申請、これが認められて最高裁が本件を取り上げる。そして原審を破棄し、オグデンの独占権は連邦憲法の通商条項に違反するゆえに無効であるとの判決を下したのである。
 本判決で法廷意見を著したのは、最高裁史上もっとも有名なジョン・マーシャル首席判事である。彼はフェリーの運航による人や物資の移動は憲法が規定する通商の範囲に含まれること、ニューヨーク州の一部であるマンハッタン島とニュージャージー州の港のあいだのフェリー運航は「州と州のあいだの通商」にあたること、そしてアメリカ合衆国を単一市場として機能させるため州間の障壁をなくすという通商条項の制定理由からして、「州と州のあいだの通商」の規制権は連邦政府が専一に有するものであること、ニューヨーク州がフェリー運航の独占権を原告に与えたのはその趣旨に反し憲法の規定に反すること、したがって当該独占権は無効であることを、順々に論じた。憲法の規定は存在していたものの、この判決によってアメリカ合衆国は州の介入や規制から自由な、真の意味での単一の市場となった。この判決がなければアメリカは今日の偉大な商業国家にはならなかった。そう主張する憲法学者もいる。
 ギボンズ対オグデン事件判決の内容はその後長い間、通商条項の基本的解釈として守られる。しかし19世紀後半になると、この条項のもとで連邦政府が規制しうる活動の範囲がしばしば問題になった。固く解釈すれば規制の対象は通商そのものでなければいけないし、州と州のあいだの通商でなければならない。純粋に州内で行われる鉱工業活動や、州内で完全に完結する通商活動を連邦政府は、通商条項を根拠に規制できない。しかし判例を通じて、たとえば連邦政府が通商条項のもとで制定した法律により、ある州内の鉄道運賃の上限を規制するのは合憲だとの解釈がなされる。州内の鉄道運賃設定は、州と州のあいだに列車を走らせるという通商活動に「直接の」影響を与えるからである。
 通商条項の解釈が拡大した背景には、19世紀末になってアメリカ経済が飛躍的に拡大し、商工業活動が全国的規模で行われるようになった事情がある。それにともない連邦政府が私企業の商工業活動を共通のルールで一律に規制する必要性が増大した。たとえば1887年に制定された州際通商法による全国的な鉄道運賃の規制や、1890年に制定されたシャーマン独禁法による大企業による独占や寡占の規制は、その代表である。通商条項はその適用範囲が限られていたものの、私企業を直接規制する権限を連邦政府に与える数少ない規定の一つとして、これらの法律を制定する根拠とされた。
 そして20世紀に入って大恐慌が発生すると、この危機を脱するため通商条項が本格的に用いられた。この条項を根拠にニューディール政策のもとルーズベルト政権と議会が協力して多数の連邦法を制定し、鉱工業製品や農産物の価格、生産量、工場や農場での最低賃金、最長労働時間などを直接規制するようになる。しかしたとえばある州に所在する工場における賃金水準や生産量は通商そのものではないし、通商に直接影響を与えるものでもない。そう主張して最高裁はこうした連邦法を次々に違憲と判断する。これに対しルーズベルト政権は、国家の危機に直面してそんなことを言っている余裕はない、純粋の工業活動であっても州と州のあいだの通商に「かなりの」影響を与える限りにおいて、これらの法律は合憲であると主張する。こうして政権と最高裁は憲法解釈をめぐって真っ向から対立した。
 このいわゆる1937年の憲政上の危機において、最高裁が最終的にどのような憲法解釈をうちだし、それがロペス事件判決にどう関係するのか。それは次回に記したい。






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