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憲法で読むアメリカ史

第16回 覆らなかったロー判決とクリントン政権誕生

妊娠中絶の是非をめぐる政治運動の激化

 1992年6月29日、合衆国最高裁判所は南東ペンシルベニア家族計画協会対ケーシー事件の判決を下した。共和党政権によって任命された判事が圧倒的多数を占めたにもかかわらず、同判決はロー対ウェード判決の基本的内容、すなわち女性は妊娠中絶を選択する憲法上の権利を有するという原則を変更しなかった。ロー判決の否定に長年精力を注いできたプロライフ派の運動家たちは、この判決に失望の色を隠せなかった。
 ロー判決はなぜ覆されなかったのか。その理由を考えるためには、妊娠中絶の問題が当時プロライフ派とプロチョイス派の間でどれほど激しく争われ、どれほど大きな国民の注目を浴びていたかを思い起こさねばならない。1987年の秋から1991年夏までワシントンの法律事務所で働いていた私は、その頃の雰囲気を記憶するけれども、今になって闘争の激しさを想像するのは難しい。
 まず両派とも頻繁にデモを行った。ロー判決が下されたのは1973年1月22日だが、それ以来今日に至るまで、この日には全国からプロライフ派の運動家がワシントンに集結し、「マーチ・フォー・ライフ」という大規模な行進を行う。毎年25万人を下らない人数がモールと呼ばれる議事堂の西に広がる芝生の公園に集まり、最高裁判所の正面まで行進する。全米の他の都市でも頻繁に妊娠中絶反対のデモが行われ、プロチョイス派の運動家たちも対抗して各地で集会やデモを行う。
 プロライフ派の運動家たちは、妊娠中絶を行うクリニックにもしばしば押しかけ、デモを行った。中絶を行うためにやってくる女性に歩道から声をかけ、中絶を思いとどまるよう説得を試みる。出入りするクリニックの医師や看護師に抗議する、罵声を浴びせる。1990年代のはじめまでは、運動家がクリニックの入り口に立ちはだかり、医師や患者が中に入ろうとするのを妨害する「救出作戦」という実力行使もなされた。クリントン政権になってそうした行為を制限する連邦法が制定され、今はほとんど見られない。最高裁も、クリニックへの接近を制限する法律は言論の自由を保証をする憲法修正の第1条の違反にはならないとの判断を何度か下している。
 当然ながら、こうした騒ぎは両派運動家のあいだでしばしば暴力沙汰になった。過激なプロライフ派の人物のなかには、妊娠中絶を行う医師を脅迫し、あるいは実際に危害を加える者さえ現れた。中絶を行う医師その他が銃で撃たれ殺された例が、いくつもある。もちろん逆もあって、中絶された胎児の写真を展示していたプロライフ派運動員がプロチョイス派の男性に射殺される事件も、比較的最近起きている。
 無論大多数の運動家は穏健なデモを行い、政治家に対する陳情を通じてそれぞれの立場を訴える。地元選出の議員に手紙を書き、電話をかけ、面会し、自分たちの主張を選挙公約に含めるよう迫る。主張に同意する議員の選挙運動を応援し、投票を呼びかける。知事や大統領に対しても同じである。ロー判決以降こうした運動が活発化し、候補がプロチョイスかプロライフかで支持を決める人が増えたため、政治家は妊娠中絶の問題について立場を取らざるをえなくなった。ロー判決はこの憲法問題を、かえって大きな政治問題にしてしまった。
 両派は運動の矛先を最高裁そのものに対しても向ける。「マーチ・フォー・ライフ」に限らず、デモ隊はしばしば最高裁の建物に向かった。ふだん静かな最高裁周辺が人で埋まり、ロー判決を非難し覆すよう求めるシュプレヒコールが繰り返される。運動家はまた大量の手紙を最高裁判事に送った。特に同判決を著したブラックマン判事には、命を狙うという脅迫状さえ届いた。
 1990年5月、日本の雑誌に頼まれ最高裁で行ったスカリア判事への私のインタビューで、こうした傾向についてたずねたらば、「最高裁の判事に陳情の手紙を書く人たちは、本気で私が彼らの意見に耳を傾け、判決を書くと思っているのでしょうか」と、しきりに嘆いていた。選挙で選ばれず終身その地位にとどまる最高裁の判事は、国民に対し直接責を負わないのだから、「国民の声に左右されず、静かに憲法解釈に専念すべき」だと力説した。
 実際スカリア判事は1989年のウェブスター判決同意意見で、ロー判決を明確に否定しない法廷意見を批判し、あいまいな判決により「われわれのもとに、国民からたくさんの手紙が寄せられるであろう。通りはデモ隊で満ちるであろう。(中略)最高裁判事が国民の声に従うよう迫るだろう」と予測した。
 その春、バイオリニスト後藤みどりさんのコンサートがワシントンのケネディーセンターで開催され、所属事務所のパートナーから切符をもらって聴きに行ったら、並びの席にスカリア判事とスティーブンス判事が座っていてびっくりした。さらにコンサートのあと日本大使館での後藤さん歓迎レセプションに出席すると、すぐそこにスカリア判事が立っているではないか。勇気を出して近づき、自己紹介をすると同時にインタビューを申し込んだ。判事、ちょっと考え、「日本語で日本のメディアだけに発表するのか」と聞かれたので、もちろんと答えると、「OK」とあっさり引き受けてくれた。
 

国民の声と3人の判事

 スカリア判事は明確に最高裁判事が憲法を解釈するにあたって国民の声を聞くのは邪道だと断言するが、この点について完全な合意があるわけではない。もちろんすべての判事が、政治判断ではなく憲法解釈をするのが自分の仕事であるのを弁えている。ただその際、彼らが国民の声からまったく自由であるべきかどうかについては、意見がわかれる。また世論に左右されるべきでないにしても本当にそれが可能かは、憲法史上興味深い問題である。最高裁判事も人間である。新聞を読み、テレビを見る。支持政党があり、信仰する宗教があり、価値観がある。野心や名誉欲もある。そうしたことすべてからまったく自由に、客観的な憲法解釈ができるのか。
 ケーシー事件で法廷意見を共同で著したスーター、オコナー、ケネディーの3判事は、この問題で相当悩んだ形跡がある。いずれもロー判決に批判的であったが、同時にこの判決を覆すのにはためらいを感じたらしい。言うまでもなく、それぞれの判事がどのようにして特定の結論に達するかは内面的かつ孤独な作業であるから、他人にはわからない。発表された意見が全てである。ただケーシー事件のような重大判決が下されれば、司法ジャーナリストや学者がその背景をあれこれと詮索する。
 まずスーター判事は、派手なこと目立つことが嫌いな人物で、ケーシー判決を下すにあたって全国的な政治問題の渦中に巻き込まれるのが、本当にいやだったようである。判事という職業につく者は、それまでの前例にしたがい地味に黙々と判決を下し続けるべきだと、彼は考えていた。ロー判決の基本的内容を肯定する判決がすでに多く下されている。同判決を全面的に否定し覆すのは、そうしたこの人の趣味に合わない、きわめて政治的な行為であった。
 しかもスーターは極めつきのリバタリアン、すなわち何事にせよ個人の生き方や考え方について他者の介入を徹底的に排除する究極の自由主義者である。妊娠中絶の部分的規制は当然としても、それを全面的に禁止するのはリバタリアンとして大きな抵抗があったのかもしれない。
 理由が何であったにせよ、スーター判事はレンクイスト判事の起草した法廷意見案には加わらないと決めた。しかし一人だけで反対してもロー判決の基本部分を維持できない。何とか同僚たちを説得して新しい多数派を形成せねばならない。そこでスーター判事はまずオコナー判事に面会を求め、自分の意見に賛成するよう説得にあたった。
 オコナー判事はもともと穏健な保守思想の持ち主である。妊娠中絶に関しては、最高裁判事就任後一貫してロー判決を批判する立場を取った。1983年のアクロン市対生殖健康組合アクロン・センター事件では反対意見を著し、妊娠期間を3つに分けるロー判決の仕組みは間違っていると批判した。
 しかしオコナー判事はアリゾナ州議会上院議員を務めた経歴があった。しかもその間、州の歴史上初の女性上院院内総務として手腕を発揮している。政治家は国民の声を聴きながら、異なる意見や利害のあいだで妥協をはかり合意を得るのが仕事である。合意の決裂は失敗を意味する。
 この政治家としての本能ゆえに、ロー判決についても何とか妥協できないかと探ったふしがある。すでにウェブスター判決で著した同意意見のなかで、ロー判決を一気に覆すのに反対すると述べていた。スカリア判事が自身の同意意見に、そうした彼女の立場を「とても本気とは思えない」と記して攻撃したときには、かなり傷ついたという噂もある。
 その上オコナー判事は、女性である。優秀な頭脳をもちながらなかなか自分の才能を職業人として発揮できず、また妻として母として仕事と家庭を両立させるのに多大なエネルギーを費やした。妊娠中絶には原則反対でも、ペンシルバニア州法が妊娠中絶を望む既婚女性に夫への通知義務を課すことに、この独立心旺盛な女性は本能的に反発したようだ。
 1990年1月、私は日本のある女性雑誌に頼まれ、オコナー判事をインタビューしに、生まれて初めて最高裁を訪れた。知り合いの編集長から、アメリカでもっとも有力な女性へのインタビュー記事を頼まれたためである。オコナー判事を知る法律事務所の同僚を通じて申し込み、受けてもらった。最高裁を訪れる前、この同僚から、オコナー判事に妊娠中絶のことを質問しては絶対にいけないと言われたのを思い出す。またインタビューの事前取材のためオコナー判事が育ったアリゾナ州の牧場を訪れた際、案内してくれた判事の弟さんが、姉は妊娠中絶の問題について相当悩んでいるようだと、つぶやいたのを思い出す。オコナー判事とのその後の縁については、また触れる機会があるだろう。
 ともかく、ロー判決の基本的内容を維持しようではないかとのスーター判事の呼びかけに、オコナー判事は結局同意した。しかし多数を取るにはまだ1票足りない。そこで2人はケネディー判事の説得にとりかかる。
 ケネディー判事もまた保守的思想の持ち主である。スカリア判事と同様カソリック教徒であり、個人的には妊娠中絶を認めない立場を取る。明るく外向的な性格で、よくしゃべる点もスカリア判事と似ている。しかも2人は誕生の年が同じでハーバード・ロースクールに同時期に在学していた仲でもある。ウェブスター判決では、ロー判決を否定するレンクイスト判事の多数意見に賛成票を投じている。
 しかしケネディー判事はスーター判事と異なり、最高裁判事として目立つのが嫌いでないらしい。自分の仕事に大きな使命感を有していて、その性格は彼のやや大げさな文章によく表れていると指摘する人もいる。スーター判事とオコナー判事が熱心に語るロー判決維持の歴史的意義に共感し、自らの立場を変更したのだという説があるが、本当のところはわからない。つまるところケネディー判事は確固とした憲法理論を持ち合わせていないのだと批判する人も多い。
 彼らがどのようにして合意に達したかはともかく、この3人にブラックマン、スティーブンスの両判事が賛成した部分が法廷意見を構成し規範力を有することとなった。。この結果ロー判決の基本的部分は維持されたのである。3人のうち1人でも合意に加わらなければ、ロー判決は覆されていた。その差は紙一重であったと言ってよいだろう。

1992年の大統領選挙とクリントンの登場

 ケーシー事件判決が下されたとき、アメリカではすでに11月の大統領選挙に向かって各候補がしのぎを削っていた。1991年1月、湾岸戦争がアメリカの勝利に終わったときには、ブッシュ大統領の再選はほぼ間違いないと考えられていた。戦争後の世論調査によれば、大統領は一時実に89パーセントの高支持率を獲得しており、このため本来なら大統領選挙への出馬が予想された、ニューヨーク州のクオモ知事、上院議員などの有力な政治家が、いち早く予備選挙に出ない決定をする。
 ところがその後、アメリカの経済情勢が悪化するとともに、ブッシュの支持率が急速に低下しはじめた。皮肉なことにドイツ再統一が実現し、ソ連邦が崩壊した後、さらにイラクとの戦争に勝ってフセインが無力化されたため、人々は外交安全保障問題に関心を失い、英雄ブッシュの神通力が効かなくなった。そのうえ「私の唇を見てください、決して増税はしない」と1988年の共和党全国大会で、大統領候補指名を受諾する際に断言したにもかかわらず、1990年増税に踏み切ったため、保守派のブッシュ離れが起こった。保守派の支持を回復するため、大統領は本来の自分の思想よりも保守的な立場を取るが、今度はそれが穏健派共和党員を遠ざける。
 この間、予備選挙を勝ち抜いて、1992年7月16日民主党全国大会で同党の大統領候補指名をかちとったのは、最近まで無名であったアーカンソー州知事、ビル・クリントンである。彼はこれまでの民主党より中道の政策を打ち出し、穏健派の支持を得ようと努力する。予備選挙のあいだからクリントン候補には徴兵を逃れた、ある女優と長年不倫関係にあったなど、よからぬ噂が絶えなかったにもかかわらず、新人候補とは思えない巧みな演説と政治力で、次第に支持率を高める。同年8月20日に共和党全国大会で指名を獲得したブッシュ大統領、さらに財政の健全化を訴えて立候補した独立候補ロス・ペローと、1992年の秋を通じて激しい選挙戦を繰り広げた末、11月3日に行われた大統領選挙で4500万票を獲得、3900万票を得たブッシュ大統領を破って勝利する。選挙人獲得数ではクリントンが370票、ブッシュが168票だった。この結果翌年1月20日、12年間続いた共和党政権が終わりを迎え、初の戦後生まれの大統領に率いられる民主党政権が誕生した。
 1992年の大統領選挙では妊娠中絶の是非も主要争点の一つであった。ブッシュ大統領は保守派の支持を取り戻すためにも、妊娠中絶の合法化に絶対反対の立場を取る。これに対して比較的中道的な立場を取ったクリントン候補は、中絶に関しては進歩的な民主党員の支持をつなぎとめるため、ロー判決を支持し、女性が中絶を選択する憲法上の権利を守ると明言した。したがって、プロライフの運動家たちはブッシュ候補を支持、プロチョイスの活動家らはクリントン候補を支持と、明確に分かれる。当選すればブッシュは憲法に忠実な解釈をする(つまりロー判決を支持しない)最高裁判事を選び、クリントンはロー判決を守る判事を指名することが容易に予想された。

大統領選挙の結果と最高裁のゆくえ

 ケーシー判決が下されてから5ヵ月後の大統領選挙で、妊娠中絶の問題がどれだけ有権者の投票に影響があったかは、さまざまな調査結果があるもののよくわからない。しかし大統領選挙の結果が妊娠中絶をめぐる憲法上の争いに大きな影響を与えたのは、直ちに明らかであった。すなわち選挙運動中の公約からして、クリントン新大統領がロー判決を覆す可能性のある人物を最高裁判事に指名することはありえない。この一点である。12年間続いた共和党政権のもとで進んだ最高裁の保守化は、これでひとまず終わった。新大統領の任期中、すなわち少なくとも4年、結局は8年間、ロー判決は安泰になったのである。
 もちろん新大統領は現職の最高裁判事が辞任するか職務を遂行できなくならない限り、新しい判事を任命できない。判事の交代がいつ起こるか、あるいは起こらないか、前もってはわからない。しかしこの点においてクリントン大統領は幸運であった。就任後まもなく、ロー判決に最初から批判的であったバイロン・ ホワイト判事が引退を表明したのである。大統領の交代とともに、最高裁でもまた新しいドラマが始まった。






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