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憲法で読むアメリカ史

第13回 湾岸戦争と大統領の戦争権限

湾岸戦争の勃発と多国籍軍の勝利

 ブッシュ父大統領はその任期中、数々の劇的な国際事件や紛争に直面した。就任の年、1989年11月にベルリンの壁が崩壊、翌年の東西ドイツ統合につながる。ベルリンの壁崩壊の1ヵ月後にはパナマ侵攻作戦が始まり、アメリカは再び海外での武力行使に踏み切った。1991年12月にはモスクワで政変が起こり、ゴルバチェフが失脚、ソ連が崩壊する。世界は激動を続けた。しかしこの大統領がもっとも難しい決断を迫られたのは、湾岸戦争であろう。
 ブレナン最高裁判事が引退を表明した、そのわずか22日後の1990年8月2日、イラクが隣国のクウェートを侵略する。独裁者サダム・フセインが率いるイラク軍のクウェート侵攻と同国の占領に、国際社会は不意をつかれ、強く憤った。国連安全保障理事会は侵略を非難すると同時にイラク軍の撤退を求め、経済制裁を科す。アメリカは隣国のサウジアラビアを守るために、同国へ米軍を派遣した。しかしフセインは妥協しようとしない。クウェートとイラクにいた日本人をふくむ外国人多数が人間の盾として人質にとられ、フセインの外交取引に用いられた。
 問題の解決に向けてさまざまな努力がなされたものの、事態は膠着状態に陥る。ブッシュ大統領はこのままイラクのクウェート支配を許し続けるのは、1930年に枢軸国の周辺諸国侵略を放置して大戦を招いた例などからして決して看過できない。イラクのクウェートからサウジアラビアに侵攻しその油田を支配すれば、世界の安全と経済にとって深刻な事態を引き起こす。したがって必要なら武力を用いてでもイラクをクウェートから排除せねばならない。そう決意する。
 ベーカー国務長官、チェイニー国防長官らが各国を訪れ、粘り強い外交交渉を重ねた結果、1990年11月29日国連安保理事会は決議678号を可決する。もしイラクが翌年1月15日までにクウェートから撤退しないのであれば、撤退を強制するために武力行使を含む必要なすべての措置をとることを、加盟国に許可したのである。これを受けてブッシュ大統領は、対イラク武力攻撃を準備するため、最終的には54万人に達する大規模な米軍部隊を湾岸地域に派遣した。また全部で34ヵ国が軍隊を派遣したので、アメリカ軍を含む多国籍軍兵士の総数は約96万人を数えた。
 決議678号が定めた撤退期限を1日過ぎた1991年1月17日未明、空爆が開始される。イラクはイスラエルやサウジアラビアにスカッド・ミサイルを撃ち込んだ。空爆が相当の被害をもたらしたことを確認のうえ、2月23日、多国籍軍がサウジ・クウェート国境を越えてクウェートシティーに向けて進撃、本格的な地上戦が始まる。イラク軍は抵抗したものの、まもなくイラク領内に撤退しはじめた。その際、737の油田に火を放ち、黒煙が湾岸地域を覆う。24日には大規模な地上部隊が数カ所からイラク国内に侵攻し、イラク軍と激烈な戦闘を行う。しかし多国籍軍は圧倒的に優勢であり、イラク軍は壊滅的被害を受けた。本格的な地上戦開始から100時間後の2月28日、ブッシュ大統領は停戦を命令、あわせてクウェートの解放を宣言した。湾岸戦争はこうして終結する。

デラムス対ブッシュ事件と大統領の戦争権限

 この当時、私はワシントンで法律事務所につとめていた。湾岸戦争の始まりから終わりまでつぶさにその経過を追い、アメリカ人と一緒に一喜一憂した。小学校に通う息子の担任の夫君が海軍のパイロットとして出征するなど、ごく身近な出来事でもあった。戦争が比較的短期に圧倒的勝利で終わるや、周りのアメリカ人は興奮し、安心し、実に嬉しそうであった。ほどなく前線から兵士たちが帰還しはじめ、文字通り国を挙げての歓迎を受ける。ベトナム戦争でいったん失墜し、なかなか元に戻らなかった軍の威信が、一気に回復した。
 終わってみれば、全てよしとされたものの、戦争に踏み切るまでには国の内外で相当強い反対があった。レーガン政権のときのリビア空爆、グレナダ侵攻、先のパナマ作戦などと異なり、中東の軍事強国を相手にする本格的軍事介入は、多くの戦死者が出るのではないか。いったん介入するとなかなか撤退できず、ベトナム戦争の二の舞になるのではないか。サウジアラビアには戦死者を収める何万もの袋(ボディーバッグと呼ばれる)が送られたと報じられた。議会でも開戦に反対する議員が多かった。
 軍事介入反対の声は1990年11月8日、対イラク攻撃実施の可能性に備え、これまでの25万人に加え、新たにアメリカ軍20万人を湾岸地域に派遣すると大統領が発表して、さらに強まる。多くの人が、ブッシュ大統領は本気で戦争をするつもりだと感じた。同じ月、ワシントンの連邦地区裁判所に、武力介入の差し止めを求める訴訟が提起される。デラムス対ブッシュ事件である。
 原告はデラムス以下連邦下院議員53人と、上院議員1名。被告はブッシュ大統領本人である。54人の議員たちは、議会による宣戦布告もしくは何らかの同意なしにイラクへの攻撃を開始するのは憲法に反すると主張し、大統領の開戦準備を差し止めるよう裁判所に求めた。
 合衆国憲法の第1条8節11項は、議会に宣戦布告の権限を与えている。1787年フィラデルフィアで開かれた制憲会議で憲法草案が審議されたとき、起草委員会の最初の案では議会が「戦争を行う(make war)」となっていた。しかし1年のうち限られた期間しか集まらない連邦議会が実際に戦争を行う権限をもつのは実際的でないとの意見が通り、「戦争を宣する(declare war)」と変えられ、それがそのまま憲法の条文になった。一方憲法第2条2節1項は、大統領が陸海軍の「最高指揮官(Commander in Chief)」であると定める。議会が宣戦布告をして大統領が戦争を指揮する。それが憲法の定めた戦争権限の規定である。
 国際法上、正しい戦争を行うためには宣戦布告の手続きを取らねばならない。しかし憲法制定後、アメリカは5回しか実際に宣戦布告をしたことがない。多くの場合、大統領の判断で武力行使が行われた。1941年12月、真珠湾攻撃を受け日本に対して行ったのが、正式な宣戦布告の最後である。特に第2次大戦後、核ミサイルが数分で飛んでくる脅威にさらされ、内乱やゲリラ戦などわかりにくい武力紛争が増えると、国と国が国交を断絶し、宣戦を布告してから戦うというオーソドックスな戦争は姿を消した。朝鮮戦争もベトナム戦争も、宣戦布告なしに戦われる。
 しかしベトナム戦争が泥沼化し、多くの戦死者を出した末に米軍が撤退を余儀なくされると、議会はトンキン湾事件の際、ジョンソン大統領へ安易に武力行使権限を与えたのを後悔する。そして憲法の定める戦争権限に関する議論が再燃した。1973年には大統領が議会の許可なく武力行使を開始した場合、60日以内に議会の事後の許可を得ない限り、軍を引かねばならないという戦争権限法が、両院合同決議の形で成立する。歴代の大統領は共和党民主党を問わずこの戦争権限法の効力を認めず、大統領は全軍の最高指揮官として独自の判断で武力行使ができるとの立場を取り続けたが、この点について一度も明確な司法の憲法判断は下されていない。
 デラムス事件の訴訟は、ピッツバーグ大学ロースクールの教授などが中心となって提起されたものである。これにイェール大学ロースクールのハロルド・コー教授など、錚々たる憲法学者、国際法学者10人が賛同した。そして、大統領は対イラク攻撃を開始する前に議会の同意を得る必要があるという内容の、訴訟提起を支持する陳述書を裁判所に提出する。本訴訟は、この古くて新しい憲法上の問題について改めて司法の判断を仰ぐものとして、注目を浴びた。

デラムス事件判決と開戦の決定

 審理を担当したハロルド・グリーン判事は、デラムスら原告の訴えを却下した。ただしその過程で、いくつかの争点について重要な判断を示す。
 まずブッシュ大統領の代理人をつとめる司法省のロイヤーは、戦争権限に関する憲法上の規定は総合的に判断すべきものであり司法の判断になじまない、何が宣戦布告を必要とする「戦争」に当たるかについても裁判所は法律的な判断を下せないと主張し、訴えを却下するよう求めた。戦争の問題はきわめて政治的なものであり、裁判所が口を出すべきでないという理屈である。この考え方はアメリカではポリティカル・クエスチョンの法理、日本では統治行為論と呼ばれる。
 グリーン判事は司法省ロイヤーの主張を退ける。南北戦争のさなか、リンカーン大統領による南部諸港の封鎖が合憲かどうかを争ったプライズ(戦利品)事件で、最高裁は南北戦争が戦争にあたると判断した。これは裁判所が特定の武力行使を戦争にあたると判断した先例である。数十万の軍隊がイラクを攻撃するのが戦争でなければ、何が戦争か。ある軍事行動が憲法上宣戦布告を必要とする戦争にあたるかどうかについて、裁判所は判断しうると述べた。
 またグリーン判事は次のように述べる。大統領が一方的に武力行使へ踏み切った場合、議会は宣戦布告を行うか、武力行使に同意するかを、投票で決める権利を奪われる可能性がある。さらにどのような決議を通しても、大統領が勝手に軍事行動を開始する可能性があるかぎり、議会は訴訟を提起するに足る訴えの利益を有する。したがって原告に訴訟提起の適格性がないとは、ただちには言えない。
 しかしグリーン判事は別の根拠で原告の訴えを却下する。判決が下った1990年12月13日の時点でイラクをめぐる事態は切迫しているものの、まだ戦争が始まると決まったわけではない。交渉によって大統領がイラクとの戦争回避に成功するかもしれない。また議会が討論の末、大統領に開戦の許可を与える可能性もある。そもそも本訴訟を提起したのは、全議員の約10パーセントに過ぎない。そうした可能性がある以上、裁判所はまだ差し止め命令を下せない。つまりまだ訴訟提起の機が熟していない、判事はそう指摘した。
 このことは逆に、大統領が議会の宣戦布告もしくは合意なしに、議会の多数による明確な反対を押し切ってイラク攻撃へ踏み切ろうとする時に、原告が再び差し止めを求めて訴訟を提起したなら、裁判所は訴訟を受理し、大統領の武力行使を差し止める可能性がある。そう示唆したに等しい。この判決は一下級審である連邦地区裁判所の判断であり、最高裁判決が有する重さはない。しかしそれでも、大統領の戦争権限につき判断する裁判所の権限につき一歩踏み込んだ判断を示したものとして、注目された。
 この裁判がブッシュ大統領とそのアドバイザーたちに何らかの影響を与えたかどうかは、わからない。司法省のロイヤーたちは、グリーン判事の判決と憲法学者たちの陳述書を十分検討しただろう。コー教授らは議会でも証言し、自らの憲法解釈を披瀝している。彼らは開戦にあたって議会の同意が必要であるという点について、意見が一致していた。
 大統領は引き続き全軍の最高指揮官として、イラクへの軍事行動を開始するに必要なすべての権限を有している、憲法上議会の承認を必要としないとの立場を崩さなかった。しかし開戦にあたり、ベトナム戦争のときのような国論の分裂は避けたかっただろう。結局大統領は議会の承認は不要であるという憲法上の解釈を変えないまま、国連安保理決議678号に従う武力行使権限の承認を、攻撃開始の直前に議会へ求めたのである。
 議会は大統領へ開戦の権限を与える決議案を3日間にわたり討議した。その過程で多くの議員が延べ200時間を超える演説を行った。私はちょうど腹をこわして家で寝ていて、その多くをラジオで聞いた。開戦賛成派の議員も反対派の議員も、その声はどれも沈痛で、真剣であった。
 「憲法第1条8節の規定に従って、私は大統領へ開戦の権限を与える決議に一票を投じます。この一票を投じることによって、戦争が起こるかもしれないこと、たくさんの善良な市民が命を落とすことになるかもしれないことを、よく承知しています。しかし、私は私の票により、平和がもたらされる可能性がより高くなるのを祈って、この票を投じるのです」
 コネティカット州選出のリーバーマン上院議員は、こう述べた。
 すべての討議と演説が終わった1991年1月12日、上院は52対47、下院は250対183の投票結果により、対イラク武力行使権限を大統領に与える両院合同決議を可決採択した。大統領はたとえこの決議が否決されても、イラクへの攻撃を行ったであろう。しかし攻撃の正統性は弱いものとなった可能性がある。
 その4日後、イラクへの攻撃が始まった。

トマス判事の最高裁判事指名

 湾岸戦争が終結してから4ヵ月、大勝利の興奮が少しおさまり、国内が落ち着きはじめた1991年6月27日、83歳の誕生日を1週間後に控えたマーシャル最高裁判事が引退を表明した。ブレナン判事が引退してからほぼ一年。1967年にリンドン・ジョンソン大統領によって任命されて以来、24年間にわたって活躍した史上初の黒人最高裁判事が、ついに身を引くことになった。
 マーシャル判事はいうまでもなく全米有色人種地位向上協会のロイヤーとして人種差別と戦った、有名なアフリカ系アメリカ人である。1954年のブラウン対教育委員会事件の審理で雄弁な弁論を展開し、公立小学校における人種別学は違憲であるとの歴史的判決を最高裁から引き出した。最高裁判事としても、一貫して進歩的な判決を下し続ける。しかし彼が判事をつとめるあいだに、最高裁は保守的な色彩を強める。
 前年ブレナン判事が引退したため、民主党の大統領に任命された最高裁判事は、マーシャル判事とホワイト判事の2人だけになっていた。しかもホワイト判事はロー対ウェード事件で反対票を投じるなど、概ね保守的な判決を出す傾向が強い。ウォレンコートで活躍した進歩派判事の生き残りはマーシャルしかおらず、彼以外では共和党の大統領に任命されたブラックマン判事ならびにスティーブンス判事が、比較的進歩的な判決を出していた。前年任命されたスーター新判事の立場は、まだはっきりしない。しかもベルリンの壁崩壊に象徴される東ヨーロッパ各国での社会主義体制終焉、湾岸戦争での勝利と、アメリカ社会では保守的な風潮が勢いを増していた。
 こうしたなかでマーシャル判事は、民主党大統領が選出されるまで何とか最高裁判事の仕事を続け、進歩派の判事に引き継ぎたいと頑張った。「もし自分が死んだら、たたき起こしてくれ」と、助手たちに語っていたという。しかし体調を崩し、心身の衰えはいかんともしがたく、不本意ながら引退を表明する。「歳を取って、もう体がばらばらだ」と、引退発表の翌日、記者会見で述べた。そして判事はブッシュ大統領が保守派の判事を後任に任命することを、きわめて残念に思っていた。
 こうして湾岸戦争勝利によって一挙に支持率を上げたブッシュ大統領は、就任後わずか2年半のうちに、早くも2人目の最高裁判事を指名する権利を得た。いくら待っても最高裁判事が一人も引退せず、任期中任命の機会を得ないまま政権を去る大統領がいることを思えば、運がいい。そしてマーシャル判事引退表明から4日後の7月1日、コロンビア特別区連邦控訴裁判所クラレンス・トマス判事を指名する。
 トマス判事の任命を審議する議会での公聴会で歴史上稀なスキャンダル疑惑が浮上し、彼の任命後、妊娠中絶の合憲性をめぐって最高裁は再び大きく揺れる。しかしそれを語るのは、次回以降にしよう。





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