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憲法で読むアメリカ史

第12回 ブッシュ新大統領とスーター判事任命

ブッシュ政権の誕生

 1989年1月20日、ジョージ・ヒューバート・ウォーカー・ブッシュがアメリカ合衆国第41代大統領として就任した。これで共和党は連続12年間、アメリカ合衆国の政権を維持することが確実になる。厳密な三権分立制度をとるアメリカ合衆国では、議会選挙でどちらの党が多数を取ろうとも、大統領の地位は安泰である。万一任期中、大統領が弾劾その他で辞任を余儀なくされても、憲法の規定により副大統領以下が順番に大統領の職を継承し残存任期をつとめる。反対党の出番はない。ブッシュ大統領が2001年11月に再選されれば、共和党の天下は16年続く可能性さえあった。しかし同じ共和党の大統領であるとはいっても、レーガンとブッシュでは、歳の差だけでなく、生い立ちや思想がかなり異なる。
 ブッシュは1924年、マサチューセッツ州で生まれた。父親はニューヨークの著名な銀行家で連邦上院議員をつとめた資産家である。1911年に生まれたレーガンの父が、中西部のごく平凡なセールスマンであったのと対照的だ。
 ブッシュが全寮制の名門私立高校フィリップス・アカデミーに在学中、真珠湾攻撃が起こった。翌年卒業した後、18歳の誕生日に海軍へ志願して入隊、当時最年少の戦闘機パイロットとなり太平洋戦線で戦う。父島上空で撃墜され、パラシュートで脱出、洋上を漂流中、味方の潜水艦に救助されて九死に一生を得る。同乗の2人は助からなかった。この経験はブッシュの対日観にごく最近まで影響を与えたといわれる。ただしアーミテージ元国務次官は、ブッシュは個人的感情を公職にもちこむ人でなかったので、対日政策への影響はまったくなかったと言っている。ブッシュ本人によれば、2002年9月に父島を訪れ、戦争の思い出に一区切りをつけた。レーガンも戦時中陸軍から召集を受けたが、強度の近視があったため戦地へは一度も送られず、国内で軍務に携わった。
 1945年1月、ブッシュは戦線から本土へ帰還後、高校時代クリスマスのパーティーで出会って婚約したバーバラ・ピアスと結婚、日本が降伏して戦争が終わったあと、父と曾祖父が籍を置いたイェール大学に進学した。良家の子弟が集まることで有名な同大学の秘密学生結社、スカル・アンド・ボーンズのメンバーであり、イェール大学野球チームの主将をつとめた。一方、レーガンは中西部のキリスト系大学に進み、アメリカンフットボールや水泳の選手であり、自治会の委員長をつとめた。
 ブッシュは卒業後、家族と一緒にテキサスに移住し、石油のビジネスで億万長者になる。アメリカでは良家の子女というだけでは、世の中で通用しない。自分の手で何かをやりとげないかぎり、認められないのである。だから野心と能力のある金持ちの息子は、親から独立して自分の力で世に出る。ブッシュはその道を選び、父親の人脈に助けられたとはいえ見事に成功した。そして子供たちをテキサスで育てる。特に長男のGWブッシュがテキサスなまりで、いかにも南部人であるのは、そのせいである。大学を出たレーガンは中西部を離れてカリフォルニアへ移り、俳優として世に出た。
 テキサスでの成功は、やがてブッシュを政治の道に向かわせた。1964年、初めてテキサスで連邦議会上院議員選挙に出馬して落選、2年後、同州選出連邦議会下院選挙で当選を果たし、ワシントンにやってくる。下院議員を2期つとめたあとニクソン大統領の要請により上院選挙に再び出馬、僅差で敗れた。その後、国連大使、共和党全国委員会委員長、国交正常化前の合衆国北京事務所代表、CIA長官などをつとめる。政界に入ってからは、ワシントンでの生活が長い。それに対してレーガンは俳優組合の委員長として政治の世界に入り、1967年にカリフォルニア知事となる。大統領に就任するまでワシントンに住んだことは一度もない。
 レーガンとブッシュが初めてそろって全国的注目を浴びたのは、1980年共和党の大統領予備選挙で二人が激しく争ったときである。ブッシュ候補は共和党中道派の支持を得ており、共和党右派を支持基盤とするレーガン陣営はブッシュを十分保守的でないといって非難した。結局レーガンが共和党全国大会で指名を獲得、ブッシュはレーガンの副大統領候補を引き受ける。レーガンが大統領であった8年間、ブッシュは副大統領としての責務をよく果たした。
 しかしこの8年間を通じて、レーガン大統領の側近たちとブッシュ副大統領のスタッフのあいだには、いつも多少の緊張があった。どこの国でも政権の内部には目に見えにくい対立があり、珍しいことではない。アメリカの歴代政権では、副大統領に大統領とやや異なる政治基盤をもつ人物が選ばれることが多い。お互いの支持基盤を利用することにより、大統領選挙を有利に戦うためである。しかもいったん政権が誕生すると、多くの場合、副大統領はそれほど大きな責任を与えられない。ある意味ではライバルだし、予備選挙で敵であった場合が多いからである。徳川幕藩体制にたとえれば、副大統領はせいぜい譜代大名、もしかすると外様なのである。
 それでも大統領選への再度の出馬を真剣に考え始めたブッシュは、レーガンを熱狂的に支持する共和党内の保守派から支持を取り付けねばならない。したがってブッシュは妊娠中絶の問題などで、おそらく本来の自分の考えよりも保守的な立場を表明し、レーガンに合わせた。それが副大統領として当然の義務だとも考えたのだろう。ただし政権内のレーガン支持者たちは、ブッシュが十分に保守的であるかどうか常に疑っていた。
 実際、1987年から88年にかけての共和党予備選挙中、レーガン大統領がなかなかブッシュ副大統領の大統領選出馬を支持表明しない、何か両者間に確執があるのではないかとの報道がなされたこともある。しかし表面上、両者はあくまでも親密な関係をもつ大統領と副大統領のペアであり、またブッシュ大統領は大統領の信頼を決して裏切らない人物でもあった。レーガン夫妻がホワイトハウスを去るのを、ブッシュ夫妻は心をこめた感謝とともに見送った。

スーター判事指名

 ブッシュは大統領に就任するなり、外交問題に忙殺される。東欧の情勢は刻々と変化しており、1989年11月にはベルリンの壁が崩壊した。一方パナマでは独裁者ノリエガが総選挙の結果を無視、アメリカとの緊張が高まり、12月の米軍パナマ侵攻につながる。当時ブッシュ政権の外交政策を担当したのは、テキサス州出身のロイヤーであるジェームズ・ベーカー国務長官と空軍出身のスコークロフト国家安全保障担当補佐官であった。2人とも優れた外交安全保障政策担当者として、今日に名を残す。
 ブッシュ政権初期、筆者は、友人の奥さんがホワイトハウスで広報担当の補佐官をつとめており、彼女の好意で、ホワイトハウスで働く女性数人にインタビューしたことがある。日本のある女性雑誌に頼まれた企画であった。そしてその一人がスコークロフト補佐官の下で、ドイツ再統一問題を担当する黒人の大統領補佐官補、名前をコンデレッツァ・ライスという。言うまでもなく、G・W・ブッシュ大統領政権の国家安全保障担当補佐官・国務長官である。私はおそらく、ライス女史にインタビューした最初の日本人であった。
 国際情勢の緊張が続くなか、1990年7月20日に、ブレナン最高裁判事が引退を表明する。判事は当時84歳、この地位に1956年以来約34年間あった。ウォレン最高裁首席判事の時代からバーガー、レンクイストの時代を生き抜いた最高裁進歩派判事のなかでもっとも影響力がある人だった。ニクソン政権、フォード政権、レーガン政権と共和党の大統領による最高裁判事の任命が続き(民主党のカーター大統領には任命の機会がなかった)、保守派判事が増えつつある。レーガン政権のもとで引退すれば、保守派の判事がもう一人確実に任命される。今やめるわけにいかないと、高齢をものともせず、じっと我慢してきた。しかしブッシュ大統領の当選で少なくともあと4年共和党政権が続くと知り、ついにあきらめたらしい。引退を決意したのである。
 ブッシュ大統領がブレナン判事引退表明の4日後、最高裁判事に指名したのは、ニューハンプシャー州にある連邦控訴裁判所のデーヴィッド・スーター判事であった。判事は1939年にマサチューセッツ州で生まれ、11歳のとき両親といっしょにニューハンプシャー州の農場へ引っ越した。以後、最高裁判事に就任するまで、大学時代を除いて、同州から出たことがほとんどない。
 優等賞を得てハーバード大学の学部を卒業後、イギリスの政治家セシル・ローズの名を冠したローズ・スカラーに選ばれ、オックスフォード大学のモードリン・カレッジに遊学した。この奨学金を受けることは、アメリカの学部卒業生にとってもっとも名誉なこととされている。フルブライト上院議員、ホワイト最高裁判事、クリントン大統領やマイケル・サンデル教授も、ローズ・スカラーとしてオックスフォードで学んだ。
 帰国後ハーバードのロースクールへ進み、1966年に優秀な成績で卒業すると、スーターは脇目を振らず故郷ニューハンプシャーへ戻って、地元の法律事務所に就職した。しかし民間で法律の仕事をするのは性にあわず、進路を変えて州検察官として働きはじめる。その後、州司法長官、州控訴裁判所判事を経て、州最高裁判所の判事に就任し、都合11年裁判所で働いた。そんなスーター判事が、ブッシュ政権の目にとまった。
 最高裁判事の候補は、他にも何人かいた。通常ホワイトハウスは、最高裁で次の欠員が出るときに備え、ずいぶん前から候補者を探し、適格性を検討する。候補選定は、必ずしも法曹の能力だけで決まるわけではない。議会でどのように受け止められるか。議会の承認を受けられるか。人種、性別、宗教的な側面に問題はないか。もちろんこの場合、ブッシュ大統領が指名するのだから、なるべく保守的な人物が好ましいことは明らかである。ボーク判事の任命に失敗した共和党の保守派は、ブッシュ大統領に今度こそしっかりした保守派判事を任命するようにとの圧力をかけていた。しかし、政権は、ボーク判事のときのような激しい論争を、できれば避けたかった。それにボークのときと同様、上下両院で民主党が多数を占めている以上、論議をよぶ候補は承認を受けにくい。さあ誰を選ぶか。
 この状況下で、スーターには強みが3つあった。一つは判事としての能力に問題がないこと。ローズ・スカラー、ハーバード・ロースクール卒業という学歴は申し分ないし、州の検察官、判事としての豊富な実務経験は、最高裁判事としてやっていくうえで有利であった。就任前に州裁判所判事としてこれだけの経験を積んだ人物は、当時の最高裁判事のあいだにだれもいない。
 第二に、ブッシュ政権内にスーターの強い味方がいた。当時ホワイトハウスのチーフ・オブ・スタッフ、日本でいえば内閣官房長官にあたる、スヌヌ筆頭補佐官の存在である。スヌヌは同じニューハンプシャー州の出身である。同州の司法長官としてスーターの能力を認めて抜擢し、その後同州選出連邦上院議員に転出したラドマンとともに、スーターを強く押した。政権内には司法長官他、別の候補を推す人もいたのだが、当時ブッシュ大統領に対するスヌヌの影響力は絶大であった。しかも彼はスーターが保守派であることは百パーセント確かだと、大統領に保証したのである。
 そして第三に、スーターはまったく無名であった。州裁判事としての実績は申し分なかったが、ロースクールを出て以来、憲法に関する事件を扱ったことは一度もない。憲法について書いた本や論文も皆無であった。その意味では憲法問題を扱う最高裁判事としての適性があるかどうか、まったく見当もつかない。ブレナン判事やオコナー判事のように、州裁判所判事出身者は他にもいて実績を残しているから、一概にだめだというわけではない。議会上院のマーシャル最高裁判事は、スーター指名のニュースを聞いて、「そんな名前一度も聞いたことがない」と率直に言ったそうである。
 しかしボーク判事の公聴会があれほどもめて結局議会上院の承認が得られなかったのは、ボークが憲法問題に精通し論文も無数にあり、その思想があまりにもよく知られていたからである。公聴会でなんと証言しようが、ある特定の問題についての彼の見解は記録に残っていて、消せなかった。スーター判事の憲法に関する見解、最高裁の役割に関する見解がまったく知られていないのは、議会と対立して面倒なことになるのを嫌うブッシュ政権にとっては、むしろ朗報であった。
 スーター判事は、その司法観が明らかでないだけでなく、私生活についてもまったく知られていなかった。一度婚約したというが、これまで結婚したことがない。携帯電話をもったことがない。コンピューターは使わず、万年筆で書く。Eメールは使わない。ニューハンプシャーでは親から相続した農場に住み、家の修理などは全部自分でやる。最高裁判事になってからも積極的に社交活動はせず、休廷になると自分で運転してニューハンプシャーの農場に帰ってしまう。指名後、彼が最初にワシントンにやってきたとき、クレジットカードをもっていなかったので、ホテルに泊まるのさえ苦労したという。無口でおとなしくて、あまり感情を表さない。ニューイングランドの厳しい気候や風土がときに生み出す、徹底的な個人主義者、自由主義者であった。
 スーター判事の任命を審議する議会上院司法委員会の公聴会は、1990年9月13日に始まった。しかしスーター判事は議員たちの質問に対しほとんど明確な答えをしなかった。民主党の一部議員は、この思想傾向がわからない判事候補が、実は隠れ保守主義者ではないかと強く疑い、その点を明らかにしようとした。全米婦人協会は、スーターが女性の権利をないがしろにするとして強く反対した。黒人の全国組織、全米有色人種地位向上協会も同様である。しかしこの人の書いたものがなく、質問に答えないから、立場がよくわからない。結局、これ以上追及しても得るものは少ないと民主党議員が考えたのか、議会上院は90対9の大差でスーター判事の最高裁任命を承認する。こうしてニューハンプシャー出身の無名判事スーター判事が、ブレナン判事の後任として1990年10月9日、最高裁の9人の判事の一人となった。
 この目立たない新しい最高裁判事が、妊娠中絶をめぐる司法での争いでほどなく重大な役割を果たすことになるとは、当時だれも予測しなかった。





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