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憲法で読むアメリカ史

第5回 ロー対ウェード事件判決と司法の政治化

司法の保守化をめざして

 1981年1月レーガン大統領が就任したとき、アメリカ合衆国最高裁判所を構成する判事は1956年に就任したブレナン判事から1975年に就任したスティーブンス判事に至るまでの、男性9人であった。その間ほぼ25年。それ以前の判事が引退するたびに1人ずつ就任し、このメンバーとなった。最年長はブレナン判事の74歳、最年少はレンクイストの56歳である。
 この連載のはじめに、レーガン大統領はその任期を通じて司法の保守化を重要な政策の柱にしたと記した。すでに選挙戦の最中から、自分が大統領になったら「妊娠中絶に反対し、司法積極主義を取らない人」を、最高裁とその他連邦裁判所の判事に任命すると約束していた。
 共和党保守派にもさまざまな考えがあり、伝統的なキリスト教的価値や道徳観を重んじる立場。社会秩序や国家安全保障を重視し、法の厳正な執行を求める立場。資本主義市場経済を信奉し、社会主義的傾向の強い大きな政府を嫌って、財政の均衡と税金の低減を唱える立場。州の復権を通じた地方自治強化を唱える立場。さらに過度な平等主義を正しむしろ自由を重じる立場などがある。これらの価値観を抱く人たちは必ずしも一枚岩ではなかったが、1981年春、彼らはこうした様々な保守的信条に基づく政策を、行政、立法だけでなく、司法を通じても実現したいと考えていた。そのためには保守派判事を新しく任命することが必要である。

進歩的最高裁が遺したもの

 言うまでもなく、最高裁は政治経済社会のあり方にかかわる問題を広く論じて答えを出す場ではない。あくまでも合衆国憲法や法律を忠実に解釈するのが仕事である。しかし実際問題としてその判決は、論争の行方にしばしば大きな影響を及ぼす。たとえば公立学校における祈祷を憲法の政教分離原則に反するとして禁じる60年代の一連の判決は、そうした祈祷を当たり前と考えていた伝統的なキリスト教徒に大きな衝撃を与えた。また表現の自由原則を根拠に露骨な性描写を伴う書籍や映画を保護する判決は、保守的価値を重んじる人々にとって若者の道徳観のさらなる低下を助長するものと思われ、我慢ならなかった。
 こうした進歩的判決の内容そのものに対する反発とは別に、望ましい内容の判決を導き出すために最高裁が憲法を拡大解釈する傾向、そのことに対する一部憲法学者や判事からの批判が強かった。最高裁判所は違憲立法審査権の行使によって、憲法に反する連邦法や州法、さらには行政手続きを無効にすることができる。しかし最高裁判事自身が好ましいと考える結果を達成するために憲法を拡大解釈し、国民が選んだ立法府や行政府の決定を覆すのは、司法の権限を逸脱するものである。判事はあくまでも憲法と法律の内容を厳格に解釈する義務がある。司法消極主義、厳格解釈主義と呼ばれる立場である。
 保守派にとって特に問題であったのは、ニクソン大統領が掲げた最高裁保守化の方針に基づいて1969年に任命されたウォレン・バーガー首席判事のもとで、たとえば刑事事件被疑者の過大な権利保護など進歩派の行き過ぎた憲法解釈は一部是正されたものの、最高裁は分野によって進歩的判決を下し続け、その際憲法のさらなる拡大解釈をいとわなかったことである。その代表的な例が、1973年に下されたロー対ウェード事件判決であった。

ロー対ウェード事件の審理

 ロー対ウェード事件の判決は、220年にわたる合衆国最高裁の歴史上、政治的社会的な影響のみならず憲法学上の影響がきわめて大きく、しかもそれが長く続いた例の1つであろう。判決が下されるや否や国論が二分され、激しい論争が発生し、その後の政治や社会、さらには司法の方向性まで左右した。
 この訴訟は、テキサス州に住む妊娠したジェーン・ローという名前の未婚女性らによって提起された。ローというのは、裁判当事者の実名を隠すために用いられた仮の名である。ローは当時テキサス州ダラス郡の検察官であったウェードを相手取り、妊婦の生命を救うために必要な場合を除き全ての妊娠中絶を禁止するテキサス州刑法の規定が合衆国憲法に違反すると主張、同法の適用差し止めを求めた。連邦地区裁は1970年、同法が合衆国憲法第9条に違反すると判断したが、差し止め命令は発出しない。ローは本判決を不服として合衆国最高裁へ跳躍上告を行い、同時にテキサス州も上告する。最高裁は1973年1月22日、ローの主張を全面的に認め、女性には妊娠中絶を行う憲法上の権利があり、中絶を禁止するテキサス州法は違憲であるという内容の判決を下した。ちなみに最高裁は、同じく妊娠した未婚の女性によって提起されたドー対ボルトン事件と本事件を同時に審理し、ジョージア州の中絶規制法も違憲と判断している。
 最高裁がこの事件の上告を受理したのは、1971年である。同年12月13日に口頭弁論が行われた。その日のうちに判決の方向性を議論し、法廷意見を起草する判事を指名する判事会議が開かれる。ローの主張を認める立場がやや優勢であったが、各判事の意見はまだあいまいであり、判決の行方ははっきりしなかった。ローの主張に否定的であったバーガー首席判事は、ブラックマン判事に法廷意見の起草 を委ねる。最高裁でもっとも新参の彼ならあまり極端な内容の判決を書かないだろうし、友人であるからその内容に自らの意見を反映しやすい。そう考えたようだ。通常首席判事がこの会議で、自分の意見に対し判事過半数の賛同を得られないときには、多数意見を示した判事のなかで最古参の判事に法廷意見執筆者を指名する権利を譲る。しかしバーガー首席判事は自ら強引に起草判事を指名する傾向があり、このときもそうであった。
 ブラックマン判事は早速法廷意見の執筆にとりかかる。起草を任された判事は、第一稿が完成し次第、他の判事に回覧して意見を求め、必要な修正を施すことになっている。また反対意見があれば、その草案も回覧される。法廷意見の内容を固める重要な過程である。ところがブラックマン判事は法廷意見案の作成に非常に手間取った。そしてようやく回覧された草案は満足な内容と言えず、他判事の同意を得られなかった。ブラックマン判事はテキサス州中絶禁止法の規定のあいまいさを理由にローの主張を認めようとしていたが、 妊娠中絶を行う憲法上の権利を確立しようと考えるブレナン判事、ダグラス判事、マーシャル判事は、それでは納得しなかった。
 この事態を受けて、バーガー首席判事は本事件の再審理を提案した。1972年6月末に終了する同年度の開廷期内に判決を下さず、次の開廷期で再度口頭弁論を行い、それを受けて判決を下そうという提案である。法廷意見を書くには時間が足りないと感じていたブラックマン判事も、再審理を求める。ダグラス判事は、これがバーガー首席判事とブラックマン判事の共同謀議であると信じて、強く抵抗した。1972年1月に就任したばかりで、前年1971年12月の口頭弁論とその後の審理に参加しなかったパウエル判事とレンクイスト判事を新たに審理に加え、反対派の判事数を増やして判決の方向を覆せると考えたに違いない。そう解釈したのである。再審決定への反対意見を書き、これまでの事情をすべて明らかにすると脅すダグラス判事をブレナン判事がたしなめ、閉廷直前、結局再審理が決まる。この結果新しい開廷期の冒頭、1972年10月11日に再度口頭弁論が行われた。

ロー対ウェード事件最高裁判決

 皮肉なことに、バーガー首席判事がロー事件法廷意見の起草者にブラックマン判事を指名し、しかもその審理を翌開廷期まで延ばしたことが、この判決の内容を大きく変え、その後の大論争につながるきっかけとなった。なぜなら2度目の口頭弁論から間もなくブラックマン判事が同僚判事に回覧した新しい法廷意見の草案は、第一稿と比べ、妊娠中絶を行う女性の憲法上の権利を積極的に認める内容であったからである。ブラックマン判事は夏休みのあいだ中絶の歴史や医学について勉強を続け、自分の考えを固めたらしい。
 この多数意見案をもとに、改めて各判事間の意見調整が行われる。今回はパウエル判事とレンクイスト判事がこの過程に加わった。そして結局パウエル判事をふくむ7名の判事が、修正された新しい法廷意見草案に賛成票を投じる。このうちバーガー、ブラックマン、パウエルの3人は、司法の保守化を唱えるニクソン大統領が任命した判事である。残りの2名、すなわちホワイト判事とレンクイスト判事が反対票を投じ、反対意見を書いた。当初妊娠中絶を憲法上の権利として認めることに反対していたバーガー判事は、結局賛成派に回り同意意見を著す。ダグラス判事とスチュワート判事もそれぞれ同意意見を書いた。
 ブラックマン判事は多数意見のなかで、妊娠中絶の歴史をたどる。そして西欧ではギリシャ・ローマの時代から近世まで、妊娠中絶が必ずしも絶対悪と考えられていなかったと指摘する。アメリカ各州が中絶を犯罪として禁止するようになったのは南北戦争後であり、近年は一定の条件のもと多くの州が中絶を容認する傾向にあると述べる。
 判事は次に、憲法の条文で明確に規定されていなくても認められる基本的人権が存在すると述べる。そして夫婦が避妊具を使うことを禁じるコネティカット州法をプライバシー権を侵害するゆえに違憲とした1965年のグリズウォルド対コネティカット事件判決を引き、女性が妊娠中絶を選択するのも、そうしたプライバシー権の一部であり、修正第14条のもとで保護される基本的権利の1つだとした。
 ただしこの権利は絶対のものではないと、ブラックマン判事は続ける。なぜなら州は、生まれてくる胎児の命の可能性を守る義務があるからだ。したがって当法廷は、妊娠した女性の権利と、生まれくる胎児の権利のあいだでバランスを取らねばならない。
 ところで胎児がいつ人間となり、人間としての権利を有するかは、宗教上、哲学上、医学上さまざまな考えがある。受精したその瞬間から人間として存在するという考えがあれば、出産までは人間として扱うべきでないと考える人もおり、当法廷が決定すべきことではない。
 しかし近年の医学上の研究成果によれば、妊娠を3期にわけたうえで、第1期には妊娠中絶が母体の健康にほとんど悪影響を与えず、出産より危険が少ないことが分かっている。一方第3期に入るころになると、胎児が母体の外に出ても多くの場合生きていけることが判明している。したがって妊娠第1期には、州は妊娠中絶の禁止も規制もしてはならない。中絶の可否は、医師の判断に任せるべきである。中絶の危険性が増える第2期には、州は母体の健康を維持する限りにおいて、妊娠中絶の方法や場所などについて規制することが許される。しかし第3期には、母体の外に出て生きていける胎児の生命の可能性を尊重し、母体の生命を救うのに必要である場合を除き、州は妊娠中絶を禁止してよい。テキサス州の妊娠中絶禁止法は、母親の生命を救う必要がある場合を除き、妊娠全期間を通じてすべての妊娠中絶を禁じる点で違憲である。ブラック判事は、こう結論づけた。

ロー対ウェード事件判決への反応

 ロー対ウェード事件の判決が下されるとすぐに、国内で大きな反響が巻き起こる。アメリカ国内の世論は、賛成と反対の立場にはっきり二分した感があった。妊娠中絶をめぐる国内の論争は、本判決が下されてから一挙に熱を帯びる。
 もちろん妊娠中絶を女性の権利と考える人々、特にウーマンリブの運動家は、ロー判決を大歓迎した。彼女たちは妊娠を女性が社会で活躍するうえでの最大の障壁と捉え、男性との不平等の元凶と考えていたから、妊娠中絶選択の権利誕生を非常に喜んだ。一方、カトリック教徒の多くは、人の生命が受精から始まるものであり妊娠中絶は人殺しに他ならないとの教会の教えを信じていたから、ロー判決に猛反対した。またプロテスタント系でも福音派の教会信徒の多くが強く反発した。妊娠中絶の権利が若者の安易な性行為や不倫に走るであろうことも、信仰上夫婦間以外の性行為を認めない彼らが反発した大きな理由である。さらにそれほど強い宗教的イデオロギー的信念をもたない者、たとえば子供を産んで育ててきたことを誇りに思い大きな意義を見出してきたごく普通の母親たちは、妊娠中絶を憲法上の権利にまで高めるこの判決を、強い違和感をもって受け止めた。
 賛成派も反対派もそれぞれ新たに組織を結成し、ロー判決の死守、ロー判決の破棄を叫びながら全国的運動を展開する。賛成派は、妊娠中絶選択の自由を掲げたので「プロチョイス」、反対派は胎児の生命を守ろうと主張したので「プロライフ」と呼ばれる。プロライフ派もプロチョイス派も、大統領選挙、連邦議会議員選挙において、候補者がどちらの立場を取るかを支持決定の基準とした。プロライフ派は、妊娠中絶に反対する大統領や議員がロー判決を覆す判事を最高裁に送り込むことを期待し、プロチョイス派はその逆を狙う。各地で集会が開かれ、政治家や判事に手紙が送られ、最高裁判所に両派のデモ隊が押し寄せた。妊娠中絶を行う医院の前で両派がもみあい、反対派をねらった殺人事件まで起こる。ロー判決は完全に政治化した。
 ロー対ウェード事件判決には、他の判事や憲法学者からも強い批判が寄せられた。第1に、同事件判決で反対票を投じたホワイト判事とレンクイスト判事は、強い口調で法廷意見を非難する。
 レンクイスト判事は、妊娠中絶を行う憲法上の権利をプライバシー権の一部として正当化するのは不可能である。条文上テキサス州法が禁じているのは医師による中絶の実施であって、それは妊娠した女性の行動ではない。中絶にプライバシーは存在しない。もしプライバシー権なるものが修正第14条のデュープロセス条項が保護する自由を意味するのなら、それは主として手続き上の権利であり、無条件に守られるべき実体的権利ではない。そもそも100年前に制定された妊娠中絶禁止法が、21州でまだそのまま残っている事実は、妊娠中絶の権利が憲法で保護されるべき、伝統と人々の良心に深く根付いたものでないことを示していると主張した。
 同様にホワイト判事は、法廷意見は憲法の条文にも歴史にも、なんら根拠を見出せない。まったく恣意的に中絶規制に関する新しいルールをつくり、それを憲法上の権利と呼んだに過ぎない。この判決によって、50州の州民は妊娠中絶の規制の在り方を自からの代表を通じて決定する憲法上の権利を失われた。法廷意見は最高裁に与えられた司法審査の権利の、極めて不適切かつ異常な行使と言わねばならないと非難した。
 法廷の外でも、進歩派さえふくむ多くの憲法学者が、法廷意見は憲法上の明確な根拠を示していないと批判した。ブラックマン判事は、こうした批判に深く傷ついたと言う。しかし7対2の判決は判決である。7人の判事は、そうした批判を受けても考えを変えなかった。7人のうちの1人、ダグラス判事が1975年に引退したものの、交代したスティーブン判事がロー判決を支持したため、そして他の判事の交代がなかったので、レーガン大統領就任時の最高裁では、依然として7対2でプロチョイス派が圧倒的多数を占めていた。レーガン政権が保守派の新判事任命によってロー判決の破棄あるいは修正を強く望んだのは、当然である。



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