憲法で読むアメリカ史 タイトル画像

憲法で読むアメリカ史

第4回 1981年の合衆国最高裁(3)

 レーガン大統領就任時の最高裁判事、その7人目はルイス・パウエル、8人目はウィリアム・レンクイストである。この2人は同じ1971年10月の22日にニクソン大統領から指名され、上院の承認を前後して得たのち、1972年1月7日一緒に宣誓を行い就任した。ニクソン大統領は最高裁判事任命に関して運のいい人で、就任早々3年のあいだに4人の欠員が生じ、同数の新しい判事を最高裁へ送りこんでいる。その第1が、ウォレン・バーガー首席判事、第2がハリー・ブラックマン判事、あとの2人がパウエル、レンクイスト両判事である。前者2人については、先回記した。

パウエル判事

 ブラックマン判事が就任してから約1年後の1971年8月末、ヒューゴ・ブラック判事が体調を崩して入院する。9月17日に引退を表明、その2日後脳卒中を起こして25日に亡くなった。ブラックは1937年フランクリン・ルーズベルト大統領に任命され、1971年まで34年間にわたり最高裁判事をつとめる。アラバマ州出身、最高裁判事就任までの10年間は同州選出の連邦上院議員であった。ルーズベルト大統領が任命した判事9人の筆頭として、それまでの保守派判事に替わるいわゆるニューディール・コートを形作った進歩派の一人である。その後継としてパウエルが選ばれた。民主党系判事が長い年月占めた最高裁判事の席がまた一つ失われる。
 ルイス・パウエルは1907年にヴァージニア州で生まれ、南北戦争中に南部連合の首都が置かれた州都リッチモンドで育った。同州レキシントンという小さな山間の町にあるワシントン・アンド・リー大学へ進む。
 ジョージ・ワシントン将軍が通い、南北戦争のあと南軍総司令官であったロバート・リー将軍が学長をつとめたことに因み、こう名付けられ、南部の歴史を体現する由緒正しい私立大学である。
 パウエルは大変成績がよくて他の名門校にも望めば進学できたのに、同大学のロースクールへ進んだ。第2次大戦中陸軍で情報将校として働いた後、リッチモンドの名門法律事務所ハントン・アンド・ウィリアムズに就職し、主として南部の企業や鉄道を顧客とする弁護士として活躍する。最高裁判事に就任するまで、一席も事務所を変えなかった。経歴が物語るとおり、パウエルは常に礼儀正しく、穏やかで几帳面な、典型的南部紳士であった。アラバマ出身のブラックの後継者としてうってつけである。南部の一部、特にヴァージニアには、そうした紳士淑女の伝統が、いまでも多少残っている。
 パウエルは地方の成功した会社法専門の弁護士であったけれども、全米法曹協会での活動など、さまざまな公的分野でも活躍した。その高潔な人柄、完璧な仕事ぶり、温和な思想は、次第に全国的な尊敬を集めるようになる。1952年から1961年まではリッチモンド市の教育委員長をつとめた。この役職についた翌年の1953年には、連邦最高裁が公立学校における人種別学を禁じるブラウン対教育委員会事件判決を下し、ヴァージニア州をはじめ南部諸州で白人の強い抵抗がはじまる。この時期南部の教育委員長は、だれがつとめても難しい仕事であった。そしてこのことが、パウエル判事の最高裁判事任命にあたって問題となる。
 当時はパウエル自身ブラウン判決に批判的であり、白人と黒人を同じ学校で教育することに賛成でなかった。そもそも彼は南部の白人社会で生きてきた人であり、黒人とは別の世界にいた。学校、職場、社交クラブ、そのいずれにも黒人が入る余地はまったくなかった。実際、パウエル自身は関与しなかったにもかかわらず、彼の法律事務所はブラウン事件訴訟の被告の一つヴァージニアのある郡教育委員会を代理している。リッチモンド市教育委員会そのものは人種共学採用の決定権をもたず、それは州教育当局の責任であったけれども、市の教育に大きな影響力を有する立場にあったことには変わりがない。ただ、この職にあって、パウエルは白人黒人を問わず誰に対しても礼儀正しく親切であり、大声で人種共学反対を叫び、あからさまに黒人を差別する人ではなかった。
 のちにパウエルが最高裁判事に指名されたとき、教育委員長として公立学校における人種隔離政策の責任者の1人であったことを問題にする黒人団体や公民権運動の関係者は多かった。しかしヴァージニア州の黒人指導者の数人かは、当時のパウエルがいかに公平で黒人を差別しなかったかと、上院の公聴会で証言をすることをためらわなかったのである。
 パウエルにとって有利に働いたのは、ニクソン大統領がフォータス判事の後任を選ぶとき指名した南部出身の判事が続けて2人否決された事実である。
 この時は結局北部出身のブラックマン判事が3人目の正直として任命されたのだが、ノースカロライナ州出身のヘインズワース連邦控訴裁判事の承認が否決されたとき、ニクソン大統領は次にパウエルを指名しようと真剣に考えたらしい。パウエルは旧知の間柄であるヘインズワース判事の最高裁判事指名を強く支持し、否決を誰よりも残念がった。そして次の候補として自分の名前が挙がるや、ミッチェル司法長官に連絡をとり、指名しないよう要請した。
 北部出身の上院議員たちは、南部出身の候補を2人否決したものの、彼らの投票が単純に地域的な敵対心にのみ基づいたものであると受け取られたくなかった。真にすぐれた南部出身の判事候補なら認める。ニクソンはこの状況で再びパウエルに声をかけた。企業法務一筋であり裁判官の経験がなく、すでに当時64歳であったパウエルは大いに逡巡したものの、結局指名を受ける。そして上記のような反対はあったものの、上院は結局89対1で同意を与えた。

レンクイスト判事

 ブラック判事が引退した6日後、今度はジョン・ハーラン判事が引退を発表した。3ヶ月後に脊椎がんで亡くなる。ハーランはトルーマン大統領が最高裁判事に指名し上院の同意を得て1955年最高裁判事に就任。比較的保守派の判事として知られる。判事は19世紀末から20世紀初頭にかけての有名な最高裁判事、ジョン・ハーラン(同名)の孫であった。おじいさんのハーランは、1896年プレッシー対ファーガソン事件判決の際、反対意見を著した。多数意見が、設備さえ同等であれば白人と黒人を別の鉄道車両に乗せる州法は合憲であるとの判断(いわゆる「隔離すれども平等」の原則)を下したのに対し、いかなる理由があろうとも人種によって待遇を分けるのは違憲である、「合衆国憲法の解釈は肌の色によって左右されない」と述べ、歴史に名を残した。
 4人目の欠員を受けて、ニクソン大統領は一時ミルドレッド・リリーというカリフォルニア州控訴裁判所の女性判事指名を考える。最初の女性最高裁判事を任命して女性票を獲得しようとの目論見であったが、彼女が最高裁判事として十分能力を有さないとの結論が出てあきらめた。もし実現していたら、オコナー判事よりも10年早く、史上初の女性最高裁判事が生まれていた。そして代わりに指名したのがウィリアム・レンクイストである。
 ウィリアム・レンクイストは1924年ウィスコンシン州ミルウォーキーに生まれた。お祖父さんの代にアメリカにわたったスェーデン系アメリカ人である。第2次大戦中オハイオ州のケニヨン・カレッジから陸軍航空隊に入隊、気象官の仕事に従事する。戦後スタンフォード大学からハーバード大学の修士課程を経て、スタンフォード大学ロースクールへ進んだ。クラスメートには後に最高裁で同僚判事となるサンドラ・デイ、その将来の夫ジョン・オコナーなどがいた。デイとは、一時交際していたと言われる。レンクイストは卒業式で総代としてスピーチを読みあげた。トップの成績で卒業したらしい。
 ロースクール卒業後ワシントンへ移り、ロバート・ジャクソン最高裁判事の助手を1952年から1年間つとめた。ジャクソン判事はルーズベルト政権で司法長官などの要職を占めたあと、1941年から1954年までブラック、フランクファーターなどと一緒に最高裁判事として中核的役割を果たした。最高裁きっての名文家であり、数々の歴史的判決文を著している。1945年から1年間は最高裁を離れ、ドイツの戦争犯罪人を裁くニュールンベルグ国際法廷の判事をつとめた。
 レンクイストが書いた『最高裁判所』という最高裁の歴史に関する著作は、彼がワシントンに到着して最高裁で働きはじめる自伝的な文章から始まる。
 実はレンクイスト判事就任の是非を審議する1971年の上院公聴会で、レンクイストがジャクソン判事の助手として、当時最高裁で審議がはじまっていたブラウン対教育委員会事件についてのメモを書き提出していたことが明らかになる。メモは南部における人種別学の根拠である上述のプレッシー対ファーガソン事件判決が憲法解釈として正しく、ジャクソン判事はその立場で票を投じるべきだと論じていた。レンクイストはメモの内容が彼自身の考えではなく、ジャクソン判事自身の考えをまとめたものだと釈明し、ことなきを得たが、1986年最高裁首席判事に指名されたときにも再度問題にされた。
 ジャクソン判事の助手を終えると、レンクイストはアリゾナ州フェニックスに移り、1969年までそこで弁護士として働く。その間1964年の大統領選挙では、同州選出ゴールドウォーター上院議員の出馬を支持し選挙運動に参加する。1969年ニクソン政権が発足した際ワシントンへ戻り、司法省の法律顧問室(オフィス・オブ・リーガルカンスル、OLC)担当司法次官補に就任した。政権、特に大統領が直面する憲法をふくむ重要な法律問題を分析し、司法長官を通じて助言を行う、重要な役割である。日本の内閣法制局長の役割に近い。この立場でレンクイストはニクソン政権の重要な決定の多数にかかわった。エイブ・フォータスのスキャンダルが明らかになった際にも、意見を著している。
 こうして非常に保守的ではあるが極めて優秀なロイヤーであるとの評価が高まり、1971年ハーラン判事が引退を表明したとき最高裁判事に指名される。同年12月10日、上院は68対26の票でこの人事を承認し、レンクイストは最高裁判事に就任した。47歳であった。
 1972年1月7日、パウエルとレンクイストは共に最高裁判事へ就任する。就任宣誓を夫たちが行うあいだ、レンクイスト判事のナン夫人がパウエル判事のジョセフィーヌ(ジョー)夫人に、どんな気分かと尋ねると、パウエル夫人は、「人生最悪の日よ。泣きたいくらい」と答えたそうだ。安定したヴァージニアでの生活をやめてワシントンで公的な生活をはじめるのに、パウエル夫妻は依然として乗り気でなかった。
 同じく保守的な共和党員でニクソン大統領に選ばれたといっても、この2人の新しい判事はずいぶん対照的である。パウエル判事がいつも身だしなみよく、礼儀正しく、伝統を重んじる紳士であったのに対し、レンクイスト判事は当時流行の幅が広く派手な色のネクタイをしめ、もみあげを長くのばしていた。思想は保守でも、スタイルは新世代だったのである。しかし気取らない、ユーモアが好きなその性格は、だれからも愛される。2人とも、暖かい人柄であった点は共通している。

スティーブンス判事

 レーガン大統領就任時9番目の最高裁判事は、ジョン・ポール・スティーブンスである。第1期の任期中に4人の最高裁判事を送り込んだニクソン大統領は、第2期に入ってウォーターゲート事件にまきこまれ、1974年辞任を余儀なくされた。捜査の過程で、ホワイトハウスでの大統領の会話をすべて録音したテープの存在が明らかになり、その提出を求める下級裁判所命令の有効性をめぐり、政権側と検察側で争いが起きる。緊急上告を受けた最高裁は、ニクソンが自ら選んだ3人をふくむ8人の判事が全員一致で(ニクソン政権で働いたレンクイスト判事は審議に加わらず)テープ提出を再度命令し、ほどなく大統領は辞意を表明した。合衆国対ニクソン事件の判決は、最高裁と大統領が直接対決した事件として歴史に残っている。
 ニクソン大統領の辞任を受けてジェラルド・フォード副大統領が大統領に昇格する。新大統領は1976年の大統領選挙で民主党候補のカーター知事に敗れ、前大統領の残存任期を約2年つとめただけでホワイトハウスを去るが、任期中の1975年、ウィリアム・ダグラス最高裁判事が引退を表明したため、後任を指名する立場に置かれた。
 ダグラスはフランクリン・ルーズベルト大統領が1939年に任命したニューディール・コートの一員である。1975年の引退まで史上最長の36年209日間、最高裁判事をつとめた。きわめて進歩的自由主義的な憲法思想の持ち主である。私生活も派手で、3回離婚し、4回結婚。1966年に4度目の結婚をしたとき、判事は68歳、相手は22歳のロースクールの学生であった。
 実はフォード大統領は下院議員時代の1970年、ダグラス判事の弾劾を提案したことがある。保守的なフォードにとって、私生活が派手で、極端な自由主義思想の持ち主で、度重なる厖大な離婚費用にあてるためか怪しい財団から財政的支援を受けていたダグラス判事の活動は、最高裁判事として極めて不適切と思われたようだ。フォータス判事のスキャンダルが起き彼が辞任を余儀なくされた、そのすぐあとである。結局十分な証拠がなく下院による弾劾には至らなかったが、その時の宿敵フォードに辞任を申し出ねばならなかったダグラス判事の心境は複雑であったろう。
 フォード大統領が後任に指名したのは、1920年シカゴ生まれのジョン・ポール・スティーブンスである。シカゴ大学を卒業、そのまま修士課程に進んだが、真珠湾攻撃の1日前に志願して海軍に入隊。戦争中は日本軍の暗号解読に従事し、山本五十六元帥の乗った一式陸上攻撃機撃墜につながった暗号解読チームの一員として、勲章を授与されている。戦後ノースウェスタン大学のロースクールに進み、同校の歴史上最高の平均点を獲得して卒業。1947年から1年間、ワイリー・ラトレッジ最高裁判事の助手をつとめた。その後シカゴで独禁法の専門家として名を上げ、シカゴ大学で教鞭を取る。1970年にニクソン大統領が第7巡回区連邦控訴裁判所の判事に任命。そして1975年にフォード大統領が最高裁判事に指名し、上院はダグラス判事とは対照的な謹厳で実直なスティーブンス判事を、98対0という実質上全会一致で承認した。就任時、判事は55歳であった。
 こうしてレーガン政権発足時の最高裁判事9人が出そろう。スティーブンス判事の就任からレーガン政権発足まで6年近くあるのだが、1人も欠員が出なかったので、この9人がそのまま残った。一番席次の低かったスティーブンス判事が、2010年引退したときには、90歳の最長老判事になっていた。彼以外の8人はすべて故人である。彼らが最高裁判事としてどんな仕事をしたのか、次回以降に記そう。

 



NTT出版 | WEBnttpub.
Copyrights NTT Publishing Co., Ltd. All Rights Reserved.