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憲法で読むアメリカ史

第3回 1981年の合衆国最高裁(2)

ゴールドバーグ判事

 ロナルド・レーガン大統領が引き継いだ5人目の最高裁判事は、ニクソン大統領が1968年首席判事に任命したウォレン・バーガーである。なぜバーガー判事が選ばれたかを説明するには、本連載でまだ触れていない2人の判事に言及せねばならない。1人はケネディー大統領が1962年に任命したアーサー・ゴールドバーグ判事。もう1人はジョンソン大統領が1965年に任命したエイブ・フォータス判事である。それぞれ在任期間が短く、レーガン大統領就任時すでに最高裁を去っていたこの2人の判事は、バーガー首席判事の誕生とその後の最高裁の方向性に、大きな影響を与えた。
 ゴールドバーグ判事は1908年シカゴ生まれ。ノースウェスタン大学のロースクールを卒業、労働法の専門家として労働組合の弁護士をつとめ頭角を現した。労組の支持を背景に民主党内でも影響を増して、ケネディー大統領が1961年労働長官に、さらに1年後の1962年最高裁判事に任命した。バイロン・ホワイト判事に続いて同大統領が最高裁へ送り込んだ2人目の判事であり、前任は1938年フランクリン・ルーズベルト大統領が任命した伝説的な名判事フェリックス・フランクファーターである。フランクファーター判事はオーストリアから若い時にアメリカへ渡ってきたユダヤ人で、そのまた前任が最高裁史上2人目のユダヤ人判事。後任のゴールドバーグ判事、そのまた後任のエイブ・フォータスも同様で、ユダヤ人が4人続く。おそらく偶然ではない。
 もっとも同じユダヤ人でも、フランクファーター判事は最高裁の役目を非常に抑制的に捉える司法消極主義者の代表的判事である。これに対してゴールドバーグ判事は進歩的な思想実現のために憲法の拡大解釈をいとわなかった。2人の交代によって最高裁の判事は、ウォレン、ブラック、ブレナン、ダグラス、ゴールドバーグと進歩派の判事が多数を占めることとなり、画期的な進歩的判決を次々に下す。ゴールドバーグ判事の誕生は最高裁の進歩的傾向をさらに強める。
 ゴールドバーグ判事がそのまま最高裁に留まっていたなら、おそらくさらに重要な判決を出し続けただろう。しかし1965年、ジョンソン大統領に頼まれエイブ・フォータスに自らの地位を譲るため辞任し、新たに国連大使の仕事を引き受ける。判事在任は3年に満たなかった。一説によればゴールドバーグ判事は首席判事として最高裁へ戻るつもりだったというが、大統領とのあいだでそんな約束がたとえあったとしても実現しなかった。ニクソン政権発足後、ネルソン・ロックフェラーの対抗馬としてニューヨーク州上院議員選挙に出馬し敗北する。その後主に民間でロイヤーとして活動し、1990年1月に死去した。
 まったくの余談だが、ワシントンでロイヤーとして働いていたころ、私は日本の女性雑誌に頼まれサンドラ・デイ・オコナー判事に最高裁の彼女のオフィスでインタビューを行った。一通り話が終わるとオコナー判事は立ち上がって窓の外の星条旗を指差し、「ほら、あの国旗、半旗になっているでしょう。ゴールドバーグ判事が亡くなったの」と、ぽつんと言われた。そのときはどんな人かよく知らなかったが、オコナー判事に初めて会ったのはこの判事が亡くなった直後であったのだと、今思う。

フォータス判事

 ゴールドバーグ判事の辞任によって最高裁判事になったフォータスは、1910年テネシー州メンフィスに生まれた。父親はイギリスから移住した厳格なユダヤ教徒の家具職人である。黒人に対する差別が激しく、圧倒的にキリスト教徒が多い南部メンフィス出身のユダヤ人というフォータスの背景は、特異である。州内の大学を出た後、イェール・ロースクールに進学し2番の成績で卒業する。指導教授であったのちの最高裁判事ウィリアム・ダグラスに気に入られ、卒業後イェールで教えた。さらにニューディール時代の証券取引委員会委員顧問(のちに委員長)になったダグラスの仕事を手伝うために、ワシントンの行政の世界に入った。
 ルーズベルト政権の若き官僚として頭角を現したフォータスは、戦後法律事務所を開業し、マッカーシー上院議員の赤狩りのやり玉にあがった有名人の弁護をつとめるなど、その名を高める。連邦上院議員選挙の候補を選ぶ民主党予備選挙で選挙違反の嫌疑をかけられたテキサス州出身の若き政治家、リンドン・B・ジョンソンの弁護を引き受け、ジョンソンは本選挙に出馬し当選を果たした。以後ジョンソンとフォータスは親しい友人となる。ケネディー大統領暗殺後副大統領から昇格したジョンソン大統領が、1965年ゴールドバーグ判事を説得してその地位をフォータスに譲らせたのには、そんな背景があった。
 フォータスがゴールドバーグと交代しても、最高裁の進歩的な傾向は変わらない。1967年マーシャル判事が保守的なクラーク判事の後任として任命され、最高裁の進歩派はその人数をさらに一人増やし盤石の地位を占めた。しかしウォレン・コートの絶頂期は長く続かない。
 1968年6月、その年の最高裁開廷期の終わりにウォレン首席判事が引退の意思を表明したとき、ジョンソン大統領は友人フォータスを後任の首席判事に指名した。ところが連邦議会上院の保守派議員たちが憲法上任命に必要な助言と承認を与えることに反対し、頑強に抵抗する。通常、時の大統領が指名する最高裁判事は、多少の反対があっても比較的簡単に上院の承認を得る。しかしこのとき反対派はフィリバスター、すなわち長い演説を行うなどによる審査引き延ばし(日本の牛歩戦術に近い)もいとわない作戦に出た。
 この背景には共和党議員だけでなく保守的な南部民主党の議員が、フォータスをふくむウォレン・コートの下す数々の進歩的判決を嫌っていた事実がある。またフォータスが最高裁判事でありながらジョンソン大統領の求めに応じ数々の政治的助言を与えており、多くの議員がそれを好ましくないと感じた。さらにフォータスがアメリカン大学で行った講演の謝礼として、当時最高裁判事の給料の40パーセントにあたる1万5千ドルを受け取り、しかもその謝礼が実はある大企業によって支払われたことが明らかになっていた。結局フィリバスターを差し止める決議案が提出されるものの、可決に必要な本会議出席上院議員の三分の二の賛成を得られない。フォータスは首席判事への指名を取り下げるよう大統領に申し入れ、10月1日、大統領は指名を正式に取り下げた。ジョンソン大統領はすでに3月、再選をめざさない旨の発表を行っており、11月の大統領選挙では共和党のニクソンが民主党候補のハンフリー副大統領を破って当選した。民主党の大統領のもとで後任判事に引き継ぎたいとのウォレン首席判事の望みはかなわず、しばらくその地位に留まる。

バーガー判事

 こうしてようやくレーガン大統領就任時の最高裁判事の5人目であるウォレン・バーガーの出番となる。1969年就任したニクソン大統領は、早速延期されていた最高裁首席判事の人事に取りかかり、バーガーを指名した。バーガー判事は1907年ミネソタ州セントポールの生まれ。ミネソタ大学と現在のセントポール・ロースクールを卒業して地元の法律事務所で働く。1952年の大統領選挙でアイゼンハワー将軍の共和党候補指名に貢献し、同政権の司法省司法次官補に就任した。さらに1956年コロンビア特別区連邦控訴裁判所判事に任命され、その地位に13年間留まる。刑事事件被疑者に寛容なウォレン・コートの判決に批判的で、厳格な憲法解釈と秩序維持を訴えるこの控訴裁判事にニクソン大統領が目をつけ、最高裁首席判事に指名したのである。
 バーガー首席判事の任命は、最高裁の保守化をめざすニクソン大統領の政策実現の第一歩であったが、その後最高裁の進歩的傾向にそれほど劇的な変化が見られたわけではなかった。一部分野での判決は目に見えて保守化したけれども、反面バーガー・コートは驚くほど進歩的な判決を出し続ける。そもそも首席判事が交代してもブレナンはじめ進歩的な判事が多数残り、影響力を行使した。またバーガー判事は一貫した憲法解釈の方向を打ち出さず、むしろ多数を確保するため判決の内容についてしばしば妥協を図る傾向があった。判事の権威主義的な傾向ゆえに他の判事との関係は冷たく、首席判事として十分な指導力を発揮しえなかった。さらにニクソン大統領と次のフォード大統領が任命した4人の判事のうち3人までは、期待したほど保守的でなかった。だからこそレーガン大統領は10年後、改めて最高裁の保守化を公約にした。
 しかしニクソン政権発足後しばらくは、最高裁の保守化はほぼ避けられないように思われた。なぜなら1969年以降、次々に古い判事が引退して、ニクソン大統領が4人、フォード大統領が1人、新判事の指名権を得たからである。バーガー判事就任直後、首席判事への昇格を上院に拒否されたフォータス判事が辞意を表明し、ニクソン大統領は早くも2人目の判事指名の機会を得る。
 フォータス判事はニクソン政権発足後も最高裁に留まったが、すぐにもう一つ新たな疑惑が発生する。最高裁判事就任後の1966年、判事の友人で、かつての顧客でもあるウルフソンというウォール街のビジネスマンと、生涯にわたり顧問料として年間2万ドルを受け取り、死後は妻が死ぬまでその権利を継承するという内容の契約を取り交わしていた事実が判明したのであった。契約締結当時ウルフソンは証券取引法違反の嫌疑をかけられSECの調査を受けている最中であり、起訴されてもフォータス判事がジョンソン大統領に話をして、刑を逃れるか恩赦を受けられるよう取り計らってくれる。そう期待してこの顧問契約を結んだのではと疑われた。ニクソン政権はマスコミ筋からこのことを知り、当時のフーバーFBI長官もフォータスと他の判事の脱税容疑を調べ始める。そしてミッチェル司法長官からこのことを知らされたウォレン首席判事は、フォータス判事に辞任するよう迫った。
 判事は大統領に口利きをした嫌疑を否定し抵抗するが、結局自分が設立した法律事務所で税法の弁護士として働く妻の地位を守るために、また他の判事に累が及ばないようにと、辞任を決意する。もし彼が自発的に辞めなかったらば、19世紀初頭のチェース判事以来、史上2番目の最高裁判事弾劾裁判になったかもしれない。このニュースは世間を驚かせた。フォータス判事が自らまいた種とはいえ、ニクソン大統領は最高裁首席判事に圧力をかけ、進歩派判事をもう一人退かせるのに成功した。
 判事は辞任後、自らが設立した法律事務所に戻ることを断られ、新しい事務所を設立して1982年4月に亡くなるまでロイヤーとして働く。大統領を退いたジョンソンとの友情はその後も続いたという。
 これもまったくの余談だが、私はフォータス判事が戦後開業したアーノルド・アンド・ポーターで、ロースクール第1学年の終わった夏に実習させてもらった経験がある。サマー・アソシエートと言って、ロースクールの学生に実習の機会を与え、卒業後採用する仕組みである。私は企業派遣の日本人として別枠であったが、その他の学生に関しては一種の青田買いであるから、たびたび食事やパーティーに招いてくれる。ある日ジョージタウンのなかでもひときわ目立つ、ピンク色の大きな邸宅で催されたパーティーに招ばれた。つば広の帽子をかぶり華やかなドレスに身を包んだ女性がこの館の主人であった。若い学生たちに愛想よくふるまう彼女の姿を見ながら、事務所の若手弁護士が「あれがキャロル・アガーよ。この事務所の伝説的なロイヤーで、エイブ・フォータスの未亡人なの。女性なのに葉巻をくわえるので有名」と教えてくれた。そのときは何も知らなかったが、彼女こそフォータスが最高裁判事の職を退いてまでしてアーノルド・アンド・ポーター(旧名アーノルド・フォータス・アンド・ポーター)での地位を守った彼の妻だった。有力法律事務所の女性パートナー(経営者)としては草分け的存在である。しかも私がこの事務所で世話になったのは1982年の夏であるから、フォータス判事が亡くなって間がなかったはずだ。しかしアガーはいたって明るくふるまい、独特の魅力と個性を周囲にふりまいていた。この邸宅は、フォータス夫妻がワシントンの有名人を招き数々のパーティーや音楽界を催した、社交界の名所でもあった。

ブラックマン判事

 フォータス判事の辞任を受けて、ニクソン政権は早速後任の人選に入る。大統領は最初サウスカロライナ州出身のクレメント・ヘインズワース連邦控訴裁判所判事を指名して上院の同意を得られず、次に指名したジョージア州出身のハロルド・カーズウェル連邦控訴裁判所判事も上院に拒否された。どちらも南部出身で、黒人差別別離政策に加担したのではないかとの疑いが晴れなかった。結局1970年後半になってニクソン大統領が最終的に指名し上院の同意を得たのが、レーガン大統領の就任時6人目の判事となるハリー・ブラックマンである。
 ブラックマンは1908年イリノイ州ナッシュビルに生まれ、ミネソタ州セントポールで育った。ハーバード大学の学部とロースクールを両方卒業し、法律事務所の弁護士として、ロースクールの教員として、また有名なメイヨー・クリニックのロイヤーとして活動する。ミネソタ州での経験しかない共和党員ブラックマンをニクソンに推薦したのは、バーガー首席判事である。実際バーガー判事とブラックマン判事は同じミネソタ州セントポールの出身であり、親しい友人同士であった。バーガーはブラックマンの結婚式でベストマン(新郎の付添)もつとめている。ニクソン大統領は自分が任命したいと考えた保守派の判事がなかなか承認されないので、バーガーの推薦を受け、上院の承認を確実に得られるやや穏健な保守派判事を選んだのである。
 こうした経緯で任命されたブラックマン判事は、最高裁が取り上げた事件の審理にあたって、当初バーガー判事と比較的保守的な判断を示した。バーガー判事が多数意見に加われば、ブラックマン判事も多数意見に賛成する。反対意見を支持すれば、それに従う。ミネソタ州出身で考え方も似ている2人は、いつしか「ミネソタの双子」(Minnesota Twins)と呼ばれるようになる。同名のプロ野球チームの名前にひっかけたシャレである。実際1970年から1975年までのあいだに最高裁の票が割れた場合、ブラックマン判事は87.5パーセントの確率でバーガー判事と同じ判断を示している。進歩派のブレナンと同じ投票をしたのは、わずか13パーセントにすぎない。
 ところが時がたつと、ブラックマン判事は次第に進歩的傾向を強め、1981年からバーガー首席判事が引退するまでの5年間には、ブレナン判事に同意するのが全体の70パーセント、バーガー判事に同意するのが30パーセントと、比率が逆転する。ニクソン大統領が保守的判決を下すことを期待して最高裁判事に任命したこの判事は、1994年に引退するまでに最高裁でもっとも進歩的な判事の一人になっていた。ニクソン大統領にしてみれば、思わぬ誤算であった。
 



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