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憲法で読むアメリカ史

第1回 レーガン大統領就任

 これから毎月、NTTウェブマガジン誌上で、アメリカの現代史を語りたいと思う。
 10年ほど前「外交フォーラム」という雑誌で、憲法を中心に据え建国から現代までのアメリカ史を連載した。その内容は、のちに『憲法で読むアメリカ史』(上下)(PHP新書)として世に出た。その際十分に書けなかったこの30年ほどのアメリカ史を、同じく憲法の視点に立って記したい。
 この連載は、今からちょうど30年前のレーガン大統領就任から始める。同大統領の就任とともに、アメリカの保守主義と連邦主義の再興が始まった。その意味で憲法史上意味が深い。さらに中曽根レーガンの緊密な関係にもとづく日米同盟強化のきっかけともなり、戦後日米関係にとっての大きな転換点でもあった。
 レーガン大統領の就任式から約半年後、1981年8月なかば、私はワシントンにあるジョージタウン大学ロースクールに留学した。初めてロースクールの教育に触れ、アメリカ憲法に触れ、最高裁を中心とするワシントンの司法の世界に触れた。この年は私個人にとっても思い出深い。
 この連載がどんな方向に進むのか、まだそれほど定かではないが、しばらくお付き合いいただければ幸いである。

俳優から大統領へ

 1981年1月20日、ロナルド・レーガンが第40代アメリカ合衆国大統領に就任した。1911年2月生まれの新大統領は、就任時70歳になる直前であり、現在に至るまで史上最年長の大統領として記憶されている。
 レーガンの大統領就任は、いろいろな意味で画期的であった。年齢もさることながら、アメリカ史上初めての映画俳優出身である。イリノイ州に生まれ育って、イリノイの大学を出たあとカリフォルニアへ移り、ハリウッドで俳優になる。俳優組合の委員長をつとめた経験もある。華やかな映画の世界に身を置いたにもかかわらず、レーガン大統領が保守的な思想を堅持したのは、もともと中西部の、貧しいながら堅実な中産階級出身であったことと関係がある。
 また保守主義者でありながら離婚の経験があった。今日に至るまで、レーガンは就任前に離婚して再婚した唯一の大統領である。ちなみに在任中離婚した者は一人もいない。アメリカ人は公人の結婚や男女関係について、今でも存外古風である。最初の妻は女優の旧姓ジェーン・ワイマンで1940年に結婚、1948年に別れた。彼女は夫の政治家志望を嫌ったのだという。2度目の妻、旧姓ナンシー・デービスも元女優である。1952年に結婚、 50年間一緒に暮らし、金婚式の年2002年に夫の死を看取った。2人は仲睦まじいことで知られていた。
 保守の思想にもいろいろあるが、レーガンは離婚が神の法に反するとして許さない教条的な宗教右派ではなかった。むしろ小さな政府を信じ過大な支出をいましめる財政保守主義者であり、連邦政府の権限拡大を嫌い州の権限を守る州権論者であり、共産主義を否定する生粋の自由主義者であった。
 長く民主党員であったが、1962年共和党に鞍替えする。左傾化する民主党に愛想をつかした末の選択であった。「私が民主党を離れたのではない、民主党が私を去ったのだ」と、当時語っている。1964年夏、共和党全国大会でバリー・ゴールドウォーター大統領候補の支持演説を行って注目される。その後も選挙戦を通じたびたび応援演説を行い、その明快な主張はゴールドウォーター候補への支持とともに自らの著名度を高めた。
 アリゾナ州選出のゴールドウォーター上院議員は、現職大統領のリンドン・B・ジョンソンと大統領選挙を戦った。ケネディー大統領暗殺後、憲法の規定により副大統領から昇格したジョンソン大統領は、ベトナム戦争中にもかかわらず、大砲もバターもという大きな政府、福祉国家を指向した。それに対しゴールドウォーター候補は、個人の自由を重視し、共産主義の脅威を警告し、民主党の過大な福祉政策を批判する。結局大差で敗北し、議会でも共和党が一時的に議席を失ったものの、小さな政府をめざすゴールドウォーターの思想は以後の保守主義運動に大きな影響を与え、共和党再興のきっかけを作った。レーガン大統領の先駆者と言ってよい。選挙後も上院議員を長年つとめ、飾り気のないその人柄は、共和党、民主党を問わず、だれからも愛された。1998年、89歳で亡くなっている。
 ゴールドウォーター支持演説で知名度を上げたレーガンは、2年後、勧められてカリフォルニア州知事選挙に出馬し、当選する。知事を1967年から1975年まで2期つとめた。ちょうどベトナム戦争後半にあたるこの時期、カリフォルニア大学バークレー校を中心に多くの大学で反戦運動が吹き荒れ、ヒッピーに代表される反体制派が跋扈していた。レーガンはこうした急進的暴力的な動きを否定し、秩序回復に警官隊の導入を辞さなかった。そのため多くのリベラル派運動家がレーガンを反動的で過激な右翼政治家とみなし、後々まで危険視する。私自身1975年から2年間アメリカの大学に留学した際、級友の多くから「レーガンはヒットラーに近い」と聞かされた。
 この地位にあって、レーガンは1968年、共和党の大統領候補を選ぶ予備選挙に初めて出る。このときはニクソンが圧倒的支持を得て指名され、大統領選にも勝った。1976年にも名乗りを上げニクソン失脚のあと副大統領から昇格したフォード大統領と互角に戦い、共和党全国大会での投票に持ち込んだものの、僅差で敗れて指名を逃す。そして1980年、3度目の挑戦でようやく党の指名を獲得。同年11月、先回の選挙でフォードを破り当選した現職のジミー・カーター大統領と争い、勝利を収める。選挙人の数ではレーガンが489人、カーターが49人と、圧倒的な差がついた。総投票でもレーガンが50.7パーセント、カーターは41パーセントに留まり、約10ポイントの開きがあった。共和党から離れ独自候補として戦ったアンダースン上院議員も6.6パーセントの得票した(選挙人数はゼロ)ので、カーター大統領の完敗である。
 カーター大統領はアナポリス海軍兵学校出身で原子力潜水艦艦長の経歴があったにもかかわらず、思想的には典型的なリベラル、進歩派である。何よりも人権を重視し、戦うより和平を望み、積極的な福祉政策推進、黒人の公民権拡大に熱心であった。そのカーターを破って、保守派大統領が誕生した。勝因についてはさまざまな分析がなされたが、レーガンが共和党保守派の支持とともに、民主党の伝統的かつ保守的な白人勤労者層、いわゆるレーガン・デモクラットの支持を受けたのが勝利につながったとされている。
 選挙後、あるアメリカの友人に勧められ、雑誌「コメンタリー」1981年1月号掲載の「新しいアメリカの多数派」という記事を読んだ。筆者は同誌編集長、ノーマン・ポドレッツである。投票日に行われた出口調査によれば、実際にカーター候補へ投票した人の数がカーターに投票したと答えた人の数より少ない。これは、自分は民主党支持だと言いながら密かにレーガンに投票する、いわば隠れレーガン派が多かったのを示している。民主党の一部穏健な支持者は、1960年代から70年代にかけての急進的な反体制・反戦の運動、アメリカを否定する思想、麻薬・暴力・フリーセックス・ヒッピーに代表されるラディカルなライフスタイルに倦み、密かにレーガン候補に投票したのだ。そう分析していたのを記憶している。ポドレッツ自身、進歩派から保守派に転じたニューヨークのユダヤ系知識人であり、ネオコンの元祖の一人と言われる。レーガン勝利の背景には、こうした保守主義の新たな広がりがあった。
 政治思想の違いは別にしても、当時の状況はレーガンに有利であった。4年間続いたカーター政権のもと、アメリカ経済は深刻な不況とインフレ、そして金利の高騰が続き、なかなか立ち直れない。いわゆるスタグフレーションである。加えて国内では第2の石油危機とスリーマイル島の原発事故が起こり、国外ではソ連がアフガニスタンに侵攻する。イランではシャーが倒れイスラム教聖職者による神政体制が確立、急進派の学生がテヘランのアメリカ大使館を占拠し、アメリカ市民52人を444日にわたり拘束し続ける。国際社会でアメリカの権威は大きく低下した。エジプトとイスラエルの歴史的和解など外交上大きな成果を挙げたにも関わらず、カーターはあまり人気のある大統領ではなかったし、運も悪かった。
 そのカーターと比較して、俳優出身で演説のうまいレーガン大統領は、高齢でありながらいかにも颯爽としていた。一部からは頑迷な保守派として恐れられたけれども、親しみやすくユーモアのセンスにあふれ、いつも楽観的で、エリート臭さのないレーガンは、まじめ一方で、やや暗く、とっつきにくいカーターとは異なる新鮮な印象を人々に与え、大統領選挙に勝った。

レーガン大統領の憲法観

 こうして登場した新しい大統領の就任を、保守派の国民も進歩派の国民も、興奮と期待、さらには一種の恐れとともに迎える。就任式は史上初めて、リンカーン記念堂をのぞむ国会議事堂西側正面で執り行われた。合衆国憲法の規定にしたがい、ウォレン・バーガー最高裁首席判事の前で宣誓をしたあと、レーガン大統領は就任演説を行った。明快な言葉で、強いアメリカ、建国の父が志向した本来のアメリカ、自由を基調とするアメリカ、小さな政府のアメリカ、政府ではなく国民の自治に基づくアメリカの再興を、国民に強く訴えかける。そして当時の深刻な不況に触れ、政府支出の削減による財政赤字の解消を説く。現下の危機において、「政府が我々の問題を解決するのではなく、政府そのものが問題なのだ」と、大きな政府を否定する有名な言葉をはいた。
 同時に共産主義すなわちソ連の脅威に言及し、アメリカは平和を強く望み交渉をする用意があるが、決して屈服しない。「対決へのためらいを、意志の欠如と受け取ってはならない。国家の安全を守るために必要なら、行動を辞さない。我々はいざというとき勝利するに十分な力を維持する。それにより、かえって力を使わなくてよい可能性を高めうると知っているからである」と述べた。最後の部分はソ連との軍拡競争を意識し、冷戦を戦いぬく強い決意を示したものである。
 就任式終了後、引き続き恒例により議事堂内部で午餐会が開かれた。会が始まる直前、レーガン大統領はスタッフから、テヘランのアメリカ人人質が解放されイランの領空外に無事出たとの報告を受ける。そしてこのよき報せを、その場にいた人々に伝えた。満場総立ちとなり、拍手が鳴りやまなかった。イラン人質事件は、こうしてようやく解決する。国中が喜びに沸いた。この快挙はもちろんカーター政権がイランとの難しい交渉の末成し遂げたものだが、実際の解放はレーガン大統領就任後となり、新しい大統領の門出に花を添えた。
 レーガン大統領は、就任後矢継ぎ早に新しい政策を打ち出す。経済政策の概略は就任1ヶ月後の1981年2月18日、連邦議会上下両院合同会議で行った経済政策に関する演説にまとめられている。当時ソニーに勤務していた私は、上司に命じられ日本時間で翌日の午前中、この演説の生中継を米軍極東放送(FEN)のラジオ放送で聴き、懸命にノートを取って報告した。連邦政府支出の大幅な削減、減税の推進、規制緩和、金融政策の優先など、サプライ・サイドを重視するレーガノミックスと呼ばれる経済政策の概要が示された。一方、ソ連の急速な軍備拡大に対応し冷戦を互角に戦うため、軍備増強には支出を惜しまない旨も表明された。
 ところで経済や国防ほど目立たないものの、レーガン大統領は任期を通じて司法の保守化を重要な政策の柱とした。実際選挙戦の最中から、大統領になったら自分はどのような人物を判事に選ぶかを公約の一つとして明らかにする。すなわち「妊娠中絶に反対し、司法積極主義を取らない人」を、最高裁とその他連邦裁判所の判事に任命すると約束した。一体なぜ大統領候補が裁判所の人事のあり方を選挙公約に含めるのか。司法積極主義とは何か。妊娠中絶と判事の人事にどんな関係があるのか。わかりにくいかもしれない。それを理解するためには、レーガン大統領が就任した時点で合衆国最高裁の判事がどのような顔ぶれであったのか、彼らがそれまでどんな判決を下してきたのか。それら判決にどのような政治的意味があったのかを、説明せねばならない。次回はそこから話を始めよう。
 

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