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女もすなる飛行機

第1回 憧れの「スチンソン嬢」

プロローグ――米南西部で見つけたもの


 2010年1月、私は友人のデビーこと、デブラ・ワインガーテンの運転するレンタカーに乗り、米ニューメキシコ州のアルバカーキの街並みを眺めていた。空がどこまでも青い。目指すのはニューメキシコ大学の図書館である。  アルバカーキは、リオ・グランデ川に沿って広がるニューメキシコ州最大の商工業都市だ。メキシコ文化とプエブロ・インディアン文化の両方の影響を受けた歴史の古い町でもある。デビーは気持ちよさそうに車を飛ばす。安心しきっていると、彼女がのんびりした口調で「どの辺だったかなぁ、忘れちゃった」と言うので、慌てて地図をのぞき込み、大学を探した。確かアルバカーキのほぼ中心部にあるはずだ。
 ニューメキシコ大学の図書館に、大正時代の日本人の手紙があることを教えてくれたのはデビーだった。彼女はテキサス州オースティン在住の社会学者で、1910年代に活躍した女性パイロット、キャサリン・スティンソン(Katherine Stinson)について子ども向けにまとめた評伝を2000年に出版した。私が2007年から2008年にかけてキャサリンのことを調べていたとき、いろいろ読んだ資料の中にその評伝もあった。疑問に思ったことがあったので、本のカバーに記されていた筆者のアドレスにメールを送ったのがきっかけで、友達になったのだ。
 何度かメールを交わすうちに、デビーが「私は中国語と日本語の区別がつかないのですが、ニューメキシコ大学にはキャサリンが取っておいた日本からの手紙が保管されています」と書いてきたので驚いた。キャサリンは1916年12月から翌年5月初頭まで、途中の中国行きを挟んで5カ月ほど日本に滞在した。私は当時の日本人たちが、どれほどキャサリンの来日や曲芸飛行に熱狂したのか知りたくて文献をいろいろ探していたのだが、そんな一級の史料があるとは思ってもみなかった。2008年8月のことである。何とかして、その手紙を見たいと思った。
 その年の10月、たまたま私は両親を連れて米マサチューセッツ州へ旅行する計画をしていた。古い友人たちと再会したいという両親のために、いわばツアーコンダクターの役目を果たす旅だった。「せっかくアメリカへ行くのだから、デビーに会いに行って手紙のことを詳しく聞こうか」という考えが浮かんだ。しかし、ボストンからテキサス州オースティンまでは直行便がなく、ダラスかシカゴを経由して最短でも6時間以上はかかる。札幌から石垣島へ飛ぶようなものだ。老親を知人宅に置いていくのだから、せいぜい1泊2日しかできない。デビーに会えるのは実質的に半日といったところだ。彼女は手紙のいくつかをスキャンして画像データを送ってくれていた。手紙の実物を見に行きたいが、ニューメキシコまで行く時間的な余裕はなく、デビーに会ってコピーをもらうだけだ。「うーん、お金もないしなぁ……」
 迷いに迷ったが、私は結局その10月、ボストンからオースティンまで飛び、デビーに会いに行った。そして、キャサリン宛ての手紙のコピーを数通分もらった。「ニューメキシコ大学には、こういう手紙がいったい全部で何通あるの?」と私が訊ねても、はっきりしたことは分からないという。「今度はぜひ一緒に大学図書館へ行きましょう!」と約束し合って別れた。
 そういうわけで、1年ぶりのデビーとの再会は、とても心躍るものだった。研究者である彼女は、ニューメキシコ大学の図書館員たちと顔なじみである。デビーが一緒に行ってくれなかったら、何のコネクションも肩書もない私が、大学図書館を利用することはできなかっただろう。
 私のナビゲートで無事にニューメキシコ大学にたどり着き、学内の駐車スペースに停める許可証をもらうと、2人でツィンマーマン図書館(写真1)へ向かった。約3万人の学生が学ぶ広大なキャンパスである。大気がぴりっと冷たい。この大学には科学やビジネス、美術など分野別に6つの大学図書館がある。ツィンマーマン図書館は社会学や教育学、人文関係の蔵書を揃えており、キャサリン・スティンソン関係の資料はここに保管されている。アルバカーキには2泊するが、終日調べられるのは1日のみ。正味2日間の勝負である。図書館は淡いベージュの建物で、玄関部分の白い柱が美しい。中は落ち着いた雰囲気で、学生たちが静かに行き交う。古色蒼然とした木製のロッカーに荷物を入れ、閲覧室に入った。
 デビーに紹介されて、アーカイブ専門司書のナンシー・ブラウン・マルティネスさんにあいさつすると、彼女は「キャサリンのことを調べにいらしたんですね。彼女の資料は、私たちの図書館の宝物です」と満面の笑顔で握手してくれた。
 キャサリン・スティンソン関係の資料は、20箱に上る。彼女が結婚した相手、ミゲル・オテロの父が州知事で、ミゲル自身も司法長官を務めるなど地元の名士だったため、夫の家系の含めた一族のコレクションとして保管されている。あらかじめ、所蔵資料の目録に目を通し、「BOX1」に収められている「Folder10」から「Folder13」までが目的の手紙だろうと見当をつけていた。閲覧申込書に氏名や連絡先、目的、閲覧希望の箱とフォルダーの番号を書き込み、ナンシーさんに渡す。しばらくすると、書庫から大きな箱を積んだカートがやってきた。
いよいよ「BOX1」との対面である。


    写真1 ニューメキシコ大学のツィンマーマン図書館

憧れの「スチンソン嬢」

日本人からのファンレター

 私が初めてキャサリン・スティンソンのことを知ったのは、歌人、与謝野晶子の評論集を読んでいたときだ。『愛、理性及び勇気』の中にある「ス嬢の自由飛行を観て」という不思議なタイトルの文章が気になった。この評論集には「スチンソン嬢に」と題した文章も収められている。2つの文章を読むと、「ス嬢」が「カザリン・スチンソン嬢」という、米国の女性飛行家であることは分かる が、それ以上のことは記されていない。
 晶子は歌集『みだれ髪』で鮮烈なデビューを果たし、当代随一の人気歌人であったが、科学技術など新しい時代の動きについても関心が高く、社会評論を多く著した。しかし、晶子の研究書でキャサリン・スティンソンに触れたものは、ほとんどない。赤塚行雄著『女をかし与謝野晶子 横浜貿易新報の時代』(神奈川新聞社)に、『愛、理性及び勇気』に収められた2編が紹介されているくらいだ。この本は、晶子と横浜貿易新報との関わりを追った内容である。晶子が同紙に寄稿していた時期とキャサリンの来日とが重なっているため、この文章を取り上げたようで、キャサリンについての詳細は載っていない。一方、『日本航空史 明治・大正篇』など、飛行関係のいくつかの本には大正時代に来日した飛行家の一人として出てくるが、当時の新聞記事の引き写しばかりで、あまり参考にならない。「カザリン・スチンソン」という名前だけを手がかりにインターネットで調べたり、米国で出版された本を読んだりして、少しずつ彼女の業績や日本との関わりが分かってきた。デビーとの出会いは、その頃だった。


写真2 キャサリン・スティンソンの日本製絵葉書

 「BOX1」を開けると、ナンバリングされた厚紙のファイルに挟まれた手紙がぎっしり入っている。ナンシーさんから、取り出すときは手紙の順番が変わらないよう、細長いしおりを挟むことを指示され、恐る恐る一通ずつ目を通し始めた。キャサリンのもとに届けられて以来、これらの手紙に触れる日本人は自分が最初かと思うと、ちょっと愉快な気がした。「folder 10」は「中国訪問」、「folder 11」から「13」は「日本訪問」に関する手紙だ。まず、すべての手紙を数え、英語で書かれたもの(手書き、タイプライター)、日本語あるいは中国語で書かれたもの、また差出人の性別で分類することにする。
 「ステインソン嬢」「スチンソン様」「カザリン・スチンソン嬢」……宛先の表記はさまざまだ。そして、差出人も15歳の少女から侯爵夫人までと実に幅広い。手紙はビジネス関係のものも合わせて219通に上った。中国訪問時の手紙は36通と少ないが、その中には米国人女性や日本人留学生によって書かれたものが12通含まれ、中国語の手紙は1通のみだった。英語で書かれたものは興行の契約などに関わるものか、米国人からの手紙で、中国の人が英語で書いたファンレターは皆無である。一方、日本訪問時の手紙は183通で、日本語のものは11通、英語と日本語が混交したものが1通である。日本語で書かれたものは全体の1割程度で、そのうち6通は和紙に筆で書かれている。9割以上は英語で書かれており、タイプライターで書かれたものもあるが、多くが見事な筆記体の手書きだ。そして、ほとんどが純粋なファンレターといっていい。
 「私はあなたの飛行する姿を見て、たいへん感動しました」「あなたの勇気は素晴らしい」「私も飛行家になりたいと存じます」――ニューメキシコで見つけた手紙には、大正時代のごく普通の日本人の空への憧れがさまざまに綴られていた。それは、一人の女性パイロットへのファンレターであると同時に、近代国家への道を歩み始めた日本の昂揚した気分が反映した資料でもある。当時の人たちが飛行機を通してどんな夢と希望を抱き、辞書を引き引きキャサリンに手紙を書いたのかと思うと、胸がいっぱいになった。

キャサリンと日本

 1916(大正5)年12月15日午後7時すぎ、東京・青山練兵場(現・明治神宮外苑)に集まった人々は、一心に暗い夜空を見上げていた。と、エンジン音が響いた。いよいよ米国人女性の曲芸飛行が始まったのだ。飛行機の両翼に取り付けられた花火の光が、天空を裂くように、ふた筋描かれてゆく。やがて光の筋は優美なS字形を描き、人々の口から讃嘆の声が上がった。それは、キャサリン・スティンソンが女性パイロットとして初めて日本の空を飛んだ夜だった。
 彼女は、1891年にアラバマ州に生まれ、1912年に米国で4人目の女性パイロットとなった。宙返りなど曲芸飛行を得意とし、国内だけでなく日本や中国でも華麗な技を披露した。活躍した時期は、1920年に結核で引退するまでの8年間と短かったが、アジアの空を飛んだ最初の女性ということで、日本人には特に愛された。
 来日したのは、1916年12月11日である。サンフランシスコと日本を結ぶ北米航路を日本丸で渡ってきた。1911(明治44)年3月に、大阪朝日新聞によって初めて民間飛行大会が行われて以来、チャールス・N・ナイルス、アート・スミスら米国人パイロットによる妙技が披露されていたが、女性パイロットの来日は初めてだった。各紙は到着前から盛んに報じ、訪日を盛り上げた。到着してからは連日、写真付きでキャサリンの動向を伝え、各地での人気と歓迎ぶりを紹介した。
 来日中のキャサリンは多忙そのものである。夜間飛行や振り袖を着て行う飛行といった興行の合間に、歓迎会や式典などさまざまなイベントに招かれた。その内容は、飛行関係者による築地・精養軒での歓迎会、早稲田大学の大隈重信への表敬訪問など実に多様である。帝国劇場で開かれた各界の女性有志による歓迎会は、「婦人を主催者とするこの種の会合は日本空前の試み」(『日本航空史』)という意味でも注目された。「BOX1」には、この歓迎会への招待状も収められていた。流麗な筆で書かれた和紙の招待状には、「歓迎会発起人総代」として、「公爵母堂 毛利安子」「侯爵夫人 鍋島栄子」が名を連ねている。毛利安子は文化人として有名で、鍋島栄子は「鹿鳴館の華」と称され、後には社会運動家としても活動した。
 当時のキャサリンは25歳だったが、興行主の意向もあり「十九歳」と伝えられた。身長152センチと小柄で、ネイティブアメリカンの部族の一つ、チェロキー族の血を引くためか、日本人に親しまれやすい顔立ちだったのも、人気の一因だったと思われる。愛機に搭乗した姿や、振り袖を着てポーズをとったもの(写真4)など、日本で製作された絵はがきの図柄は30種類を超える。



    写真3 来日して大歓迎を受けるキャサリン


写真4 振り袖姿のキャサリン


 到着した12月の中旬から翌年2月にかけ、東京、大阪、神戸、名古屋などで飛行した後、中国へ渡った。そして、2カ月ほどの間、上海、天津、北京などで32回にわたって飛行した。再び日本へ戻ったのは1917(大正6)年4月下旬。米国が第一次世界大戦に参戦したため、当初の予定を切り上げて5月10日、帰国の途についたのだった。
 ニューメキシコ大学の図書館に保管されている手紙の多くは、彼女が日本にいた間に、滞在先のホテルに寄せられたファンレターである。テキサスの日刊紙「サンアントニオ・エクスプレス(San Antonio Express-News)」は、日本滞在中の彼女の談話として「私は毎朝、50通から75通ほどの手紙を受け取ります。そして、3室続きの部屋のうち2室は花でいっぱいになってしまいます」(1917年1月28日)という記事を掲載している。この談話が正確であるなら、現存している200通ほどの手紙は、彼女が受け取った中のほんの一部に過ぎない。
 キャサリンが自分では読むことのできない日本語の手紙も含め、ファンからの手紙を大切にとっておいたのは、日本に対する深い親愛感を示しているようだ。「BOX7」には、「Asian Souvenirs」と書かれたフォルダーがあるが、そこに入っているのは彼女が日本から持ち帰った包装だった。こけしや松島のイラストが入った土産物店や素麺店の包装紙を大切に持ち帰ったキャサリンの心を思うと、ぐっと身近に感じられる。  日本でも中国でも大歓迎されたが、彼女自身の印象としては日本の方が優ったようだ。というのは、中国では熱狂した観衆が飛行機を取り囲んだために離陸できないことが度々あった。また、着陸するはずの区域に人々が押し寄せたり、着陸した飛行機によじのぼろうとしたりすることもあった。それは全く悪意ではなく、中国の人たちの無邪気な好奇心からだったのだが、こうしたトラブルは彼女をいたく失望させた。一つには、よい通訳がいなかったため、観衆にきちんと指示を伝えられなかったことが大きかったようだ。帰国後、日本人について「これまでに会ったなかで最も礼儀正しい人たち」と評していることからも、日本で受けた歓待が彼女を喜ばせたことがうかがえる。
 キャサリンが日本に深く印象づけられた以上に、日本の人たちは彼女によって勇気や夢を与えられた。ファンレターの数々は、当時の人たちがどれほど彼女の飛行に魅了され、新しい時代の到来を実感したかをよく伝えている。

大正期のファンレター

 キャサリンが来日したのは1916年12月12日だが、同じ月の18日付で書かれた男性名からの英語の手紙には、早くも「あなたの名刺を送ってくださり、どうもありがとうございます」という文章がある。すべてのファンレターに返事を出したとは考えられないが、キャサリンの方からも少しは返事を書いたのだろう。
 15歳の「一少女」から寄せられた日本語の手紙には、こんな文章が書かれている。
 「身分をもかえりみず、かようのお手紙を差し上げましてはまことに失礼でございますが、どうぞおゆるしくだしませ。私は今年十五歳になる少女でございます。(中略)私はステインソン様の夜間飛行を屋根の上で見物いたしました。そのみごとさはに言話(ママ)につくされませんでした」「私は勇ましいことが大好きで、ことに飛行機は好きでございます。飛行機へ乗って広い空中を思うままに飛びまわったならどんなに面白いことでござましょう」「どうかして一度飛行機へ乗ってみたいと思っておりますが、いかがでございましょうか。あまりにあつかましい事でございますが、ぜひ飛行機へ乗せてくださいませ。お願いでございます」「この手紙をごらんになって多くの人は大笑いなさることでしょう。私はかくごの上でございます」
 同乗の希望を書いておきながら、「一少女」という署名であることは不思議な感じがするが、「お返事は新聞で拝見いたします」とあるので、何らかの回答を期待して書かれたものであろう。楷書で書かれた筆跡からは、真面目さが伝わってくる。
また、「琴子」と署名された手紙は、流麗な筆運びで巻紙につづられている。
 「あなたはそのしおらしさと美しさで、雄々しさをつつんでいらっしゃいますのね」「あなたが伝えてくだすったその教訓によって、もっと強くなければいけないということを今更痛切に感じたのでございました」「桜咲く国のおないどしの乙女があなたを深く印象してるということをご記憶くださいますならば、あたし本当に幸いだと存じます」  「おないどし」というのは、新聞で報じられたキャサリンの年齢、19歳であろう。「すっきりと木のもとに立っていらっしゃるあなたの瞳をかすめて降りそそぐ花の雫!」など、エクスクラメーション・マークの使用や、熱のこもった口吻から筆者の若さが伝わってくる。全体としてはとても礼儀正しい文面だが、ところどころに使われる「あたし」「〜でござんしょう」などに、当時の若い娘の物言いが生き生きと感じられる。
 13歳の少女がローマ字で書いた手紙もある。「わたくしは、あなたが日本においでになったので、なつかしくてたまりません」「15日と16日の飛行を見ましたが、ミス(ママ)・スミスより優るほどです。皆さんが褒めているのを聞いてわたくしは、飛び立つほどうれしゅうございました」「本国にお帰りになっても、妹のように思ってお便りを願います」……。 「なつかしい」は、現在では往時をしのぶ時に多く使われるが、ここでは「心ひかれる」「慕わしい」の意で用いられている。

親しみと憧れ

 英語で書かれたものの多くは、テキスト通りに書かれた堅苦しいあいさつで始まり、文法的にあやしい表現も多々見られる。このことは、英語で手紙を書いた人たちが必ずしも英語に堪能でなかったこと、それにもかかわらず、キャサリンに何とかして自分の感動を伝えたいという思いで、ペンをとったことを思わせる。女性名で書かれた英文は、“I”で始まる文章が行の末尾に近いところから始めているものがいくつかあり、自分のことを書き始めるときに行の終わりに持ってくる日本語の手紙のマナーを意識したようだ。12月中旬に来日し長期滞在する予定のキャサリンに、異国でクリスマスを迎えることを思いやる文面も多くみられる。
 英語で書かれた手紙の多くは、高等学校や大学で学ぶ若い世代のようだ。在学している学校を記したものには、東洋英和女学校、雙葉高等女学校、同志社大学、慶應義塾大学といった校名を見ることができる。“Nihombashi girl’s school”は日本橋女学館高等女学校、“Nagoya Commercial School”は名古屋市立名古屋商業学校と思われるが、はっきりしない。また、“Osaka Girls school”は、浪華女学校と合併して間もないミッションスクールのウヰルミナ女学校(現・大阪女学院)ではないかと考えられるが、これも断定できない。いずれにしても、当時の高等教育を受けていた若者が、キャサリンに対して、飛行機と外国両方への憧れを投影していたことが数々の手紙からうかがえる。
 習ったばかりと思われる筆記体の英語の手紙は、女学校1年生の生徒が書いたものである。キャサリンの来日を非常に喜んでいる内容だ。“I wish that your many happy flying and success.”と結んだあと、自分の署名の下に日本語で、小さく「私ハ未ダ文ガ下手デ上手ニ書ケマセンカラ、ドーカ御ハンジ下サイマセ。ナツカシサノ余リ右ノ様ニ筆トリマシタ」と記してある。
 15歳の少女は「あなたの見事な飛行を見て、たいへん感銘を受けました。私も飛行機に乗ってみたいと思います。あなたは本当に『空の女王』です」と書く。“dexterity”(機敏さ、手際のよさ)などの単語を使いつつ、「私はあまり英単語を知らず、文法的な間違いもきっとあるでしょうが、お許しください」と書かれている。非常にきれいな筆記体だが、文法やスペルの間違いがいくつかあり、ネイティブ・スピーカーに書いてもらったものでないことは明らかだ。
 18歳の学生の手紙は、“My dear Miss Suchinson”で始まる。キャサリンの来日が待ち遠しくてならなかったこと、自分の3人の姉のうち、1人がシカゴに留学中であり、2人が日本女子大学に在学中であることなどを記している。名前はイニシャルしか書かれていないので性別が分からないが、ピアニストを目指して自分も留学したいのだと書いている。かなり教育水準の高い、裕福な家庭に育った人だろう。キャサリンと友達になりたいので、自分の写真を記念に同封するというあたり、女学生のような印象を受ける。便箋の欄外に「私を、aeroplaneにのせて下さい」と日本語、英語の交じった文章を書いているのが幼さを感じさせる。
 日本橋女学館高等女学校に在学中の18歳の少女は、ほとんど文法上のミスもない英文をきっちりした筆記体で書き、卒業したら「アメリカ――高貴で広大で、栄光に満ちた美しい国――に留学したい」と希望している。そして、「私たち少女であっても、飛行について知識を得るべきだと思いますが、日本ではまだ飛行できる女性はいません。だから、女性は飛ぶことができないと考えていました。しかし、今やあなたの傑出した飛行を見たのですから、日本の女性たちも、自分たちが安全に飛ぶことができると思うべきです」と熱のこもった文章を書く。この手紙を書くのに3日かかって頭痛がしてしまったというくだりもあるが、実にしっかりした英文である。
 和歌山市の女性の手紙には年齢は書かれていないが、自分のことを“an active girl”と称し、東京・青山のキャサリンの飛行大会を見に行くはずだったのに、病気で行けなかった旨を残念がる文面だ。書き出しは「このところ寒さが増して風は身を刺すようになり、庭園には1つも花がありません。けれども、私はたいへん美しい花を見つけました、それは天空の征服者であるあなたです」と美文調である。「私は飛行機の飛ぶ姿も見たいし、自分でも乗ってみたいです。あなたは進歩的な少女――日本語で言えば『おてんば』かもしれませんね。あなたの国の飛行の歴史を読むと、わが国の飛行界の稚拙なことに衝撃を受けます。どうぞ私たちの国に、あなたのお国の飛行の歴史を教えてください」と訴えている。
 別の少女は、愛らしいうさぎのイラストが入ったピンクの便箋に、「あなたが空を飛ぶ様子を見ましたが、まるでかわいい鳥のようでした」と書き、「あなたは、空を飛ぶという素晴らしい芸術によって、日本のすべての少女に勇気を与えました」と称えている。自分で便箋に真紅の花を描き添えた16歳の少女は、神奈川県内のバプテスト系のミッションスクールに通っているが、8歳のときに1人の女性に連れられてロサンゼルスに行き、1年ほど滞在した経験があると自己紹介している。「日本名は『あさ』だが、あなたも知っているとおり、これはそちらでは男性の名前なので、どうか“Daisy”と呼んでほしい」という。「あさ」が“Arthur” と似ているという意味なのだろう。“do”を用いた強調や、付加疑問文の用法など自然な英語で綴られた手紙である。
 女学生たちのファンレターは、「飛行機に乗せてほしい」というものを除けば、おおむねキャサリンへの賛辞、自分の受けた感動を伝える内容である。「私の外国のお友達!」「1度しかあなたの飛行を見ていませんが、まるで旧知の友達のように思えます」などという文面から、キャサリンが19歳と報じられたために、若い世代からの親しみと共感を得たことが伝わってくる。
 一方、男性からのファンレターは、彼女の直筆の返事やサイン、写真が欲しいというものが多い。
 20歳の男性は几帳面な筆記体で、「これが3通目の手紙です。20日と24日に出した手紙を受け取られたでしょうか。どうぞ返事をください。一生大事にします」という内容の手紙を切々と書いている。岡山県在住の青年の手紙は、「あなたが日本丸に乗ってくる間でさえ、私の胸は高まっていました。もし、私の住む町を訪れ、あなたの素晴らしい飛行を披露してくださるなら死んでもかまいません」というラブレターにも似た文面である。大阪在住の17歳の少年も「私は飛行にたいへん関心をもっています。もし1度でもあなたにお会いしてお話しできれば嬉しい限りです。あなたは実に気高く勇敢な女性です。そんなあなたが大好きです」と、熱のこもった手紙を書いている。
 男性の手紙には、飛行家になりたいという希望が書かれたものが目立つ。「小生は、当年十八歳になる者です」と始まる日本語の手紙は、誰かが翻訳してくれることを願って書かれたのだろうか。「大の飛行機好きにて、一年ほど以前より両親に頼んで志をのべましたが許しませんでした」「洋行したり飛行学校に入ることは会計が許しませんゆえ、弟子にして貴女の本国へ連れて帰ってくださることはできませんでしょうか」という依頼状である。別の英語の手紙には“a flying man”になりたいのだが、どうやったらアメリカの飛行学校に入れるか教えてほしい、などと書かれている。この男性は1度アメリカへ行ったことがあり、「私は日本よりもあなたの国の方が好きです」とも綴っている。
 別の男性は、日本語で「私は貴君の飛行ぶりをみまして大層感心しました。私も将来は立派な飛行家になる心組です。今から貴君の下で飛行術を習いましたら想像以上の飛行家になれることと私は深く信じます」と、かなり図々しい内容の手紙を書いている。こちらも「どうぞ私を貴君の弟子同様にせられて飛行術をお教えください」と書いてあるところを見ると、当時キャサリンがテキサスで弟妹と飛行学校を経営していたことを知っていたのかもしれない。

雑誌の特集号

 私が夢中になって「BOX1」の手紙を読んでいるとき、友人のデビーは黙々と、別のBOXを開いては写真や古い新聞記事などをチェックしていた。ニューメキシコ大学で調べものをしているのは私だけではなかった。デビーは2000年に出版した子ども向けのキャサリンの評伝に続き、今度は大人向けの評伝を書こうとしていたのである。
 アルバカーキに着いた最初の日、大正時代の手紙に興奮している私に、デビーが「これ、何て書いてあるの?」と声をかけた。ブロンズ製の楕円形プレートの片面にキャサリンとおぼしき似顔絵のレリーフがあり、もう片面には「日本一章」と刻んである。私は首をかしげた。一字ずつ漢字の意味を説明したうえで、「うーん、あなたは日本一だ、という意味なんでしょうねぇ……多分、キャサリンの飛行の技術を称えた何かの記念品だと思うけど」と歯切れの悪い返事をした。そして、手紙以外にもキャサリンと日本の関係を示すものはいろいろあるんだろうな、と舌打ちするような思いを味わった。こんなに手紙が多いとは思わなかった。スキャンするだけでもだいぶ時間がかかるし、アルバカーキに2泊というのは短かった。あと1日半でチェックし終えることができるだろうか。  その次の日のことだ。デビーが再び、「ねえ、見てみて」と私に小声で話しかけてきた。見ると、大正時代の雑誌だ。表紙を飾っているのは、着物を着た笑顔のキャサリン・スティンソンと飛行機のプロペラ部分の写った写真(写真5)である。そして、雑誌のタイトルは「日本一」ではないか。昨日のブロンズのプレートは、この雑誌が関わった賞牌に違いない。「空中征服号」と題したこの号は、まさに来日したキャサリンら外国人パイロットの話を中心に、日本での飛行熱を多角的にとらえた内容だった。


写真5 キャサリンが表紙を飾った「日本一」


 デビーの見つけた雑誌は、「BOX14」に入っていたもので、目録には「日本語で書かれた飛行に関する本」とのみ記されていた。旅に出る前にチェックしたとき、私は「きっと、日本に来たときに誰かに贈られたもので、大した価値はないだろう」と独り決めしていた。彼女がいなかったら、こんな特集号があることを知らずじまいだっただろう。自分の不注意に恥じ入るばかりだった。
 月刊「日本一」は、南北社という出版社から1915(大正4)年に刊行された総合的な大衆誌である。「空中征服号」は1917(大正6)年2月号で、女性記者によるキャサリンのインタビュー、同時代の飛行家たちとの比較などの記事が掲載されている。特集号にはアート・スミスら数人の外国人パイロットが登場しているが、表紙を飾ったのはキャサリンだったことからも、当時の彼女の人気の高さがわかる。
 特集号には、同社が帝国教育会館でキャサリン・スティンソンの講演会を開いたことや、「日本一章」の賞牌と併せて懐刀一振りも記念品として進呈されたことも記されている。講演会では、定員千人の大講堂が満員になり、立ち見も出たほどの人気だったという。「カザリン・スチンソン嬢の挨拶の大要」によると、彼女はあいさつで、「見渡すところ、だいぶこのうちにはご婦人のお方もおいでになる、これについて考えるとお国のご婦人の中にもこの飛行機に深き趣味をもっておらるる方が多く、将来この中から婦人の飛行家が現れるに違いないと思いまして、私は一層愉快に感ずるのであります」などと話した。
 インタビュー記事には、次のようなやりとりが収められている。

 記者「一体、婦人には飛行家が適しているでしょうか」
 スティンソン「ええ、それは女に限りますよ。全く女というのは如何なる場合にも男子より比較的冷静で細心ですからね……私はいまだかつて落ちたことはありませんものね、ホホホ」

 また、「こうして来てみますと、全く夢の天国にでも彷徨しているような何ともいえない気持ちがされます。(中略)私のような者に対してまで、なんかとかゆいところに手のとどくような御待遇(おもてなし)ぶりには何と御礼を申し上げてよいことやら、私には差し当り適当な言葉が浮かびません」と日本での歓迎ぶりを感謝する言葉も記されている。
 「日本一」が国会図書館に揃っているかどうか分からないので、私は丹念に写真を撮った。ページをスキャンするのは雑誌を傷めるので許可が得られなかった。デビーに「この雑誌、チェックしていなかった。本当にありがとう」と言うと、彼女は「私たち、いいコンビじゃない?」と言ってウインクしてみせた。

(この項目続く)




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