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山下センセイのワインで世界一周!

第1回 ワインの「新世界」と「旧世界」

 はじめまして、山下範久といいます。私は京都にある立命館大学というところで社会学を講じており、研究上の専門としては、一応、歴史社会学というものを名乗ることにしています。まあ、歴史学と社会学のあいだをいったりきたりするような学問です。今回から「ワインとグローバリゼーション」というテーマで、連載を始めることになりました。毎回だいたい一本ずつワインを紹介しながら、グローバリゼーションについてお話しさせていただきます。
 私は、ワインで生計を立てているわけではありませんし、園芸学や醸造学の専門研究者でもありません。したがって、いわゆるワインのプロではありません。私がワインに向けるまなざしは、さしあたり一愛好家のものです。そして愛好家としての私の関心は、おいしく、そして楽しくワインを飲んで幸せになることだけです。
 ただワインは、神様が天から降らせて私の口に直接入るものではありません。そこには、自然と人間のあいだの長い相互作用があり、また人間と人間とのあいだの厚い関係の連鎖があります。つまりいま目の前にある一本のワインにも、長い歴史的経緯と広い社会的関係が刻印されているということです。その意味でワインとは、いわば、今日のグローバリゼーションを映す鏡のようなものでもあります。そして、そこに歴史社会学者の出番があるというわけです。
 そういった次第で、この連載は、ワインを通してグローバリゼーションを語ります。ですが主役はワインです。ワインに刻印されたグローバリゼーションの意味を歴史社会学の目が読み解くことで、ワインの幸せに新しい光を当てること。よりおいしく、より楽しく、(そして少しだけ理性的に)ワインを飲むこと。これがこの連載の目的です。さあ、前置きはこれくらいにしましょう。まずは今回のワインのご紹介から・・・


撮影:山下範久

 第一回の今回は、少しかわったワインを用意しました。ヴァルテル・ムレチニック [ VALTER MLEĈNIK ] のレブーラ [ Rebula ] というワインです。ムレチニックは作り手の名前、レブーラは使用されているブドウ品種です。何が少しかわっているかというと、実はこれ、スロベニアのワインなんです。
 「スロベニア? ああ、チェコスロベニアってチェコとスロベニアに分れたんだっけ?」とかおっしゃるアナタ。ちがいます。それはスロバキア。スロベニアは、旧ユーゴスラビア連邦を構成していた六つの共和国のひとつです。1991年に独立しました。
 「えー、ユーゴスラビア? でも、東欧でワインなんかつくってんの? イモと黒パンばっかりたべて、ビールとかウォッカとかばっかり飲んでるんじゃないの? 」などとおっしゃるアナタ。偏見です。いますぐもうひとつウィンドウをあけて、世界地図を確認してください。アドリア海の奥でイタリアと隣り合わせになっているスロベニアが確認できますね。真西に隣接しているフリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州は、イタリアにおける白ワインの宝庫。たどればローマ帝国時代からのワインづくりの歴史を持つスロベニアは、立派なワイン国です。
 実際、このムレチニックのワイナリーは、スロベニア西端、フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州と地続きのプリモリエという地域に所在しています。またレブーラというブドウ品種は、イタリア側ではリボッラ [ Ribolla ] (ないしはリボッラ・ジャッラ)と呼ばれ、ちょうど国境をまたいでこの地域一帯に固有に分布している土着品種です。
 「というわけで、今回のワインは古ーい伝統のあるワインなのです」と続けたいところなのですが、うーん、話はもう少し複雑なのです。
 ワインの世界には、「旧世界」と「新世界」という独特の言い回しがあります。世界史で「新世界」といえば、ヨーロッパ人が、いわゆる大航海時代以降(15世紀末以降)に「発見」した大陸のことを指すのが普通です。具体的には南北のアメリカ大陸やオーストラリアなどです。これに対してワインの世界では、フランス、イタリア、ドイツなど、ワインづくりの歴史の長い国々のワインを「旧世界ワイン」と呼び、カリフォルニアやチリ、オーストラリアといった相対的にワインづくりの歴史の短い国々のワインを「新世界ワイン」と呼んでいます。ヨーロッパ以外の地域には、多くの場合、ヨーロッパ人がワインづくりを持ち込んできたという歴史的経緯があるので、世界史でいう新世界と、ワインでいう新世界とは、おおむね一致するのですが、微妙なところもあります。
 たとえば南アフリカワインは通常、新世界ワインのなかに含められます(この地にワインづくりを持ち込んだのは、17世紀のオランダ人です)。しかし、南アフリカを新世界と呼ぶ歴史家は少ないでしょう。喜望峰はたしかに大航海時代の「発見」ですが、アフリカ大陸は決してヨーロッパ人にとって未知の大陸ではなかったからです。また近年、中国やタイ、インドといった地域でもワインがつくられるようになり、ワインづくりの歴史の浅さからいえば、まちがいなく新世界ワインなのですが、まさか中国やインドを新世界と呼ぶ歴史家はいないでしょう。
 さらに話をややこしくしているのは、最近のヨーロッパのワイン産地の激しい変容です。もちろん、ボルドー、ブルゴーニュ、ピエモンテ、ラインガウなどといった、古代や中世に起源を持つ名だたる銘醸地は伝統の名に恥じないすばらしいワインをつくりつづけています(お値段もすばらしいですが)。しかし、そのような長い歴史的伝統とは必ずしもつながりをもたない産地が増えているのです。言うなれば、ヨーロッパのなかに新しい「新世界」が生まれつつあるということ。詳しくはこの連載のなかで、おいおい触れることになると思いますが、今回とりあげたスロベニアもまた、そのようなヨーロッパにおける新しい変化の最前線のひとつなのです。
 最初に述べたとおり、スロベニアにおけるワインづくりの歴史自体は古く、20世紀に入った頃までは、その伝統のなかで(スロベニアはハプスブルク帝国の版図に入っていました)ワインをつくってきました。しかし社会主義化以降、ブドウ園の多くは国有化され、技術革新や国際市場へのアクセスからは取り残されることになりました。これは多くの東欧のワイナリーに共通しています。1989年のベルリンの壁の崩壊、それにつづく東欧諸国の脱社会主義化は、それらの国々のワインを、いわば鎖国からひらくことになりました。実際、今回とりあげたムレチニックは、国有化されていた祖父のブドウ園を徐々に買い戻し、自らのワイナリーを再建するところから仕事を始めたのです。
 そしてムレチニックのワインの作風に決定的な影響を与えたのは、ヨスコ・グラヴナーとの出会いでした。1993年のことです。グラヴナーはしばしば「フリウリの鬼才」と紹介されるイタリアのスター生産者。徹底した有機農法をとり、近代的な醸造技術の常識にとらわれない異端的技法で、とても個性的なワインをつくります。ムレチニックも同様の手法を取り入れ、やはりかなり個性的なワインをつくります。10年ほど前までは、パワフルな印象が強いワインでしたが、近年、おおいに洗練されてきました。
 一般に、レブーラ/リボッラというブドウ品種は、決してグローバルに人気のある品種ではありません。なにせ土着品種なのですから。それに対して、国際市場で売れる白ワイン用ブドウの筆頭といえば、やはりシャルドネ。実際、ムレチニックはシャルドネのワインもつくっています。そしてそちらもよいワインです。ですが、より「らしさ」を楽しめるのは、私はレブーラのほうだと思います。
 はじめてこのワインを飲まれるかたは、まずその色に驚かれるでしょう。赤か白かといえば「白ワイン」なのですが、実際にはほとんど山吹色に近い濃い色合いです。そして香り。蜂蜜につけた金柑のような香りが濃密に広がり、炒ったアーモンドのような香りがふわりと追いかけてきます。口に含むと、ブドウ自体の凝縮感を反映したテロリとした舌触りが心地よく、のびやかな酸味とわずかな苦みのアクセントのあとに、透明感のあるミネラルの印象が長く続きます。鑑賞に値するワインです。
 このムレチニックのレブーラを飲んでいると、ワインにおける新世界と旧世界ってなんなのだろうと、つくづく思います。スロベニアがヨーロッパの古い産地だという意味でなら、このワインは旧世界のワインです。しかし脱社会主義化によって新しく再生した産地という意味でなら、あるいはスロベニアのムレチニックがイタリアのグラヴナーに出会うことで生まれたワインという意味でなら、このワインはむしろ新世界ワインと呼ぶべきかもしれません。
 ですが、そのムレチニックがグラヴナーから学んだことは、徹底した有機農法と、ある意味で反近代的な醸造技法でした(たとえばグラヴナーは、最近さらに過激になって、アンフォラという素焼きでできた古代式のワイン容器を醸造に用いる手法を試みています)。新世界ワインを「近代的技術を駆使した新興産地のワイン」と定義するなら、ムレチニックのレブーラは、むしろその対極に近いワインです。他方、グラヴナーやムレチニックのようなつくりかたのワインは、最近の日本のワイン市場では「自然派」といったラベルでマーケティングされています。「スロベニアにこんなに個性的な『自然派』ワインがあった!」といったようなキャッチコピーには、どこか旧世界ワインとはかけはなれたものを感じます。というよりも、むしろ旧世界と新世界という区別が、その意味を失いかけているということでしょう。どうやら話はすでに、単にワインというよりも、もっと大きなグローバリゼーションのもたらす世界の変化にかかわってきてしまっているようです。


 あ、そうそう。ひとつ、お話ししそびれていました。今回、ご紹介したムレチニックのレブーラは日本でも手に入ります。どうか冷やしすぎずに飲んでください。オレガノやタイムたっぷりのトマト味の料理によく合います。個人的には、八角などのスパイスをきかせ、薄味にしあげた中華料理にあわせるのもお勧めです。

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