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手帳の文化史

第16回 宇宙と権力が暦を規定する

 手帳を構成するもっとも基本的な要素は暦である。
 この暦こそは、手帳に書かれているものの中にあって、人間の行動を時間という尺度によって規定するものといっていいだろう。休日としての日曜日はその典型的な例だろう。また、1月から12月までの各月に何日あるのかも暦に規定されている。暦は今でこそ客観的で絶対の尺度のように思えるが、歴史を見ると、それが為政者の統治の方針に従って何度も変わってきたことがわかる。
 世の中にはさまざまな手帳があるが、日付や月、曜日がどこにも記されていない手帳は存在しないといってよいだろう。日付を記入するタイプの汎用的なスケジュール帳であっても、1週間、1ケ月といった基本的な単位は、日付が記されたタイプと共通している。この時間の単位は欧米の先進国で採用されているグレゴリオ暦に準拠している。

・手帳の誕生

 イギリスの手帳メーカー「Letts」の日本版カタログの巻頭には、次のような一文がある。

 『1812年のある日、ロンドンシティの中心にある王立取引所内で文房具を扱う店を開いていたジョン・レッツ(レッツ社創立者)がふと思いついたこと ――日誌にカレンダーがついていたら、さぞ便利なのではないか―― それが世界で初めての市販ダイアリー「レッツ・ダイアリー」誕生のきっかけでした。』

 つまり、カレンダーにスケジュールを記入・管理するメモ記入部分を組み合わせたものが手帳ということになる。
 カレンダー自体も長い歴史があるわけではない。
 カレンダーという語は、ラテン語の「kalendae」(暦の最初の日の意)に由来する(※1)。日付に曜日名をつけたカレンダーが歴史に登場したのは、1650年頃のことだった(※2)。
 このカレンダーの元になる暦は紆余曲折を経て現在の形になっている。手帳という製品が成立するまでには、何度となく暦が作り直されたのだ。今回は暦の歴史を振り返ってみる。

・ロムルス暦にはじまる

 暦は歴史の中で、為政者の都合に左右された末に現在の形になっている。
 現在使われているグレゴリオ暦が日本で採用されたのは明治5年のことだ。さらにいえば、日本国内でも、暦は何度となく変更された。最初は中国の暦を取り入れたが、そのときどきの権力者の思惑によって何度も変更されている。複数の暦が並列していた時代もある。
 西欧で使われてきたグレゴリオ暦の前身は、ユリウス暦である。そしてユリウス暦以前にはロムルス暦と呼ばれる暦が使われていた。


 グレゴリオ暦の利用が一時中断された国や、グレゴリオ暦が広まって以降もユリウス暦を依然として使い続けた国も存在していた。
 古代ローマの「ロムルス暦」ができたのは、紀元前8世紀のことである。ロムルス暦は1年を304日とし、春を一年のはじまりとして、1月から10月まで、残りの日は冬眠の日ということになっていた。31日の月が4つ、30日の月が6つだ。各月はそれぞれ呼び名があった。1月はMarutius、2月はAprilisなど4月までは当時のローマで信仰されていた神の名が、5月以降は、「5番目の月」「6番目の月」という意味の名がついていた(※3)。

・7月をJuliusにしたユリウス暦

 この暦が12ヶ月の現在の形になったのは、ロムルスの跡を継いだヌマ王によるヌマ暦だ。11月(Januarius)、12月(Februarius)が加わった。各月の日数は29日または31日だが、12月のみは28日だった。1年を355日とした(※4)。
 ヌマ暦は紀元前153年に改暦された。1月がJanuariusに、2月がFebruariusになり、それまで年初の月名だったMarutiusは3月になった。
 そのヌマ暦は紀元前49年、カエサルの政権掌握によって改暦される。エジプトの数学者ソシゲネスの助言によって、1年は365日と四分の一とさだめた。そして閏年は4年に1度で366日とした。さらに、それまで「Quintilis」であった7月がユリウス・カエサルの功績をたたえる元老院によって「Jurius」と改称された(※5)。
 またカエサルの後継者アウグストゥスは、8月をAugusutusとあらためた。これらの度重なるローマ時代の改暦によって、今日ヨーロッパのほとんどの国で使われている現在の月名が定まった。
 ユリウス暦には当初は、週は含まれていなかった。しかしローマがキリスト教を国教したあたりから、生活単位として1週間7日が定着したと考えられる。
 12ヶ月、1週間といった現在の時間単位の基礎はこのころに確立した。

・128年で1日ずれる誤差を修正

 前述したようにユリウス暦では、1年を365.25日としていた。これは実際の一年より11分14秒長い。そのため128年目には誤差の蓄積が一日になる。
 このユリウス暦を修正したのが、現在も使われているグレゴリオ暦だ。1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世によってなされた改革で定まったものだ(※6)。
 その規則は、以下のようになる。すなわち、
 西暦年が4で割り切れる年を閏年とする。
 ただし、西暦年が1000で割り切れ、400で割り切れない年は閏年にしない。
 閏日は2月29日とする。
 この原則で言えば、西暦2000年は閏年だが、2100年は閏年にならない。このグレゴリオ暦は、イタリアを初めとするカトリック諸国ではすぐに受け入れられたが、プロテスタント諸国(ドイツ、スイス)などでは採用が遅れた。また、ギリシア正教を国教としていたロシア帝国などの地域では、依然としてユリウス暦を利用した。グレゴリオ暦が利用されたのは、20世紀になってからだ。これはカトリック教会の影響力がギリシア正教圏には強制力を持たなかったことが原因だ。この例も暦の運用は、政治や宗教から逃れることができないことのひとつの現れだと言える。

・革命的すぎて定着しなかった革命暦

 グレゴリオ暦が一時的に中断された国もある。革命当時のフランスだ。1789年に勃発したフランス革命では、1792年に王政を廃止した。このことがキリスト教的な秩序からの脱却につながっていく。
 1793年に決められた革命暦は、キリスト教的な時間感覚からの訣別が随所に見られる。一例を挙げると、それまでの1日24時間、1時間=60分という時間単位に対して、十進法に基づく独自の時間単位を採用した。1日を10時間、1時間を100分、1分を100秒とした。週は廃止され1ヶ月を10日ごとの3旬に分け、10日、20日、30日がそれぞれ休日とされた。十二進法を基本原理とするグレゴリオ暦とは違い、十進法を基本としたのだ。革命の最中のフランスでは、革命暦にあわせて生活することが求められた。
 革命暦は、ブリュメール(革命暦で“霧の月”の意)18日(1799年11月9日)のクーデター、ナポレオン・ボナパルトの蜂起によって収束に向かう。1801年、ナポレオンはグレゴリオ暦を復活させ、革命暦は1806年に廃止された。
 暦の細部が規定されていなかった時代には、為政者によって閏年の操作などが行われていた。また暦が新たに変わったときには、それに従うことが求められた。
 現在ではグレゴリオ暦が定着しており、人々の生活はそれに従って営まれている。また日曜日は業種によっては必ずしも休日ではない。
 そして暦の歴史を見ると、グレゴリオ暦に至るまでの間に、それが為政者の都合によってどんどん変わってきたことがわかる。
 現在の日本では、驚くべき種類の手帳が発売されているが、それが依拠している暦はたった一つ、グレゴリオ暦のみだ。これは1872年(明治5年)以来変更することはかなわない時間の基準として定着しているからだろう。
 だが実際には、人間の生活時間帯は早朝から深夜にまでおよび、休日も職種や職務形態によってまちまちになっている。また、おもに宗教を中心とした行動原理の規定なども、緩くなっている。
 そのことが現在発売されている手帳のバリエーションを広げていることの原因なのではないかと考えられる。暦は2000年あまりの歴史の中で固定されつつあるが、その中で過ごす人間の生活は、暦をどう表示させるかの工夫=手帳のバリエーションによって、いかようにも工夫が可能になっているのである。
 その究極の例=手帳の自作については、次回に触れたい。
※1、3、4、5
『暦を知る事典』岡田芳朗、伊東和彦、後藤晶男、松井吉昭著 東京堂出版による
※2
『暦の歴史』ジャクリーヌ・ド・ブルゴワン著 創元社による
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