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手帳の文化史

第2回 手帳における精神的支柱の存在を考える

 手帳には、巻頭や巻末に社訓や行動指針が記されたものがある。とくに市販されておらず特定の会社や団体などに配布されるタイプの手帳では、この種類のものが珍しくない。
 具体例を挙げておこう。
 ある有名商社の2005年版の手帳には、「○○商事企業行動基準」として巻頭に以下の文言がある。
  • 1)法令等の遵守
  • 2)社会的に有用な商品、サービスの提供
  • 3)長期的な視野に立った経営
  • 4)公正な取引
  • 5)企業情報の開示
  • 6)社会貢献
  • 7)「反社会的勢力および団体との対決」
 この項目は全部で12項目にわたり、それぞれに数行程度の細かな説明がついている。1)では、「法令の遵守をはじめ、国際ルールおよびその精神を遵守して行動する」となっている。この行動基準は、別項で述べるような日めくりカレンダーにおける標語を連想させるが、本質的には違う。
 就業時間中にどう行動するかを示唆するこれらの行動指針の役割からは、特定メンバーに配られる手帳が、どのような目的で作られたものかを反映している。それはつまり、「就業時間中にどのように行動するか」の原則についての示唆である。会社なり団体なりまたはその周辺の限られた成員に対して、所属するグループのためにこのように行動しなさい=時間を使いなさいと指示しているとも考えられる。その意味で、手帳はその団体の方針なりを、小型のノートの形でコンパクトに体現したものだとも言える。さらにいえば、これらの行動指針を守ることで、その成員が属する会社や団体の存続と発展を目指しているといえるだろう。
 この種の手帳の代表とも言える年玉手帳は、1980年代までは珍しくなかった。前回も触れたように、いわゆる平成不況をきっかけとして、企業の経費削減の対象となり減少していった。
 では、手帳の巻頭に、その団体・会社の行動規範が記載されるようになったのはいつからなのだろうか。
 我が国の手帳の歴史は、福沢諭吉が1862年(文久2年)にフランスから持ち帰った西航手帳に端を発するが、この手帳は資料写真で見る限り無地の小型ノートだ。
 現在の形に近い手帳が登場するのは、明治時代になってからだ。西航手帳登場の17年後に登場した旧大蔵省印刷局による懐中日記は、日付記入欄と便覧を備えており、現在の手帳に内容も体裁もかなり近い。
 そして、行動規範を掲載した手帳として、日本にはじめて登場したのは「軍隊手牒」である。明治期に登場したこの手帳の巻頭にあるのが、軍人勅諭だ。軍人勅諭は、1882年(明治15年)1月4日に、明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。軍隊手牒には、巻頭に行動規範が掲載されている。
 「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ〜」(※)という一文ではじまるこの勅諭は、大きくふたつの部分に分かれている。ひとつは、日本軍の歴史的な経緯と性格に関する説明だ。少しだけ説明すると、神武天皇以来の日本の軍隊のあり方の変遷を、大伴氏などの兵を直接率いた時代から、鎌倉時代から江戸時代に至るまで紹介。その間に軍隊の長の位置として征夷大将軍があったことにも触れつつ、現時点=明治時代初頭においては、天皇自らが直接率いている軍隊であることを説明している。
 もうひとつは、軍人の心構えだ。これは以下の5項目である。すなわち、
忠節:
国家に対して忠誠を誓い働くこと
礼儀:
階級と年次を重んじること。上級のものは下級のものをいたずらにさげすまぬこと
武勲:
武勇を重んじ、小敵を侮らず大敵にひるまないこと
信義:
信義を守ること。自分のつとめを果たすこと
質素:
質素を第一とすること。そうしなければ武を軽んじ、贅沢で派手になるので
 軍隊手牒は、厳密に言えば、現在の手帳とはやや異なる。上記の勅諭をはじめ、所属や移転などの記録のための欄が中心であり、スケジュール欄などはないからだ。
 だが、その団体の成り立ちの説明や、成員としての行動規範を掲げている点は、現代の年玉手帳のひな形と見なしうる。
 その目的も異なり、具体的な項目名もまったく違うが、所属するメンバーがシャツのポケットに肌身離さずいれて持っているノート型のものには、そこに属する限り守るべきルールが記されている。その意味において、軍隊手牒こそは、箇条書きにされた行動基準を巻頭に含んでいる点で、現在の手帳の祖型のひとつと見なしうるのである。
※1
明治15年 陸軍省によるもの
★ 戦陣訓の現代語訳については、以下のWebを参考にしました。
http://www.geocities.jp/fujimoto_yasuhisa/bunsho/gunjinchokuyu.htm

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