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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第102回 『ママゴト』松田洋子(エンターブレイン)

松田洋子(エンターブレイン)(c)松田洋子/エンターブレイン

 かつて我が子を不注意で亡くし、その心の傷を抱え一人で生きているスナックのママ・恩地映子。ある日映子の元に、借金に追われる友人・滋子が5歳の息子・タイジを強引に預けて失踪する。最初は迷惑がる映子だが、タイジの素直さに徐々に心を通わせるようになり、やがてタイジは映子にとってかけがえのない存在になっていく。だがある日、実母・滋子がタイジを迎えに来て、この「ママゴト」は終わるかに思えたが……。

 誰も愛することなくすさんだ暮らしをしていた映子が、タイトル通り、友人の子・タイジとママゴトのようなぎこちない家族ごっこをするうちに、お互いを大事に思うようになっていく。こう書くと、言葉は悪いが「それ、ベタベタの感動モノでしょ」という印象を受けるかもしれない。だが、本作の作者は『薫の秘話』や『赤い文化住宅の初子』といったブラックで強烈な毒を感じさせる作品を描いてきた松田洋子なのだ。本作が作者のこれまでの作品以上に広い人々の心を捉える作品になっていることは間違いないが、その一方で、一筋縄でいかない、作者ならではの良い意味での毒のある「しかけ」も健在なのだ。そのおかげで、本作は感動的ではあるが「お涙頂戴」的なあざとさを感じさせない。

 まず、ヒロインの映子は世をすねたアラフォーだが、ひねくれた視点から煙草の煙とともに繰り出す言葉は、妙にものごとの本質をとらえて小気味よく、鋭い。作者はかつて、とりあげた実在の人物をほめ殺す『秘密の花園結社リスペクター』という作品を描いていたが、映子の本質を突いた毒舌ぶりに、その視点は健在なのだ。

 そして、物語の要である5歳児のタイジの存在もまた、独特だ。この子がかわいらしくないと成立しない話なのに、なんと、タイジは「口の達者な肥満児」なのだ。通常フィクションの中で「かわいい5歳児」を描こうとして、「口の達者な肥満児」を設定するのは冒険だ。少なくとも、CMや雑誌のグラビアに登場する利発そうな「現代の理想的なかわいい子ども像」からは、かなりかけ離れている。最初はいらつきタイジに冷たく当たる映子だが、天真爛漫で心優しくけなげなタイジのことを知るうちに、徐々にかわいい「ええこ」(よい子)だと感じるようになる。おそらく多くの読者も、映子に共感し、最初はうとましくすらあったタイジがちゃんとかわいく見えてくるのが本作のマジックだ。

 とはいえ、子どもがいない私が言うのもなんだが、実際、タイジは「ええこ」すぎるくらい「ええこ」だ(もちろん、物語的には、母である滋子がタイジに惜しみない愛をそそいできた結果ということなのだが)。

 なにしろタイジは大人の都合で環境が変わっても、おねしょもしなければ病気一つしない。男の子にありがちな乱暴さもなく、現実の子どもによくある興奮してしつこく同じ遊びをせがんだりといったこともないし、せかされなくてももう5歳じゃけえ、と一人でお風呂に入り、幼いのに自分だけではなく人のことを自然に考えられる優しさをもっている。なんだかもう、ほとんど「肥満気味の天使」みたいな子なのだ。タイジこそが、本作最大の「フィクション」部分かもしれない。

 だがそう感じつつも本作を楽しめてしまうのは、「こんな子、実際にはいないよね」という気持ちと同じくらい「子どもって、確かにこういうとこあるかも」とも感じるからだと思う。

 たとえていうなら、昼間さんざん振り回された子どもの寝顔を見るときの「寝てるときはかわいいねえ」と思うような、あの感じ。CMやドラマと違って、実際に子どもと過ごすとき、大人(特に保護者)は、笑顔でいる時間の何倍も、それは危ない、これはしちゃダメ、と注意をせざるを得ないし、気苦労も多いものだと思う。だがそんななかで、子どもがびっくりするくらいかわいい仕草をしたり、けなげなことを言ったりするのを聞いて、普段の「まったくもう」という気持ちがふっとぶ気がする、あの瞬間。タイジはたぶん、そんな「子どものかわいさ」の瞬間を凝縮したような、フィクションならではの「よりぬき子どもくん」なのではないか。そんなタイジが肥満児として設定されているのは、「子供のかわいさって、見た目がどうのとか、そんな表面的なもんじゃないじゃろう」という作者の挑戦なのだと思う。そして、読んでいくうちにちゃんとタイジが「かわいく」見えてくるのだから、作者の目論見は見事に成功していると思うのだ。

 この話にはもう一人、重要な役割を担った子どもが登場する。小学3年生でアジア系ハーフの女の子・アペンタエ(ペー)だ。彼女はたまたま知り合ったタイジの境遇に同情し、自分の名前は「子供の守り神」という意味だから、タイジを守ってあげると宣言し、言葉通りにタイジにしばしば会いに来るようになる。タイジを守るためなら大人である映子にもくってかかる一見気の強いペーだが、日本育ちなのに外見のせいで外国人扱いされ、家庭の外でも、また家庭のなかでも疎外感を感じていた。若くして娘を産んだペーの母・チャルテシッサは自分の気持ちだけで精一杯なところがあり、少女のような無邪気さが娘のペーを傷つけていることにも気づかない。しかしひねくれ者だが人の気持ちに敏感な映子は、一見口が悪く生意気なペーが、幼いながらも両親に気を遣って家庭内での疎外感を言い出せず、じっと「ええこ」にしている言いようのない気持ちをしっかり感じとり「子供に母親役をさせるな」とペーの母に指摘できる聡明さがあるのだ。また、この「ペー」の外見も、整ってはいるが子どもらしく愛くるしいというよりはちょっと迫力ある写実的な描き方だ。おそらく作者はわざと子どもらしいかわいさを排除した外見に描いているのだと思うが、読み進めていくとやっぱりペーもちゃんと「かわいく」見えてくるのである。

 物語の後半、滋子はタイジをつれ、舞善という男が営む「チャントメイト研究所」という独自の方針の農場へと戻っていく。舞善の掲げる理想は一見立派なのだが、排他的・独善的でもあり、彼の考える「よい子」の枠からはみ出すタイジを問題視して、彼を「教育」しようとするが、タイジにとってはそれは大きな苦しみとなり、それが物語を思わぬ方向へと導いていくことになる。

 つまみは乾き物しか出さないスナックのママである映子と、子どもに正しい食材を、と農園まで経営する舞善率いる「チャントメイト」は、まさに対照的な存在だ。いい子やちゃんとした家族はこうあらねば、という理想を押しつける舞善と、ふだんはだらしないが「生まれてきて大きゅうなっただけでうんとええこなんじゃけ」とタイジに言う映子。

 そしてタイジにそう言ったことで、いままでどうでもいいと思っていた自分の誕生日に映子は、タイジから自分で描いた絵をプレゼントされ、

「大きゅう育っただけでええこじゃって言うとったろ」

「じゃけおばちゃんはうんとええこで今日またいっこええこになるけ おめでとうなんよ」

と年を重ねる祝福され、思いがけない喜びを得ることになる。

 現実に生きる私たちは、ときに「ちゃんとしなくては」と思うあまりにチャントメイト(それにしても、あまりにそのまんまな名前……)的な、現実無視の理想のおしつけという落とし穴にはまりそうになることも多々ある。でも、「育っただけでええこ」という、映子が口にした、まるごと命を肯定するこの言葉にははっとさせられるし、映子からタイジへ伝えたこの言葉が、タイジから映子へと返されることで、「自分もええこ」なのだと映子が自己肯定できるところにこの物語の懐の深い輝きを感じるのだ。

 これまで、目をそらしたいような人間の暗部を容赦なく黒いユーモアを交えて描いてきた作者だが、本作ではそういう部分もありながら、一方で「甘い」ファンタジーを交えて物語を紡いでいる。前者は、映子の過酷な生い立ちや我が子を失うこと、また滋子の過去などだ。だが一方で、タイジに優しい借金取りの「コーリのおっちゃん」や、妙にひとのよい映子のスナックの客たち、そしてなんといってもタイジを代表とする子どもたち(舞善の息子・コウもまた、聡明でけなげな少年だ)の存在が物語を救い、前者と後者のコントラストによって、この作品は泥にまみれつつも咲く美しい花のような輝きを放っている。映子たちの話す言葉が広島弁(と思われる)方言なのも、キレのあるセリフに実感をにじませる効果をあげている。

 人がなにによって救われ、なにによって変わることができ、なにによって生きていく力を得るのか、という本質的で崇高ですらあるテーマを、卑俗で愚かさもたっぷりもった、でも(学校教育的な賢さとはまったく別の種類の)聡明さをもった人たちの物語の形で紡いだ本作。そう、多分これは、作者流の大人の寓話なのだ。

 ものごとを見据える鋭い目と毒をもはらみつつ、「その先」を夢見させてくれるフィクションの喜びを味わえる作者の新境地。全三巻、読んでみて欲しい。




(川原和子)  

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