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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第86回 『セントールの悩み』 村山慶(徳間書店)

(c)村山慶/徳間書店 既刊2巻

(c)村山慶/徳間書店 既刊2巻

 どういう符合か、ケンタウロスの登場するマンガが相次いで刊行されている。
 えすとえむ『働け! ケンタウロス』や、九井諒子『現代神話』(単行本『竜の学校は山の上』所収)、そしてこの『セントールの悩み』である。
 ケンタウロスなど、想像上の半人半獣の存在は、古くから神話などで語られてきた。
もっとも、いまここでちょっとしたブーム? になっているのは、あくまでも「キャラ」で描かれるそれである。『セントールの悩み』二巻の帯に、「ケンタウロス娘 萌え 解禁」とあることからも伺えるだろう。「ファンタジー」にカテゴライズされるゲームなどに登場する半人半獣のイメージが基本にある。そして半人半獣の存在たちは、こうしたオタク文化圏では「人外」と呼ばれている。

『セントールの悩み』には、明確なストーリーはない。
 主人公の女子高生・姫乃と、彼女のくらしを淡々と描く。彼女はお風呂に入ったり、美容院へ行ったり、クラスメイトたちと登下校をしたりする。その意味では、いわゆる「日常モノ」の範疇にも入るだろう。だが姫乃 はケンタウロスである(念のため申し添えておくと、ケンタウロスとセントールは、同じCentaur の別の読みだ)。

 そして、彼女の周囲には、現実の私たちと同じような形態の「人間」はひとりもいない。羽があったり、天使の輪っかを頭上にいだいていたりする。姫乃のようなケンタウロスは「人馬」と呼ばれ、ほかの形態の人々は「竜人」「翼人」「角人」「人魚」などと呼ばれている。そんな「人外」たちが、委員長だったり、体操服を着て体育の授業を受けたりしている。街の人々の皆がそうだ。電車に乗ったり、車を運転したり、アイスクリームを食べたりと、私たちがよく知る日常の風景のなかで、普通に生活している。まずは、このギャップが作品の魅力だろう。羽やら角やら輪っかやらのある人々が、普通に暮らしているという絵面は、なかなか幻惑的だ。繊細な描線によるかわいらしい絵柄も、この幻惑ぶりを増している。

 こうした、日常の暮らしのなかにケンタウロスたちが「いる」という構図は、『働け! ケンタウロス』にも『現代神話』にも共通している。ここがちょっと面白い。実際にはいるはずのない存在に、どうにかリアリティを持たせて、日常の社会に組み込んで描くかという、一種の思考実験になっているのだ。そのため、物語世界の「日常」は、現実の社会の細部のリアリティを強調しつつ、だが本質的に異なった「ケンタウロスたちが当たり前にいる社会」として描かれる。

 とりわけ、本作はその思考実験ぶりが大胆なのだ。なにせ、現実の人類と同じ形のキャラは一人も登場しない。それどころか、生物としての進化の過程までもが設定されている。六本の足を持った両棲類から進化した哺乳類の果てに、多様な形態を持った人類がいるという設定なのだ。
 さらに、この設定は、形態の多様さを孕んだ人類がどのような文明史を刻んできたかにまで深く言及する。たとえば、主人公のような「人馬」は、日本では武士だったが、ヨーロッパでは人間扱いされず、「形態解放」という歴史上のメルクマールがあったらしい、などだ。しかもこれらの「設定」を読者が知るのは、たとえば高校の文化祭で「人馬のお姫様」という演劇が登場するけれど、その考証はどうなの? という会話を通じてのことだ。いずれにせよ、人外たちの「日常」を、くらくらしながら眺めるという仕掛けになっている。

 考えてみれば、ケンタウロスのヴィジュアルが魅力的なのは、ひとえに馬の身体の美しさによるものだろう。だが、さらにつぶさに観察をすれば、この想像上の生き物が現実にはあり得ない骨格を有していることがわかる。肋骨は二組あるのか、肩甲骨はどうなのか。つまり、美術解剖学的な考証を行い、写実的に描こうとするほど、無理が来がちなものだ。マンガ家たちは、そこでさまざまな工夫を強いられたことだと思う。たとえば、姫乃が上体をよじり、自分のお尻を拭くカット。彼女の「人馬は太ると すぐ身体が 廻らなく なるから」「お尻も 拭けなく なっちゃう」というセリフに添えられた絵だ。

 この「絵」のリアリティには、二つの層がある。
 馬体の筋肉やフォルムを表すことで感じられるリアリティの層と、キャラとしてのまとまりによって、キャラが「いる」という感覚がもたらされるというリアリティの層だ。
 前者により、馬の体の美しさといったものが表現されるのだが、一方、後者は主にキャラの顔によって成立する。とりわけそれは、非現実的な(非写実的な)大きな目に支えられている。
 いわゆる美少女絵、萌え絵が、非写実的な「顔」と、写実的に近いコードで描かれる「体」のキメラからなることは、ササキバラ・ゴウ『美少女の精神史』で指摘されていることだが、ケンタウロスなど人外は、まさにその延長でとらえられる。
 別の言葉で整理すれば、キャラ図像のリアリティと身体表象のリアリティのコンフリクトが見られるとも言えるだろう。

 こうした、複数の異なる水準のリアリティの混在が『セントールの悩み』の幻惑感の起源ではないのか。
 それはキャラのレヴェルだけでなく、物語の設定や背景の描き込みにも敷衍できるだろう。いるはずのないものを、無理に「いる」かのような設定を積み上げることは、単にたのしい想像に留まるものではない。
 ケンタウロスたちが暮す日常の描写の細かさは、彼らの身体と同様、つきつめて考えれば、必ずどこかで矛盾をきたすはずだ。また、異様なまでに緻密に作られた、彼らの生物としての来歴や社会史も、同様だろう。
 だが、ここにも、キャラ図像と身体表象の関係と同じように、ある種のコンフリクトを起こすがゆえに、逆説的に「リアル」だと思わせるものがあると思う。緻密な設定を「よくここまで考えるものだ」と感心するのは、つきつめればどこかで矛盾が出てくることを私たちが薄々承知しているからに違いない。


(伊藤剛)

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