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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第82回 小池田マヤ『ピリ辛の家政婦さん』(祥伝社)

小池田マヤ『ピリ辛の家政婦さん』

(c)小池田マヤ/ピリ辛の家政婦さん

 10代の終わり頃、知り合いに、インスタントコーヒーをとても上手にいれる人がいた。ご存じの通り、インスタントコーヒーなんて、基本は粉末にお湯をそそいで混ぜるだけ。なのに彼女がいれると、なめらかで薫りが深いのだ。あまりに不思議で「なにかコツがあるんですか?」と尋ねると、最初に少しだけお湯をそそいでコーヒーの粉末をよく練って、さらにお湯を足すと美味しくなる、という技を教えてくれた。「なるほど!」といたく感心しさっそくそのやり方を真似たけれど、不器用なせいか、やっぱり彼女ほど美味しくはいれられていない気がする。
 
 さて、インスタントコーヒーを「いれられない人」はあまりいないと思うが、「美味しく」いれられる人となるとけっこう少ない。同様に、家事は誰にでもできると思われているけれど、高いレベルでやれる人は、あまりいないのかもしれない。「家事のプロ」(それも高い能力をもった)である家政婦さんが主人公の本作を読んで、そんなことを思った。
 家政婦の小田切里(さと)は、185cmの長身で痩せ型、ハスキーボイスで一見男性にさえ見える若い女性。およそ家政婦イメージからはほど遠い外見でおまけに性格も辛辣だが、仕事の腕は超一流。手際よく家をぴかぴかにして、雇い主を満足させる美味しい料理を作る。ある雇い主には「いつもの発泡酒でいつものグラスなのになんか泡立ちが違う!」と絶叫させてしまうほどの実力の持ち主なのだ(きっと里がいれれば、インスタントコーヒーだって美味しいに違いない)。その仕事ぶりの描写は、熟練の職人の無駄のないワザを見るときのように、読んでいて気持ちがいい。

 シリーズ最初の単行本『放浪(さすらい)の家政婦さん』では、里の派遣先は、多感な時期の女の子のいる父子家庭、そして古くて大きな家に住む小説家と雑誌編集者という共働きの新婚家庭、さらに、里の出自や故郷のお話が描かれた。2冊目の本作『ピリ辛の家政婦さん』では、崖っぷちポジションの一人暮らしの女性脚本家、突然妻を亡くして幼い子どもとのふたり暮らしのサラリーマン、そして、自分勝手な5人のクリエイターの共同生活の場「イヤサカ荘」など、さまざまなタイプの生活の場に赴く。

 興味深いのが、一般的にはまだまだ「女の仕事」とされている家事を生業とする、里の容姿だ。「有能な家政婦さんと言ったときに連想するような小柄でほんわかしたイメージとは正反対のかなりの長身、そして作中で何度も「ブス」だと言われる容貌。家事が超絶うまい若い女性……というのは間違いなく「モテる」存在だろうが、デカくて(男を威圧する)ブスな女が、モテるはずがない。作中の雇い主たちのそんな思いこみ(それはたぶん、多くの読者の思いこみでもある)は、里自身に言葉で否定され、やがて物語がすすむにつれ明かされていく里の魅力によって、説得力をもって覆されていくのだ。「この人はモテるわ」と。その魅力はなんなのだろうか?

 家事能力は抜群の里だが、技術以外で彼女のもっとも「家政婦らしからぬ」ところは、あるときは意図的に、あるときは期せずして、それぞれの家庭や場が抱える問題点を暴き、そしてそれを変化させてしまうところかもしれない。
 現実的には、家政婦さんは雇い主の問題には立ち入らないのがよしとされるだろうが、里は、観察力と本質をついてしまう性格、そして家政婦としての技術の高さで、生活の場に(雇い主は隠しているつもりで)実はあらわれてしまっている住人の悩みや本性をあぶり出し、そこを痛烈につく。そして、本人さえ無自覚だった隠れた願望を高い技術で満たし、そのことによって雇い主は変化していく。
 派遣先の女性脚本家・五十鈴の家で、ブスである自分はモテる、という里。どうしてブスがモテるかわかりますか? と問いかける里に「男が自信持てるから」と五十鈴は即答するが、里の作った食事を口にして「里さんがモテるのはブスだからじゃないと思う」と五十鈴は思うようになる。読者である私も、相手が欲しているところをピンポイントで見抜いて、それを満たす美味しい料理を、日用食もよそいき食も臨機応変に作る里の仕事ぶりは、相手をきちんと見てないとできないことで、「これって……すごい深いコミュニケーションだよなぁ。てゆーか、料理を通してある意味、口説いてるようなものだよねぇ」と思ってしまったのだった。こんなコミュニケーションができる人なら、そりゃあモテるでしょう、と思わせてくれるのだ。

 「パースシュー」という話では、妻が突然事故で亡くなり、慣れない育児と仕事、そして妻を亡くした喪失感にいらだつ修の家庭が描かれる。里は規則正しく食事を作り、やや強引に、幼い息子と一緒に食卓を囲むように修に促す。食事も着替えもいやがっていた息子の宝は、里が来てからはちゃんと新しい服を着るし、食事もとり始める。作品終盤で、里による宝の変貌の「種明かし」がなされるが、大人のように言葉で自己主張できない幼い子ども・宝が何をいやがり何が好きなのかを、里は観察して読み取り、そして技術で生活を円滑にすすめられるようにしていくのだ。
 大上段から「家族の生活を支える家事は、大事なお仕事です」と言われると「あぁん?説教聞きたくねぇんだよ」と思春期みたいな反発心が発動する面倒くさい性格の私でも、本作を読むと、「なんか、家事能力って、幸せになるための地道だけど素敵な魔法みたいだよなあ……」なんて素直に思えてくる。
 いやもちろん、料理を頂点として、たしかに家事は、健康な生活を維持すると同時に、「家族をつなぐ」大事な行為だということは、私もよくわかっているつもりだ。でも、家事にまつわるもろもろが 、愛情にもとづく「義務」(しかも「女の義務」)になった瞬間に、心身共に重く「のしかかる」部分が出てくるような気がしてしまうのだ。
 まずいったん家事を、「ただの技術じゃねえかこんなもん」と桑田佳祐ふうにクールに突き放してから、
「でも、その“ただの技術”って、けっこうスゲーんだよね」
って話になると、心にすんなり落ちるのだが……。
 って、面倒くさいこと言ってすみません。えーつまり、「“家事”にまつわるいろいろ面倒くさい(=女が担当するべき、愛に基づいたオシゴト)という幻想を、まずはいったんリセットしたいんです!」ってことなのだ(←いや、フワッとした感じなのに、妙に強力な幻想なんですよコレ)。
 里の物語は、人を幸せにする「家事」の技術を大きくクローズアップしつつも、里が「家政婦」という、“技術を提供して金銭の対価が支払われる他人”であることによって、「家事って幸せの基本の技術だよ?」と気づかせてくれつつも、家事が「すべき」義務というよりは、人の生活を支える平凡でありきたりで、でもスペシャルで大事で、しかもけっこうやりようによっちゃカッコよかったりさえすることなんだよ、と思わせてくれるところが好きなのだ。

 さて、家政婦・里の「家政婦らしからぬ」ところはもうひとつあって、それは彼女が雇い主としばしば、恋愛っぽい関係になっちゃったりするところだ(しかも、その相手の性別は問わない!)。
 男性っぽさと女性っぽさを兼ね備えたボーダーレスな存在の里は、たぐいまれな家事能力という、幸せになるための強力な技術をもっている。そんな彼女が織りなす物語、面白くないわけがない。ただし、人の本質を見抜く里は、いわば「苦い良薬」みたいな存在。そして、里の性格はやや「ピリ辛」だ。その点、ちょっぴり覚悟してから、ぜひ、手に取ってみて欲しい。



(川原和子)  

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