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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第79回 『I(アイ)』 いがらしみきお(小学館)

『I(アイ)』 いがらしみきお(小学館)

(C)いがらしみきお/小学館

 人間の存在そのものを問う、と言う。作者・いがらしみきおは、とんでもない場所にまで来てしまったと評される。渾身作と帯の惹句に書かれる。「幼い頃からずっと考えてきた、生と死のこと。命の意味。その先にある“答え”を、今なら描ける気がする」という作者自らの言葉が添えられる――

 大仰ともとれるこれらの言葉に偽りはないと思う。その通りの作品である。まだ単行本一巻が刊行されたばかり、「物語」の全容は見えていない。だが、ただならぬ作品であることはわかる。異様、と言ってもいいだろう。

 舞台は東北の田舎町だ。主人公の高校受験の年が昭和44年と書かれているのは、作者と同年ということだろう(いがらしみきおは1955年1月の早生まれである)。
 物語の中心にいるのは、少年二人だ。語り手でもある主人公、鹿野雅彦と、不可思議な能力を持つ、異様な風体の子供、イサオである。イサオは生まれ落ちたときに母を亡くし、母の死体かの股から見た記憶を持つ。そんな彼は、自分の身体から意識だけを遊離させたり、相手の意識を自分に宿らせたりすることができる。
 雅彦が医者の息子として何不自由なく育った品行方正な少年であるのに対し、醜い身体を持つイサオは、まるで浮浪児のような生活を送る。そして、イサオの周りには、彼を苛めた子供たちや、老人たちの死があった。その死はまるで、イサオが誘ったかのようであった。一方、自分の存在が世界に投げ出されているという、まさに実存的な孤独について考え続ける内省的な少年である雅彦は、高校受験に向かう駅前でイサオの姿を認め、「イサオはオレを迎えに来たのだろう」と直感し、二人で旅に出てしまう。イサオが「トモイ」と呼ぶ神様を探す旅にである。「トモイ」とは、生まれ落ちたときにイサオが庭の木の陰で見た、金色に光って笑っていた「もの」だ。
 もちろん、旅の目的地はわからない。一歩退いて見ればあてどのない家出である。その放浪の途上でも、イサオは不思議な能力を発揮し、ある場所では教祖のように祭り上げられる。だがそこでも、彼の周りには人死にが起きる。それはイサオが殺したようでもある。イサオは言う。神様は「誰も見でねえどごさ いだど。」と。

 本作は要約を拒む。作中のエピソードは個々に緊密な関係を持っているが、通常私たちが考えるような因果関係をそこに見出すのは難しい。偶然のように見える出来事が、すべてあらかじめ必然を与えられているかのように思わされる。それは人智を超えたもの、超自然的なものの存在を滲ませている。たとえば、いったんイサオと別れた雅彦が再びイサオと出会うくだり。イサオの存在を感じ、心のうちに浮かんだイサオの言葉「見ればそうなる。」に導かれ、「見たほうへ 見たほうへ」歩いた結果、果たしてイサオは待っていたのである。

 神秘主義的、あるいはオカルト的、と言われることと思う。確かに「神」といったものに、あるいは自己や世界といったものに正面から取り組む以上、それは「信仰」の色彩を帯びる。しかし特筆すべきは、少なくとも語り手である雅彦とイサオの間には、既存の宗教の匂いが一切しない、ということである。キリスト教も仏教も、ほかの新興宗教も、おそらく何ら参照されていない。また、ここで語られている言葉や物語を、つまり作品自体をある種の「教義」とするような読み方も拒んでいるかのように見える。その意味では、アーティストがDIY的に編み出した教義である、いわばアウトサイダーアート的な宗教――たとえば、ゾス・キア・カルタスのような?――とは、接点はあるかもしれないが、別種のものであるかのように思える。

 不穏なマンガではある。緊張感もある。だが、単行本二巻以降に収録されるであろう、雅彦がイサオと別れ、ヤマギシズムをモデルにしたかのようなカルト的なコミュニティで暮らすエピソードの強迫的なトーンと比べると、この一巻後半の、イサオと雅彦が共に歩むくだりには、世界の深淵を覗くような、自身の存在の無根拠さを突きつけるようなものでありながら、不思議と「怖さ」が感じられない。それは、ひとが「見る」前に暗闇があり、そこに神がいるのだということも、あたかも当たり前のように描かれているからではないか。そう、私は感じた。

 もっとも、これはひとによって感想は異なると思う。『ガンジョリ』や『Sink』のような同じ作者によるホラー作品の延長でとらえる読者もいると思う。それはそれでいいだろう。
 しかし、すでに30年以上となる作者のキャリアを通してみると、初期の、下品かつ過激と評された四コマギャグマンガや、2年の休筆の後はじめられ、25年間続く動物四コマの『ぼのぼの』も、一貫して「同じこと」を描き続けているのではないかと思えてくる。『ぼのぼの』がよく「哲学的」と評されるのは周知のとおりだろう。それだけでなく、常識や意味を脱臼させるようなギャグマンガが多く描かれているからだ。とりわけ、休筆前後の作品にそれは顕著である。
 たとえば、1986年の『BUGがでる』の一編はこうだ。『42,195キロ』と題された、3ページにわたる24コママンガは、最初のコマにランナーが走る様子を真横からとらえ、以降、22コマの間、同じ構図の街角を描いたコマを並べる。そして最後のコマに、最初とは逆の方向から、汗だくになったランナーが走ってくるさまを描く。それだけである。マラソンの間、ランナーの見ていない場所を見続ける視点だけが置かれているのだ。
 通常の物語の視点であれば、ランナーに寄り添って移動するだろう。彼が走り去った後の、ただの街路をずっと見続けるという視点はほぼ有り得ない。だからギャグになる。作品世界の誰一人、とは言い難いかもしれないが、やはり「見ていない」場所を見続けるという感覚は、すでにこの時点からあったのである。

(伊藤剛)

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