おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』
第67回 『忘却のクレイドル』 藤野もやむ (マッグガーデン)既刊3巻
(C)藤野もやむ/マッグガーデン
可愛らしい絵柄がまず目を引く作風である。描線は繊細で、いわゆる「萌え絵」の範疇に入るスタイルである。しかし、これを「萌え絵」と呼ぶには若干の抵抗がある。女の子も男の子も、みな可愛い。だが温度が低いというか、常に孤独な影をまとっているというか、ひとりひとりのキャラに寂寥感が感じられるのだ。それは主題のレヴェルにも言える。『はこぶね白書』を紹介したとき、ぼくは「おそろしい」と書いた。不穏な印象を強調した。今作『忘却のクレイドル』は、その不穏さがまさに前面化している。今度は明確に「孤児」の物語である。この強烈な孤独感、言及を拒むかのような強い寂しさは一体なんだ。
主人公たちは15歳の少年少女。主に男の子である。彼らは「揺篭島」と呼ばれる孤島に集められ、寄宿舎生活をしながら軍事訓練のような「特殊訓練」を受けさせられる。彼らの「国」(日本と思われるが明言されていない)は国際的な緊張下、ある種の徴兵としてこの訓練を15歳以上の男女に課している。だが、主人公・カヅキたちのグループの訓練は、むしろ「生ぬるい」ものに終始している。一方、身寄りのない者だけが集められたらしい彼らには、正体不明の「注射」が施されている。
冒頭から、読者である私たちは、主人公たちとともに、全容のわからない、ひどく見通しの悪い世界に放り出される。彼らの「国」は戦争をしているらしいが、その様子はほとんど伝えられない。孤児院の延長のような不自由な寄宿生活が続き、そして、ある朝カヅキが目覚めると、揺篭島は廃墟と化しており、30年という時間が経っている。そこに現れた謎めいた口のきけない少女により、彼らの「国」が戦争に負けたこと、彼らが冷凍睡眠下にあったこと、揺篭島が放棄されたらしいことがどうにか伝えられる。以降、少年たちは、廃墟と化した島でサヴァイヴすることとなる。
いまぼくは、うっかり「サヴァイヴ」と書いた。たしかにそれは一面そうなのだが、急いで付け加えておかなければならないことがある。それはカヅキたちがどうやら「死ねない」らしいということだ。カヅキたちのグループは、先にこの島に連れて来られたグループと闘争状態となり、互いに傷つけあう。だが、身体の傷はみるみるうちに治癒してしまう。彼らは生体兵器として改造を施され、この島に放棄されたらしいというのだ。改造の副作用なのか、彼らはときに「暴走」し、我を忘れて周囲の者を激しく傷つけたりもする。
シリアスな設定である。戦争という状況下、少年たちが孤島でサヴァイヴするなかで権力闘争を繰り広げるという点は、あたかもゴールディングの『蠅の王』のようでもある。だが、『蠅の王』の少年たちは最後に本国・英国の軍隊に救出される。それまでの凄惨な事件をみな児戯めいたものとする修辞も置かれる。解釈は分かれるところと思うが、それなりの救済とみることはできるだろう。しかし『忘却のクレイドル』では、もはや「本国」が存在するかどうかも分からず、そもそもカヅキたちはすでに「人間」ではないかもしれない。もしかすると彼らの身体は生長もしないかもしれない。そんな環境のもと、それぞれがそれぞれに記憶の欠損やトラウマを抱え、それと向き合うことが強いられている。まさに孤児の、孤児のための物語だ。
連載は進行中である。この先も注目し続けることにしよう(そうせざるを得ない)。この小文では、カヅキたち少年の関係性や、そこに微かに生まれる物語には、あえて言及しないことにした。なぜなら、そこが最大の「ネタバレ」であるような気がしたから。カヅキたちのひとりひとりの個性や、それぞれに抱える物語について触れないのも同じ理由だ。
いや、これは単に言い訳だ。そこに無造作に踏み込むこと、言葉で切り込むことに、ぼくは躊躇している。評者にあるまじきこんな態度をいぶかしく思ったなら、ぜひとも現物を手に取っていただきたい。それだけの「ちから」のある作品だと思っている。
(伊藤剛)