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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第48回 『ツレはパパ2年生』 細川貂々 (朝日新聞出版)

ツレはパパ2年生 細川貂々 表紙

(C)細川貂々/朝日新聞出版

 身の回りのことをマンガで描くエッセイコミックというジャンルがある。その中でも、育児マンガというのは人気のある題材である。私には子どもがいないのだが、育児エッセイコミックは好きな方だ。いま母親になっている人たちは、好むと好まざるとに関わらず、自分たちの母親世代とはまったく違う時代背景のなかで育って、全然違う環境での出産・育児をしている。そんな、「同じ時代の空気を吸って生きてる、マンガ家という<働く女の人>」にとって、 出産・育児はどういうことなのかを、「表現のプロ」が描いているのが、育児マンガなのだ。当然、作品として面白いものも多く、それらはたくさんのことを教えてくれる。

 今回とりあげるのは、夫のうつ病体験を描いた『ツレがうつになりまして。』(細川貂々・幻冬舎)で注目を集めた作者が、妻38歳、夫43歳にして思いがけず息子が生まれてからの、育児の悪戦苦闘を描いた作品だ。息子の「ちーと君」誕生から7カ月までが『ツレはパパ1年生』(朝日新聞出版)という単行本に納められていて、8カ月から1歳半までの日々が綴られているのが『ツレはパパ2年生』だ。

 本作には大きな特徴が2つある。
 1つは、妻の細川さんのマンガと、夫・「ツレ」さんのエッセイ、という双方の視点から、育児が語られること。
 そしてもう1つは、日本の多くの家庭の主流である「夫は仕事、妻は家事・育児」という役割分担が、細川・ツレ夫妻では逆転していることだ。「ツレ」さんがうつ病になって会社を辞めてからは、仕事で経済面を支えるのは妻、家事は夫の「ツレ」さん、という役割分担になっていた2人だが、子どもができてからはツレさんが「子育て専業パパ」になったのだ。
 8ヵ月で息子がハイハイで後追いするのは、ママではなくパパだ。ツレさんの姿がちょっとでも見えないと大泣きする息子を妻があやしても、「オマエじゃない」とばかりに泣きやまない。9ヵ月でまだしゃべれない息子の行動を「散歩につれていけって言ってるんだよ」と読み取るツレさんに、妻が「すごいっ」と言うと、「すごくないよ 1日中一緒に生活してればわかるよ」、「ゴハンだけあげて大変だーって言ってる人にはわからないよ」と冷たく言うツレさん。1歳をすぎると息子はママにも甘えてくるようになるが、やっぱりパパが一番。ツレさんの姿が見えないと大泣きし、なだめようと細川さんが話しかけるとたたいてくる息子。しょーがない、と妻は息子を泣かせておいて雑誌を読んでたら、どうしてちゃんとなだめないんだとツレさんは激怒する。翌日、ツレさんからそれは育児放棄だと言われて、とまどいつつも反省する妻なのだった。
 しゃべれない息子の行動の意味を読み取り、「1日中コドモと一緒だからストレスたまる!!」と言いながらも「でもこのコはボクがいなくなったら大泣きする かわいそう」と息子と離れられなかったり、自分がいないときに息子が泣いたらあやすのを早々にあきらめるお手伝いモードの妻に、ときに激怒する。そんなツレさんの言動は、なんだか世の中の「育児中のお母さん」と重なって見える。日本では「育児はお母さんの仕事」という強い固定観念があり(なにしろ「おかあさんといっしょ」という超ロングラン子ども番組がある国だ)、私自身にもそれは無意識に、だが強力に植え付けられている。でも、男性であるツレさんの「お母さん」化している姿に、「そうか、『お母さん』的行動は、女の人の特徴というより、ひょっとしたら男女関係なく、責任者として育児することによって身につけていく能力なのかもなぁ」と気づかされた。

 ツレさんのつぶやきコラム、「育児専業のいじけ気分」の中には、こんな指摘がある。「(略)本当のところ彼女は、僕にとって何がタイヘンなのかよくわかっていないかもと思う。それは、なんというかいつでもコドモを自分の手の届くところにキープして、あたかも『素肌感覚で温めて』いなければならないような緊張感と、そこから逃げることができないことだろうか。」(P.73)

 この指摘は、「目を離すと(最悪の場合)死んでしまうかもしれない弱いイキモノ」を、責任もって育てている育児パーソンにかかってくる、独特のプレッシャーのキツさ、しんどさの核心が、かなり的確に言語化されているのでは、という気がした。私には育児経験はないが、学校卒業後の2年あまりのあいだ、幼稚園教諭をしていたことがある。
 そのころは保育中はいつでも、「目の前のことに集中しつつも、常にもし何か不慮のことがあったら、即座にとんでいけるように身構えている」ような、いわば「つねに中腰」的な緊張感が続く感覚があった。あるいは「ツレ」さんの言う「育児を任されたタイヘンさ」は、そんな感覚にちょっと近いのかもしれない。
 仕事の場合は、職場を離れれば一応スイッチはオフにできるけれど、家庭ではそうはいかない。なにしろ小さなコドモは、危機管理能力は皆無に近いのに、好奇心だけは旺盛。何をやらかすかわからないくせに自己主張だけはする「いのち」。とてもかわいいけれど、赤ちゃんや子どもにはそういう一面があり、しかも「いのちは、待ったなし」なのだ。

 作者の絵柄はシンプルでかわいいけれど、息子の「ちーと君」は、かなり意志を感じる顔立ちに描かれていて、「かわいらしく無垢なコドモ」というよりは、「体はまだ小さいし、しゃべることはできないけど、主張のはっきりしたイキモノ」という印象を受ける。そんな息子に、育児初心者の両親はふりまわされるけれど、自分たちの親をはじめいろんな人に助けてもらいながら日々発見をしていくのだ。

 また、ツレさんの「社会との距離感」(p.135)というコラムでは、触感や嗅覚に頼る育児の現場で日々格闘していると、気づくと社会生活からすっかり疎くなっていて、「本当は僕だって一人立ちした大人なのにな、とそんなことを思って落ち込むこともある。」といった心情が語られる。前出の「育児専業のいじけ気分」(p.73)というコラムでは、相棒が「育児を手伝う」という楽なポジションに退きながら、仕事で社会の前面に出て「自分でコドモを持つまではわからなかったけど、今ではコドモって本当にカワイイって思いますぅ〜」とインタビューで答えるのを見ていじけるツレさんの気持ちが書かれていて、私は子どももいないのに、「ああ〜、なるほど、そうだろうな」と思うのだった。
 もし私が育児パーソンだったら、家庭で日々家事と育児にフル回転しているのに、個人の時間が全然ない自分にふと「私って何?」と、社会からおいていかれるような不安に落ち込むこともあるだろうし、相棒がお手伝いポジションなのにも関わらず、外では「コドモってカワイイですよ」とか言う姿を見れば、「おいおい、美味しいとこどりかい!」とツッコみたくなるかも、とも思うのだ。
 でも一方で、ツレさんに怒られてとまどいながらも反省する、妻でママの細川さんの姿には、「そうか、世の中の、仕事でていっぱいのパパのとまどいって、こういうものなのかもなあ」とも気づかされたのだった。
 これがもしパパの姿で描かれていると、一応女のはしくれで、かつ頭の固い私は、自分は育児したこともないのに、「1日中育児に追われる妻が入浴する十数分間すら、なぜ子どもの面倒を見ないで雑誌を読むんだぁ!」、「フン、男っていい気なもんだ」とプンプン怒ったかもしれない。でも女性である細川さんが、一家の経済を支えるために必死にガンバりつつ、自分なりに育児に関わっても、つい行き届かず、育児放棄! とツレさんにキレられる姿には、もし自分も細川さんのような「パパ」的立場だったら「自分なら、もっとヒドいかもなぁ……」と、まるで自分がツレさんに怒られているような気分でうなだれてしまったりもした。
 一般的な役割分担と逆転した形で育児をしている細川・ツレ夫妻の育児の様子は、固定観念をはずして「もし自分だったら」と考える視点を与えてくれたのだった。

 本作の冒頭では、コドモが生まれる前に夫婦でつくった「誰にも頼らずふたりで育児をする」という決まりは、やってみるととてもムリだった、と語られる。「男らしい」分野ではうまく行かなくても「女らしい」分野では「けっこういい線行ってるかも」と思っていたツレさんの高い家事能力をもってしても、育児は余裕をうばってしまうキツい「仕事」だったようだ。
 あとがきでツレさんは「1人の人間を育てることは、1人の人間では足りないんです〜。」と言い、だから周囲の人に手伝ってもらうことにし、「頭を下げて他人にお願いする」という能力が育った、というのだ。
 育児という仕事は、なんだかとっても大変そうでもあるけれど、ツレさんが言うように、コドモには「コドモこそ希望だ」と思わせるエネルギーに充ち満ちている。だって当たり前だけど、ぐんぐん大きくなっていくのだし(大人が大きくなるのは腹回りぐらいだ)、すべてのことが「新しく出会うこと」である赤ちゃんには、未来しかないのだ。それはやっぱり、当たり前にして、そうとう、すごいことだということにも、本作は改めて気づかせてくれた。

 尚、本作は、AERA-netにて「ツレはパパ1年生」として連載中。(http://www.aera-net.jp/magazine/papa1st/)週に1回、保育園に通うようになったり、と、その後の生活もここで読めるのも嬉しい。ツレさんのエッセイは、単行本だけのお楽しみである。

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