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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第44回 『麻酔科医 ハナ』 なかお白亜・監修:松本克平 (双葉社)

麻酔科医 ハナ 表紙

(C)なかお白亜・監修:松本克平/双葉社

 「専門職もの」は、青年誌では手堅く読者をつかめるジャンルである。とくに「医師もの」は、「グルメもの」と並んでヒット作を生んでいる。『麻酔科医 ハナ』は、そんなポジションのマンガだ。だが手堅く「売り」に行っているというよりは、マンガとしていくぶん危なっかしい印象がある。逆にそこに好感が持てるという、ちょっと不思議な作品だと思う。

 とはいっても、2009年8月に第2巻が刊行、前年刊の第1巻も版を重ねている。やはり「手堅く」読まれているようだ。タイトルの通り、若い麻酔科医の女性を主人公にした物語だ。
 セオリー通りマンガレビューを書くのなら、1巻の帯のアオリ文句(Q.年収3500万でもやりたくない仕事ってナニ? A.麻酔科医)を引き、現実の日本社会で麻酔科医の人手が不足していること、激務で責任が重い仕事であるわりに世間的な認知度が低いことなどの「社会的問題」をあげ、そんな環境のなかにあって、それでも明るさを失わず、自分の仕事に誇りを持とうとする主人公の姿に打たれる・・・・・・ とまとめられる。

 もうひとつ、麻酔科医という仕事の描写上のディテールは特筆に値するだろう。巻末のあとがきなどを読むと、作者・なかお白亜は麻酔科の仕事に携わっていた人物であると思われる。監修の医師をはじめ、取材協力の医師たちへの謝辞の書きっぷりから、元・麻酔科医かどうかはともかく(元医師であったかどうかは明言されていない)、業界の人間だったことは間違いないだろう。そんな経験に裏打ちされたと思しき具体的な細かさが、ウンチクものとしての魅力をもたらしている。たとえば執刀医が汗っかきだと、冷房をガンガンに効かすので、患者さんの体温管理がたいへんになるとか、ついでに無影灯の当たらない脇に控えている麻酔科医は寒くてしょうがないとか、そういったリアルでトリビアルな描写だ。

 こうした細かいディテールというか、薬や器具の名前などの固有名詞に反応するのは、単に私の好みであるが(私ときたら、「筋弛緩剤」と書いて「ベクロニウムブロマイド」とルビが振られているだけでツボに入ってしまうのである)。
 なじみのない世界のことを解説される退屈さと紙一重とはいえ、未知のものを知る快楽に支えられたウンチクの面白さ自体は一般的なところなので、ちょっと過剰なくらいの「ウンチク」を本作の魅力としてカウントしても許されると思う。
 それだけでなく、単に披瀝されるネタを前に「へえ」と思うだけでなく、作者の、麻酔科医の世界をちょっとでも知ってもらいたいというか、自分の知識を読者に伝えたいという純粋な衝動のようなものを感じて、微笑ましいというか、なんだか嬉しくなる。
 実のところ、私が先に「危なっかしい」と書いたのは、この「嬉しくなる」ような感覚と、語り口のブレがあいまってのことだ。語り口のブレとは、麻酔科医の世界を知らしめようと、ナレーションでの解説に力が入るあまり、主人公たちの心情に寄り添う「読み」を妨げているといった点で指摘できる。具体的には、たとえば主人公たちの視点で書かれるならば、麻酔科医は「私たち」であるはずなのに、ナレーションでは「彼ら」と書かれるといったことだ。マンガのエンターテインメント的な技術という観点から見れば、瑕疵(かし)と言っていいかもしれない。だが、そうした生硬な不器用さも含めて、私は本作に好感を持つ。

 もっとも、第2巻になり新キャラが投入されて以降は、そうした生硬さはぐっと影をひそめる。主人公をはじめ、登場人物たちがぐっと「生きて」くるのだ。ちゃんと生活と日常と内面を持った「人物」として立ちあがってくる。普通にドラマに没入でき、登場人物たちの気持ちに寄り添うことで、職場環境の困難さや、仕事のきつさ、何よりも命をダイレクトに預かるがゆえに、果敢なチャレンジや派手なプレイではなく、何事もなく無事に済ますことが要求される職種であることがじっくりと伝わる。そして、その重さを正面から受け止めるだけでなく、いたずらに深刻になってしまうのではなく、まさに「日常」の業務としてどう「こなす」かという知恵までもが描かれる。その意味では、第2巻は第1巻よりもずっと深い。その「深さ」は、また「メジャー感」でもある。

 だが、そうしたドラマへの没入と登場人物への好感とは別の水準で、第1巻のぎこちない生硬さを経てはじめてもたらされた好もしさがある。本作がこれからそこへ戻ることはないだろう(不可能だろう)。いま一巻を振り返って感じられる好もしさとは、事実の重さの前にエンターテインメントになりきってしまうことへの作者の真面目さゆえの逡巡に由来するものかもしれない。(伊藤剛)

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