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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第35回 『トーキョー無職日記』 トリバタケハルノブ (飛鳥新社)

トーキョー無職日記 表紙

(C)トリバタケハルノブ/飛鳥新社

 人間って、最低、なにがあれば生きていけるものなんだろう?
 ただ通常の生活を送ってるだけのつもりでも、いつのまにかたくさんのモノと情報に囲まれてしまうのが、現代の生活だ。整理ベタの私などは、「どれが必要でどれが不要か」という判断基準がしょっちゅうあいまいになっていろんなものを溢れさせてしまうのだが、『トーキョー無職日記』を読んで、ふとそんな疑問がよぎった。

 生きるのにどうしても必要なものって、なんだろう?

 元はウェブで公開された、四コママンガ形式の本作は、大学中退、職なし、彼女なしのトリタニハルオ(23)が主人公。4年籍をおいた大学を卒業できず、マンガ家になる、という半ば口実の夢を抱いて地方から上京し、カーテンすらないアパートの一室で両親に借りたお金で暮らしている。そんな彼は、子供のころから「嫌なことからずっと逃げ続けた」らこうなった、と自覚している。一念発起して上京したものの、肝心のマンガも描かず、現実逃避のネットとゲームの日々。

 そんなハルオはかつて、高校受験に失敗して入った男子校で、いまいち周囲になじめないながらも、やがて唯一気の合う友達・イマダ君と仲良くなる。いつも一人でいるイマダ君とは、好きな服や音楽、そして「マンガ家になりたい」という淡い夢についてもつつみ隠さずに話すことができたのだ。「高校卒業したら一緒に東京行こ!」と言ってくれたイマダ君に、「ずっとこんな友だちが欲しかった・・・」と感激するハルオ。
 だがいざとなると、保険をかけるように大学の推薦入学の道を選んでしまうハルオは、やりたいことを実現するために上京して専門学校に行く、というイマダ君とは道が分かれてしまうのだった。そうやって入った大学も、結局行かなくなってしまい、ひきこもった乱雑な部屋のどん底の中での自問自答の末、やっと見つけたハルオの「やりたいこと」。それが、マンガを描くことだったのだ。

 己の才能と努力で勝負する専門学校への進学ではなく、「無難」な大学への進学を選んだハルオだが、結局、あまりのつまらなさに学校へも行かなくなる。衣食住に不自由してるわけでもなく、高校大学と私立へ行かせてくれた両親にも申し訳ない、と自分を責めるハルオ。
 本人にハッキリとその自覚はないのかもしれないが、周囲にあわせて生きる、ということのみに心をくだいていた時代のハルオは、激しい「嫌なこと」もないかわりに、特別「楽しいこと」もない生活に、心底疲れ切っていたのだろう。大学生の若さで、彼はこう思うのだ。

「おれの人生の楽しい時間ってもう終ったんだ・・・」

 もっとも、もう後がない、という自覚をもって上京した割にハルオは、熱血少年マンガの主人公のように、「マンガ家になる」という目標目がけて、うぉーと努力を積み重ねるわけでもない。そんな彼だが、ネットで知り合った人との縁でホームページを作り、旧友のイマダ君の紹介でバイトをはじめ、必要にせまられてスキルを身につけ、やがてマンガを描くチャンスまで転がり込んでくる、という、ある意味でとてもラッキーな展開をとげていくのだ。
 あとがきによると、本作は「実話を元にしたフィクション」だそうだが、読者からは、この作品に出てくるひとはみんなハルオに優しすぎるし、良い出会いに恵まれすぎだ、という意見もあったそうだ。
 でも、作者は、これは「僕の身に実際に起こったことに近い」と言う。行きつ戻りつしながらも、いろんな人との出会いによってハルオは変わり、そのことによって周りの状況が変わっていったのだ、と。

 私自身、「夢を抱いて目標に向かって一直線!」というわけではなくて、脈絡の(一見)よくわからない、行き当たりばったりに近い転職人生を歩んできたので、ハルオの「じたばたしながら、なんとかなっていく」人生には「うん。意外とそういうものだよね」とも思うのだ。
 たとえものすごい才能があるわけではなくても(ハルオの作品も見てくれた人には「わりとよくある絵」と言われてしまう)、ときに周囲の人をあきれされるくらいダメな部分があったとしても、自分なりにベストを尽くしつつ誠実に人の間で生きていれば、叱られつつもフォローしてもらえたり、意外な機会をもらえて、前に進んで行けたりする。
 それは、ひとり部屋にこもって「自分はすべてダメなところだらけだ」という自己嫌悪のループに沈んでいるだけでは、決して起こらない、一見ささやかで、ひょっとしたらみっともなくもあるかもしれないけれど、でもとても贅沢で大切な前進なのだ、と思うのだ。

 ところで、本作で何度か描かれる、ハルオの「どん底」は、「食うに困る恐怖」「飢える恐怖」というよりは、

「このままじゃいけないこと<だけ>はわかるのに、どうしていいかはわからない」

という、手がかりのない泥沼になすすべもなく沈んでいくような形で表現されている。
「このままじゃ、ご飯が食べられない!」というリアルに身体的な飢えへの恐怖、というよりは、精神を含むある種観念的な、バーチャルな暗闇から抜け出せない、というような恐怖。
 それを「豊かな時代の甘え」と断じるのは簡単なことだけれど、その一見わかりづらい、どこか漠然とした自意識の泥沼から出られない苦しみを生きる若い人は、実は少なくないのではないだろうか。そして、その苦しみは、身体的な飢えとはまた別種の、切実な辛さをもつものだろうとも思うのだ。
 そんなハルオが、ちょっとずつ増えていく縁を通して少しずつ前に進んでいく様子を描いたこの作品からは、人が生きていく上で必要なものが浮かび上がってくるような気がした。
 もちろん、生きていくのに、最低限の衣食住は必要だろう。でも、それが満たされていた頃から、ハルオは生きる意欲を失っていたのだ。不器用に格闘するハルオの姿を通して見えてきた、人が最低限のやる気をもって生きていくうえで必要なこと。
 それはたぶん、人間関係と、自分が社会につながっている手応えとしてのスキルや場所(たとえば仕事、たとえば職場)、なのかもしれない。
 周囲の人への嫉妬や自分の状況への激しい焦りや絶望、そして失敗もつつみ隠さず描いている本作は、ハルオがひとつひとつの関係やスキルを不器用に獲得していく様の記録のようでもある。

 すごくなくても、行きつ戻りつでも、ダイジョーブ。
 この世界は、それほど悪いことばかり起こるわけじゃない。
 どん底の苦悩や狭い世界の中での嫉妬まで描きつつも、だからこそ、これは、私を含めた、世の中へ踏み出すことにちょっと足がすくんでしまうことがある人を、そんな気持ちにさせてくれる作品なのだ。(川原和子)

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