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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第29回 『坂道のアポロン』 小玉ユキ (小学館)

坂道のアポロン 表紙

(C) 小玉ユキ/小学館

 みずみずしく、爽快な印象のある作品だ。
 マンガ読みには文芸的な掌編で知られた小玉ユキの、はじめての長編連載になるであろう本作は、スマッシュヒットの予感を漂わせている。これから年末にかけて出される年間マンガベスト企画でも、本作をあげたひとは少なくないと思う。

 主人公・西見薫は横須賀から坂の上の高校に転校してくる。坂の多い海辺の田舎町(単行本の解説には「地方」としか書かれていない)を舞台にした、恋と音楽と友情の物語だ。
 やせっぽちで、優等生然とした風貌の転校生の薫と、対照的にガタイがよく、いかにもバンカラな不良っぽさを漂わせている川渕千太郎。そして千太郎の幼なじみで委員長の迎律子と、海辺で偶然に出会った上級生の美少女、深堀百合香。このキャラクター配置だけでも、真正面から「青春」を描きますよと宣言している感じだ。

 「友情」を担う二人の少年の出会いからして、まず鮮烈だ。
 薫は、幼いころから転校を繰り返してきた。そのせいか、精神的なストレスからすぐに吐く癖がついていた。物語の冒頭、転校生である自分を迎える生徒たちの好奇に満ちた視線や、聞き慣れない方言に、彼は吐き気をもよおす。そして、学校のなかで唯一息のつける場所である屋上に駆け上がり、彼はそこで千太郎と思いがけず出会う。
 ここで細かくその様子を記してしまい、あらためて読むときの楽しみを減らしてはいけないので詳細は書かずにおくが、日常の一瞬であることからは離れず、あたかも現実から一瞬だけ浮遊したようなふうである。清潔な爽やかさを漂わせながら、ひどくエロティックでもある。

 先に「恋と音楽と友情の話」と書いた。
 このマンガでは、薫の律子への思いと、千太郎の百合香への思い、そして律子の千太郎への思いという、交錯する三つの恋心が描かれる。薫が自分の思いを遂げるには、律子の千太郎への思いが断念されなければならず、薫は葛藤する(一方、千太郎は幼なじみが持つ自分への恋心に気づいていないようだ)。現在のところ、恋愛が成就するまでの片思い状態が中心ということもあり、彼らの恋は、切なくもどかしい。いじらしいほどだ。

 このマンガはまた、音楽の話でもある。
 千太郎はジャズバンドでドラムを叩き、「俺には ジャズだけが 音楽ばい」と言う。子供のころからクラシックピアノを弾いてきた薫は、千太郎が叩くドラムに魅了され、律子の父と、千太郎が「淳兄(じゅんにい)」と慕う大学生・淳一とで演っているジャズ・セッションに加わることになる。
 千太郎は、お坊ちゃん然とした薫のことを「ボン」と呼び、豪放磊落に振る舞う。孤独な少年だった薫は、不良と目され、実は孤独を抱えていた千太郎とのセッションを通じ、ジャズの楽しさと、かけがえのない友情を育んでいく。

 以上、あらすじをまとめてみたら、なんだか妙に無味乾燥な文章になってしまった。
 二つのことを伏せたまま話を進めてきたからだろうか。もちろん、<あえて>そうしたのだが、この作品の紹介に最も適した方法かどうかは分からない。だがその方が、未読のひとが実際に手にとったときの印象を強くしてくれるかなとは思っている。

 一つは、時代設定。この物語は、1966年夏の出来事を描く。薫の上だけ黒縁のメガネや、きっちり七三分けの髪型、千太郎のマドロスのような風体。いかにも「委員長」という風情の律子。そしてジャズセッション。みな、1960年代のものだ。けれど、この物語が1966年のものであることが作中で明かされるのは、第一話の最後のページだ。雑誌掲載時には煽り文句などに記されていたかもしれないが、単行本で初見の読者は、薫と千太郎の出会いを経て、彼の世界が大きく動き出す過程をいつの時代かよく分からないまま読み進めることとなる。

 先に「1966年」と説明してしまわないこの演出は、たぶん意図的なものだろう。「いま」の日本の私たちの日常とは、少しだけズレを持った世界に読者をいざないつつ、そのズレをかすかな違和感として持ったまま読ませる試みなのではないかと、ぼくは推測する。
 その「世界」とは、「大人」と「子供」の境界がいまよりもよほどくっきりと分かれた、「青春」が「青春」であるだけで価値を持った世界なのだと思う。1960年代の空気感がもうひとつ感じられないとか、60年代に時代設定をする必要があるのかといった批判や議論に対しては、この「ズレ」が維持されさえすれば、あとは捨象してもいいという潔さという言い方で擁護できるかもしれない。

 もうひとつの「言わずにいたこと」とは、「友情」を「恋」のように描いていることだ。
 この作品の鮮烈さは、おそらくここに宿っている。思い切って言ってしまえば、ここでは薫と律子の恋よりも、千太郎と百合香の恋よりも、薫と千太郎の友情のほうが、より濃い関係性、より強い「親密さ」として描かれているように思える。「愛情」や「友情」など個人間で相手を求める強い感情の上位概念のことを、ぼくはとりあえず「親密さ」と呼んでいる。恋人や親子や友人や仲間といった具体的な関係が何であれ、お互いに互いを大切に思い、また大切に思うことにより、自分自身の感情をあらためて知るような間柄に生まれる心理の総体を指して使っている。こなれていない言葉だけど、ほかに適当な単語を思いつけずにいる。

 たとえば、二巻の前半、百合香に一目ぼれした千太郎の恋を成就させるべく、千太郎の自宅で「作戦会議」をするシークエンス。薫は、内心では千太郎が百合香と出来てしまえば、自分が律子への思いを遂げる障害がなくなると目論んでいる。そこで描かれるのは、幼い弟妹と戯れる千太郎を見つめる薫のまなざしだ。そして「俺の気持ち わかってくれる 奴が近くに おるって知って」「安心したと かもしれん」と千太郎に言われ、薫は頬を赤らめ、うつむく。
 めくって次のページでは、薫の内語と発話が二重に書かれ、千太郎の気持ちを利用した己のずるさを恥じていると説明される。だが、薫の赤面や、そっと千太郎から目をそらす仕草は、自分に向けられたまっすぐな友情それ自体に照れているように見える。けれど、この描写は、まるで「恋」だ。

 もちろん、BL的な想像力に支えられているものには違いない。千太郎の身体の艶っぽさ、薫と千太郎の無邪気な身体的接触。さりげなく強調して描かれるそれは、女性から見た男性の身体のエロスだ。もとより、男同士の「友情」を「愛」と読み替えることはBLややおいの基礎である。この作品は「それ」をさらに広い読者に開く表現をなしえていると思う。薫と千太郎の間の友情は、「友情」としてしか描かれず、物語の骨格は片思いのすれ違いにある。彼らの性的な欲望は安定して常に女子に向けられている。つまりホモセクシャルな性的欲望は微塵も描かれない。だが私たちは「友情」が「恋」のように描かれるさまを目の当たりにする。そこで「友情」と「恋」の同質性を知らされるのである。(伊藤剛)

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