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おすすめマンガ時評『此れ読まずにナニを読む?』

第20回 『かむろば村へ』 いがらしみきお (小学館)

かむろば村へ 表紙

(C) いがらしみきお/小学館ビックコミック連載中

 いがらしみきおが「過激な」四コマギャグマンガを描いていたことを憶えているひとは、四十代以上に限られるだろうか。一般にはいがらしは『ぼのぼの』の作家である。よく知られているとおり、かわいくてちょっと風変わりな動物たちが森で戯れているさまを淡々と描いた、広い意味でファンタジックな作品だ。
 ぼくは自分の本『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』で、この『ぼのぼの』といがらしみきおのインタビューを取り上げた。1980年代から1990年代にかけて、「物語」が飽和してしまったという認識を持ちつつ、「それでもマンガを描く」という選択をしたマンガ家の例として言及したのだ。大きくまとめれば「物語」から「キャラ」へという変化への対応ということになるのだが、そこで参照した、90年代前半のいがらしの発言、そして90年代後半の『ぼのぼの』は、さらに後の東浩紀による「データベースモデル」を用いたポストモダン状況の説明をおそるべき正確さで予見したかのようなものだった。つまり、いがらしみきおとは、時代と表現に対してきわめて鋭敏な感覚を持った作家なのである。その鋭敏さは、おそらく現在でも変わらないだろう。

 さて、『かむろば村へ』である。2007年より小学館「ビッグコミック」で連載中のこの作品は、四コマではない。また、『ぼのぼの』のように、かわいい動物たちは登場しない。お金に触ることに「アレルギー」になってしまい、銀行をリストラされた青年が「お金を使わない暮らし」がしたくて、「かむろば村」に移り住み、村の人々と出会いながらどうにか暮らしていくというお話だ。シリアスともコメディともつかない、複雑な物語である。二巻帯の文句、「笑いながら 泣いた経験 ありますか?」は、その「複雑さ」をどうにか伝えようとした苦肉の策であろう。

 などと書くと、ひどく観念的な、入り込みにくい作品のようだが、そんなことはない。語り口は軽妙で、読んでいて楽しい。どこか間が抜けた感じでありながら、不思議な魅力を持った村の人々の描写にもいちいちおかしみがあり、エンターテインメントとして一級の仕事だと思う。
 「かむろば村」は、東北地方の寒村だ。ゴミの収集や警察などを隣の市に委託するような、過疎の村だ。主人公・高見武春は百万円で農家の廃屋を買い、やみくもに「お金を使わない暮らし」をしようとする。当然のことながら、田舎とはいえ現金を使わない生活が可能なはずはない。しかし、常識はずれに世話焼きな村長・ヨサブロのサポートを得て、どうにか生活をしていく。ほかにも、なぜか物々交換で飯を食わせてくれる「みんちゃん」の家や、自ら「神様」を名乗る老人「なかぬっさん」などの人々が次々と登場し、その人間関係の不思議なバランスのなか、酒乱で頑固で、結構お調子者の主人公は一銭も使わず生活を続ける。本人が作中で言うように、それは奇跡的なことだ。しかし、奇跡を奇跡とも思わせず、日常の延長と感じさせるところに、この作品の値打ちはある。

 このように、ユニークな点は多々あるけれど、登場人物の多さは特筆しておいていいと思う。「村」に住む少し変わった人々には、いちいち、いかにも「いそう」なリアリティがある。妙に眼がぱっちりした、オチョボ口のヨサブロ、なぜか弘兼憲史の描く熟女ふうに描かれているその妻の亜希子。主人公に田畑を貸してくれる老人、みよんつぁんと、アルツハイマーが進行しているその奥さん、そして、なかぬっさんの孫にして、実はヨサブロの種である怪幼児、進・・・・・・ キャラデザだけでなく、ちょっとした言葉使いや行動にも、いかにも「いそう」な感じがする。作者のよほどの人間観察の結果なのか、とも思う。血縁や過去の因縁を含めた粘っこい関係が彼らの背後に見え隠れすることもその理由だが、ここには田舎の「いま」が感じられるのだ。一方、ときに超自然的な存在を匂わせ、錯綜した血縁や過去の血腥い事件の記憶も登場するあたり、たとえば『ツイン・ピークス』を思わせもする。

 「かむろば村」は、都会と対比させられるようなユートピアではない。過疎に直面した行政の問題も抱えているし、ひとが一日暮せば必然的について回る生活の面倒もある。間違えてはいけないのは、この物語が、都会の資本主義的な生活に疲れ、そこから逃れた若者が、豊かな自然と親密な村落共同体によって癒されるという図式をなぞるものではないということだ。「かむろば村」のすぐ隣には、青石市というそれなりの規模の地方都市があり、人々は何かと用を足しに街へ出かける。つまり、この妙な「村」は、都市から切り離された異郷としてではなく、都市と地続きな「田舎」として描かれている。だからこそ、主人公が現金を使わずに暮していけることが、あるバランスの上に辛うじて成立する「不思議な」出来事として描かれうる。この「地続き感」は、田舎をユートピア視する見方に対して批評的ですらある。

 いがらしは、初期の「過激」とされた四コマ作品では、下品な下ネタや、モテずイケてない独身男性の怨みをベースにしたネタを展開しつつ、ときに虚無感すら伴うような、ものごとの「意味」を根底から疑わせるような「ギャグ」を発表してきた。その後、二年間の休筆の後、1986年に『ぼのぼの』が開始される。と同時に、『BUG がでる』なる連作では、まったく無意味としか思えないようなシーンを四コマや八コマという形式で描いてみせるという、ある種極北とも言える作品を発表してきた。さらに、四コマという形式から離れては、幼児の行動を淡々と、かつ不気味さとおかしさを同居させた形で描いた『三歳児くん』や、養護老人ホームを舞台に、老人たちのズレた言動や行動を描く『のぼるくんたち』といった、カルトな手触りの作品も発表している。

 その後、近年の「ホラー」の範疇に入る作品も含めて、「意味」を剥奪したり、ずらしたり、無化したりするような営みは一貫している。そうした怜悧な批評性が『かむろば村』でどこに向いているのかは、まだよく分からない。先にも記したように、ステレオタイプな「田舎」や、「田舎」と「都会」の対比に向けられていることは分かる。しかしそれは、この物語を成立させる前提にすぎない。この先、どのように展開するのか、あるいは、ドラマティックな「展開」など一切なく、ただただ登場人物たちがそこに「暮している」さまを記述するのか。いずれにせよ、ぼくにとっては、「笑いながら泣く」だけでなく、「考えさせる」作品として、『かむろば村へ』はある。(伊藤剛)

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